2015年08月10日

『ジュラシック・ワールド』

 以下の文章では、映画『ジュラシック・ワールド』の内容に触れています。ご了承ください。


 ふだんなら見ないような映画を見に行った。だって主役の声の吹替が、玉木宏くんなのだ。だから、わざわざ吹替版を見に行った。

 もちろん、娯楽大作だからうまく出来ている。孤島に作られた、生きた恐竜を見て、時には触ることもできるテーマパーク。利益を上げるために、どこでもありがちな「観客がより大きくてスリルのあるものを求めるから」という理由で、遺伝子操作により新種の恐竜が生み出され、それが逃げ出してパニックになる。
 遺伝子操作への不信、恐竜を生きた武器として使えないかと考える軍人、いざという時の危機管理の甘さ……しかし、それらの皮肉や批判は飾りのようなものだろう。
 一番の見ものは、恐竜が生きて動いているように見えるパーク内の風景なのだから。その風景をまさに「子どもの目」で見せてくれるのが、パーク内を巡る兄弟だ。そして、非常事態に対応するヒーロー、ヒロイン的役割を果たすのが、飼育係のオーウェン(クリス・プラット)と現場責任者のクレア(ブライス・ダラス・ハワード)になる。
 どちらかというと最初はクレアの視点から描かれるので、「オーウェン、早く出てこないかな(早く声が聞きたい)}と思ってしまった。
 実は、クレアとオーウェンはデートしたこともある仲。クレアがオーウェンの小屋みたいなところを尋ねる場面を見て、オーウェンは『チャタレイ夫人の恋人』の森番メラーズのようなイメージなのだと思った。人間よりも、人間以外の動物に近いような男。オーウェンは、恐竜のラプトルを赤ちゃんの頃から育てて、ある程度なら自分の言うことをきかせることに成功している。それが非常事態にも役立つわけだ。
 いくつかのスリリングな場面を経て、ちゃんと恐竜対恐竜のバトルも見せる。恐竜好きも満足するのではないだろうか。
 もちろん、オーウェンの声は素敵だ。すでに10年以上前の『タイムライン』から始まって、アニメの『マダガスカル』第1作から第3作まで、と吹替経験をしてきている玉木くんだ。声が良すぎる、なんて贅沢な不満は言わないことにしよう。  

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2015年07月31日

『世界の果ての通学路』

 以下の文章では、映画『世界の果ての通学路』の内容に触れています。ご了承ください。


 ドキュメンタリー。いや、言いたいことが決まっているという点では、自然をありのままに撮ったようなドキュメンタリーとは違うのだが。

 最初に字幕で「学校に通える幸せを忘れていませんか?」と出て、ほぼそれがテーマだと言える。
 ケニアに住む11歳の少年ジャクソン。学校まで11キロ。
 モロッコに住む12歳の少女ザヒラ。学校まで22キロ。
 アルゼンチンに住む11歳の少年カルロス。学校まで18キロ。
 インドに住む11歳の少年サミュエル。学校まで4キロ。
 ザヒラだけは寄宿舎に入っているので、月曜の朝に行くと、週末までは帰らない。他の子どもたちは毎日である。カルロスは妹と一緒に馬に乗って行く。サミュエルの4キロは他に比べると短いように感じられるかもしれないが、サミュエルは車椅子に乗っていて、弟二人が押したり引いたりしていくのだ。
 四人の話が並行して描かれる。馬に乗っていても山道は大変だし、自家製の車椅子は途中で壊れそうになる。待ち合わせて一緒に行く友達が足首が痛いと言い出し、ヒッチハイクしようとするが、なかなか乗せてもらえない。
 というようにどこでも苦労はあるのだが、もっとも印象的なのは、草原の15キロを2時間で行くケニアの少年だと思う。父は「象を避ける道」を教え、少年は連れていく妹に気を配りつつ「こっちを駆け抜けるぞ」「急げ」などと指示を出す。ケニアでは毎年4、5人の子どもが象の犠牲になる、とナレーションが入ると「野生動物の保護」という観点からとはまた別な、厳しい現実が見える。通学は文字通り旅であり、冒険なのだ。
 何のためにそこまでして学校へ通うのかと言えば、きちんと勉強して、将来なりたいもの(パイロットだったり医者だったり学校の先生だったり)になるため。「勉強したいなら頑張らないと」という言葉がこれほど嫌味なく聞こえる映画も珍しい。
 もちろん、学校には「勉強するところ」以上の魅力があるのだろう。サミュエルが到着すると、同級生が7、8人も寄ってきて車椅子を押していく。サミュエルを助けようというよりも、車椅子を押すのが楽しくて仕方がないというように。いい笑顔だった。  

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2015年07月08日

キューブリックの旧作

 以下の文章では、映画『非情の罠』『現金に体を張れ』の内容に触れています。ご了承ください。

 スタンリー・キューブリック監督の古い映画を放映していたので、見た。1955、1956年の映画。キューブリック作品というと、大作(上映時間も長い)というイメージがあるが、この2作は2時間もなく、モノクロ。どちらも犯罪映画。

 撮影にはこだわりが感じられる。『非情の罠』の主人公は、大事な試合に負けたボクサー。そのボクシングの試合は、さまざまな角度から執拗に映される。ビルの屋上での追っかけや、マネキン人形のたくさん置かれた倉庫内での闘いは見どころになっている。もやにかすむ高層ビルはゴシック建築のようにも見える。
『現金に体を張れ』は、競馬場から金を盗むという完璧に見えた計画が、情報がもれたこと等によって崩れていく様子を描いている。同じ時間帯の出来事が、別の人物から見た形で再構成されたりする描き方が面白い。ひとりだけは逃げおおせるのかと思ったら、飛び立つ寸前の空港での逆転。
 どちらも、犯罪ものの持つ、ヒリヒリするような感覚があって、鍵になる女(運命の女なのか、裏切る女なのか)も印象的。
『非情の罠』の中に「幸福で金が買えるか」というセリフがあって、面白いと思った。逆(「お金で幸福が買えるか」)は聞くけれども、こういう言い方もあるのか、と。
 おそらくこういう犯罪映画だけ作っていても、キューブリックにはそれなりのマニアックなファンはついたのではないか。スタイリッシュで驚かせるような場面もあって。しかし、やはり「世界の映画作家」と言われるようになるためには、もっと独特の、他には見られないような映画の誕生を待つしかなかったのだろうという気もした。  

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2015年06月26日

アジアハイウェイを行く

 以下の文章では、テレビ番組『アジアハイウェイを行く』の内容に触れています。ご了承ください。

 わりと真面目に見たテレビ番組(NHKのBSプレミアム)。
4月、5月、6月と3回に分けて90分ずつ放映された。旅人は井浦新。
俳優としてよりも(毎週見るもので)『日曜美術館』の司会としてのイメージが強くなってきた彼だが、写真も撮る。どんな写真を撮るのか見てみたかったのも、興味のひとつ。
 トルコから始まって、グルジア、アゼルバイジャン、イラン、イラク、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギスへ。
 トルコだけを旅行する番組も結構あったと思う。親日的、というのもたぶん本当なのだろう。バザールの、ある店主に日本語で話しかけられ、井浦さんもお宅にお邪魔したり。また、地方の貧しい若者がチェーン店のオーナーになるような夢が叶うのも、ここの首都イスタンブールなのだという話を聞いたりもする。
 グルジアを始め、かつてソ連に組み込まれていた国で聞かれるのは「独立してからは、宗教的儀式もできるようになった」「民族衣装も着られるようになった」と喜ぶ声。一方で、いきなりの独立の後に産業を興すのに苦労した国も多く、今も失業率の高いところもある。
 
 たとえば、芸術とか、何か一面に限るのならともかく、人々を様々な面からとらえようとするこういう番組では、旅人も大変だろう。都市の再開発のため自宅が壊されている途中、と語る男性に、何を言えばいいのか。
 井浦さんが希望を出して立ち寄ってもらったのは、1987年のイラン映画『友だちのうちはどこ?』に出てきた村。実は1990年の地震の後、復興のめどが立たずに住民は下の村へ移住したため、ここはがれきの山のままだった。
 かつて日本へ働きに行っていた、と言う男性にも出会うし、日本へ留学する予定、と言う女性にも出会う。出会いの旅のまとめは、やっぱりというか「家族」だった。実際、仲のいい家族が何組も出てきた。しかし不用意に政治的なことも言えないだろうし、そういうまとめ方しかしようがないだろうという気もした。
 さて、写真だが、あくまでこの番組の中で井浦さんの撮った写真と、いつも見ている『秘境ふれあい紀行』で玉木くんが撮る写真とを比べただけだが、ずいぶん違うものだと思った。まず、「家族」をまとめにしたことからもわかるように井浦さんの写真は、人物を撮ったものが多い。それも、きちんとこちらを向いて並んだ人たち。もちろん、いい顔で撮れている。面白いことに、数少ない風景写真(夜景やビル群)もまるで肖像写真のようにピタリと決まっている。ゆるぎない感じ。テレビの画面に合わせたのかもしれないが、圧倒的に横長の写真が多い。
 一方、『秘境ふれあい紀行』の写真は縦長が多く、風景が多い。人物写真は今のところ、鍛冶職人、うちわを作る女性(手だけ)、ケーブルカーを運転する男性(背中)。あくまでも移ろいゆくものの一瞬を撮った感じ。写真に関しては私はまったくの素人だが、こんなにも撮り方は違うんだということが感じられて面白かった。  

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2015年06月08日

「玉木宏の歴史タイムトリップスペシャル」

 以下の文章では、6月7日に放映された、同番組の内容に触れています。ご了承ください。

 タイトルは、このあと「戦後70年教科書から消された男~韮山反射炉を作った江川英龍~」と続く。長いよ。一回きりのスペシャルで、内容をできるだけ表そうとすると、どんどん付け加えられて長くなる……ということなのだろうけど。
 玉木くんがナビゲーターで、平田璃香子さんがレポーター。どう違うんだ? 東京から近い所は玉木くんが訪れて(伊豆までは行っている)、長崎などの遠い所や、新開発のタイムトリップビューに関する説明は平田さん、ということらしい。
 このタイムトリップビュー、メガネ式とタブレット状のものとがここでは出てきて、たとえば現在の日本橋に立ってそのメガネを通して風景を見ると、「江戸時代の日本橋(CGで合成されたもの)」が見えるという仕掛け。これを開発したのがフジテレビで、この番組はBSフジの番組。新技術を使って何か番組を作りたい、というあたりから発想されたのだろうか。フジテレビのあるのはお台場。台場というのは大砲を据える台だったことを知る人は少ないだろう。それを作る指揮をとった人、さらには世界遺産登録が勧告された韮山反射炉を作った人。ということで、江川英龍が取り上げられたのではないだろうか。
 この番組を見る前に、本を一冊読んだ。江川と中島三郎助と榎本武揚の三人について書いた『幕臣たちと技術立国』。
「技術」を取り入れ、定着・発展させることを優先した男たちの話。江川も確かに絵や詩文を学んだだけでなく、測地術、刀打ち、後には砲術を学んでいる。本を読んだ時に面白いと思ったのは、蘭学嫌いの幕臣に邪魔をされたり、せっかく西洋の砲術を取り入れた者が現れても、幕府の鉄砲方(役人)が自分たちの地位が脅かされると感じ評価しないあたり。こういう足の引っ張りで世に出られずに終わっていった人もいるのだろう。
 番組では、江川の仕事を紹介するのが主だから、そういう邪魔は描かれない。しかし実際の江川邸、彼が焼いたパンの再現(乾パンのようなものだが大きい)、彼が着ていた着物などが見られるのは興味深い。資料がたくさん残っているのは子孫の方たちが大切にしてきたからだろうし、江川が地元の人から愛された代官だったことも関係しているのだろう。
 番組は、江川の仕事ぶり・人間性をそつなく紹介する。あまり知られていないだけに「へえ~」と思うことも多いだろう。戦前の教科書には偉人として載っていたという江川。戦後消されたのは、韮山が大砲を作る所であり、陸軍の管轄であったことが影響しているとか。
 では、なぜ今、江川を取り上げるのか。
 幕末の海防を重視した男。今また日本は海防に努めるべきだ、という主張に利用されたら嫌だな、と思ったが、さすがにそうは言わなかった。未来を見つめた男、として2020年のオリンピックでお台場も会場になることと結びつけてまとめていた。そうか、フジテレビは東京オリンピック推し、だったっけ。
 ふだんはつぎはぎだらけの着物を着て、地元の農民に軍事訓練を施していた江川。歴史上、彼がもっともカッコ良かった場面は、イギリスのマリナー号が下田に居座った時に、門人、家臣、農民に揃いの軍服を着せ、自らも華やかな野袴と陣羽織に大小の刀を帯びて交渉し、退去させたことだろう。江川は170センチと当時としては長身、目の大きな男で、さぞ堂々としていただろう。
 しかし最も尊敬すべきは、座礁して帰れなくなったロシア船の乗員を全員救出させ、新しく日本で洋式の船を作らせ、そこに参加した日本の船大工にも技術が伝わるようにしたことだと思う。ロシアには感謝され、日本には技術が残った。「何を継ぐべきか」がわかっていた人と言える。
 玉木くんのセリフは与えられたものだろうから、本音が聞けるような番組とは違ったけれど、彼にとっても養分になったのなら、嬉しいことだ。
  

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2015年06月08日

『サンドラの週末』

 以下の文章では、映画『サンドラの週末』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 ダルデンヌ兄弟の作る映画には、いつも「こういう切り口があったか」と感心させられるのだが、今回もそうだ。
 体調不良から仕事を休職していたサンドラが、ようやく復帰できることになる。ところが、会社から電話。ボーナス支給のために一人解雇しなくてはならず、サンドラを解雇する、というのだ。同僚の一人は「あなたを復帰させるか、ボーナスか」という投票が行われ、主任が圧力をかけたと言う。家のローンがあり、子どもが二人いるサンドラは、「君の働きがないと困る」と言う夫にも励まされ、週末に同僚のところを回る。月曜日の再投票を取り付けたので、自分に投票してほしい、と頼むために。
 同僚の復帰か、ボーナスか。シビアな選択だが、起こり得ることだと思う。「サンドラがいなくてもやっていけることがわかった」「いや、残業が増えると困る」「でも残業代がもらえる」どれも本音だろう。
「君に投票する」と言ってくれるのは、かつて仕事上で助けられた人。主任に脅されたり強制されるのは嫌だから味方する、と言う人。一方で、どうしてもボーナスが欲しいから居留守を使って会わない人もいる。
「物乞いみたい」と渋るサンドラを励まし、手伝う夫は偉い。もしかすると、ダルデンヌ兄弟が創造した中で一番イイ男ではないだろうか。
 結果は、サンドラが言うように「善戦した」とだけ書いておこう。後味は悪くない。  

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2015年05月21日

本『幻肢』

 以下の文章では、『幻肢』の内容に触れています。ご了承ください。

 引き続き、島田荘司さんの作品を読んだ。
 事故や病気で手足を失った人は、たとえば腕がなくてもまだ爪先に痛みを感じる。それが幻肢。腕からの情報が伝わらなくても、脳はそう思い込む。
 医学生の雅人は、幻肢が起こる原因について、こんなことを言っていた。「手足を失ったら絶望して、精神障害を起こす人もいるかもしれない。それを防ぐために、脳はなくなった手足の幽霊を見せるんじゃないだろうか」「とすると、手足と同じくらい大切な人を失った時にも、脳はその人の幻を見せるんじゃないだろうか」
 雅人と付き合っていた遥は事故に遭って、記憶の一部を失う。どうやら雅人はその事故で死んだらしい。
 TMSという、脳を磁気刺激する治療を受けるうちに、遥の目の前に雅人が現れる。遥にしか見えない。
 最後近くになって真相が明かされるところとか、やはりミステリーっぽいと言えばそうなのだが、主人公が女性になると、その女性の容姿の描写はないのだな、と思った。
 愛する者が死んだ際に、人格破壊を防ぐために脳が幽霊を見せる、という考えは興味深い。
 もちろん、全くのでたらめを書いているわけではなく、現代では脳のどの部分がどういう働きをしているかがだんだん解明されてきているから、そういう説明もされている。
 大筋もだが、医学は薬に頼り過ぎていないか、断食をすると自己治癒力が上がって治る病気もある、ソメイヨシノはクローン桜だ、など作者の批判的な目を感じさせる小ネタも面白い。
 女主人公に寄り添って読む、というよりは、島田ブシを楽しむような気持ちで読んだ。  

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2015年05月20日

本『写楽 閉じた国の幻』

 以下の文章では、『写楽 閉じた国の幻』の内容に触れています。
ご了承ください。

 玉木宏くんが御手洗潔を演じる、と聞いてから、島田荘司さんの「御手洗潔シリーズ」は、かなり読んだ。島田さんには他にもシリーズものがあり、多作な人だが、御手洗モノを読むまで、私は島田作品を読んだことがないと思っていた……が、あった。昔、『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』を読んだのだ。漱石という実在の人物がホームズという架空の人物に出会う。というわけで、島田さんの作品はどこまで事実か、いや、そもそも小説に関してそんなことを言うのが無粋なのかもしれないが、これも「どこまで真実?」と思うような話だった。
 もっとも、写楽についての真実なんてよほどの証拠が出てこない限り、わからないだろうが。

 これも一種の謎解きだ。現代の、浮世絵研究をしてきて一冊だけ著書のある佐藤という男が「写楽とは何者か」を解明しようとする話と、江戸時代の真相を描く話が並行して描かれる。佐藤を手助けする女性の片桐が混血の美女だというのが島田作品らしいといえば、らしい(御手洗シリーズに登場するレオナも混血の美女だ)。
 作者自身があと書きに書いているように、現代編の話は完結していないし、話の発端になった作者不明の肉筆画は誰のものなのかという推理も披露されていない。が、この話はこれで成立しているし、面白い。
「誰が作者か」を推測していく方法を教えてくれるし(たとえば、写楽の絵は、歌麿と耳の描き方が似ている)、似ている点を比べようとすると、比較する作品の多い人になっていくから「写楽の正体はは北斎か歌麿」という説が多くなる。
 しかし、なぜ10か月で消えて、その後誰も「自分が写楽だ」と明かさなかったのか。それは明かせない人物が描いたからだ。明かせない人物が描いた絵を、版画にできるよう別の人物に「しきうつし」させ(だから「写す楽しみ」で「写楽」という名にする)、大々的に刷って売り出した蔦屋こそが冒険者だった。威張った役者には反発を感じ、誰の絵だろうと良いものは良いと判断し、大胆に勝負に出る蔦屋。
 そういう蔦屋の人物像と、あり得ないようなことを周りから証拠を固めてゆく過程は、確かに推理小説に似ていた。  

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2015年05月02日

『パレードへようこそ』

 以下の文章では、映画『パレードへようこそ』の内容に触れています。ご了承ください。

 話の舞台になっているのは、1984年のイギリス。炭鉱労働者のストライキが長引いている頃。
 ゲイ・パレードに参加していたマークは、炭鉱夫ストのニュースをテレビで見て「彼らの敵はサッチャーと警官。僕らと同じだ。応援しよう」と、「炭鉱労働者を応援するレズビアンとゲイのグループ」を9人で結成。集めたお金を送ろうとしても、炭鉱労働者組合からは、グループ名を言っただけで断られる。それなら、と直接ウェールズのディライス炭鉱に電話をかけ、お金を送る。
 多額の支援金にお礼を言おうとロンドンへ出てきたディライスの労働者代表のダイは、彼らがレズビアンとゲイのグループだと知って驚くが、偏見なく、彼らの集まる店でお礼を言う。
 ディライスに招かれたマークたちは、驚かれながらも交流を深めていく。もちろん、偏見を持つ人もいる。しかしダンスや音楽を通じて彼らに親しみを感じる人もいる。
「不当に扱われている者どうしが連帯する」と言葉にすると気恥ずかしくなるような話が、笑いを交えて展開される。ゲイであることをカミングアウトする男性、エイズのこと等も取り入れながら。
 そつが無さ過ぎる、と言いたいくらいだが、ゲイたちのパレードに炭鉱夫たちが大挙して参加するクライマックスは感動的。  

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2015年04月21日

素晴らしき日曜日

 以下の文章では、映画『素晴らしき日曜日』の内容に触れています。ご了承ください。


 古い映画(これは1947年作)を見る面白さの一つに、今との違いを見る、ということがある。
 ここでは、ポスターや看板の横書きの文字に左から書かれたものと、右から書かれたものが混在している。また、男女の言葉遣いで「今は言わないな」と思ったものがあった。女性の「おあがんなさい」「~なっちまったわねぇ」、男性の「~なんだぜ」という言い方は、現在ではほぼ遣わないだろう。
 休日とはいえ、スーツにコート、女性もきっちりコートを着ているのも「カジュアルファッション」というものが存在しなかった頃を思わせる。もっともこの二人はお金がないのだから、くたびれてはいても仕事に行く時と同じような服装でデートするのも当然かもしれない(おっと、ここでは「デート」ではなく「ランデブー」という語が遣われていた)。
 そう、「お金のない二人」というのがポイント。正確に言うと、男が15円、女が20円持っている。二人合わせて35円で過ごそうというわけだ。
 どこへ行くか。まず行ったのは住宅展示場。この手は現在でも使えそうだ。そこで会った別の二人連れに聞いて、貸間を見に行くが、条件が悪くて断念。それから野球をしている子どもたちに男が入れてもらって打ったはいいが、饅頭屋に飛び込んで、当たって潰れたのを買わされる。男がこないだ会った元戦友がキャバレーをやっているんだと話し、女が見学させてもらってよ、と言うが、追い払われる。線路脇に座って女の作ってきたおにぎりを食べていると、浮浪児が現れる。女はおにぎりを一つやるが、暗い気持ちになる。気を取り直して動物園に行くと、キリン、猿、ラクダなどはいるが、ライオンの檻には代わりに豚が入っている。雨に降られ、雨宿りをした所で見つけたポスターに、ちょうど今から間に合う音楽会(シューベルトの『未完成』)がB席10円とあるのを見て、行列に並ぶが売り切れる。15円で売るダフ屋に男が喧嘩を売って殴られる。男は下宿に戻り、女もついてくる。男は女を抱きたいが、女はそれは……というやり取り。晴れてきて再び出かけ喫茶店に入るが、お金が足りなくて男はコートを置いてくる。
 長々と書いたが、少しウキウキした楽しい気分になると、それを打ち消されるような、上がり下がりが続くのだ。
 焼け跡で「二人でベーカリーをやろう」と夢を語った後、誰もいない屋外音楽堂で、男が指揮者の真似をするところがクライマックス。音楽会に行けなかったので、ここで『未完成』を聴かせる、というのだ。
「本当に聴こえるかな」「きっと聴こえるわ」というやり取りの後に、女がこちらに向かって「拍手を贈ってください」と呼びかけるのが面白い。そして、音楽が鳴り始める……
 アップダウンの繰り返しの後に、オーケストラのいない所に音楽が鳴り響く。それは映画でしかできないマジックだ。貧しい恋人たちを幸せにするためにこそ映画のマジックは使われるべきだ、と言いたいのかなと思った。  

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2015年04月17日

『マジック・イン・ムーンライト』感想

 以下の文章では、映画『マジック・イン・ムーンライト』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 可愛い話だ。ウディ・アレンの映画にしては、珍しく題名もロマンチック。もちろん、アレンは大ベテランだし、主演のコリン・ファースだってそうなのだが、軽くて楽しいコメディ。

 最近は「現代のニューヨーク」を舞台にすることにはこだわらなくなったアレン。今回の舞台は、1920年代の南フランス。上流の屋敷が舞台だから、男はジャケット、女はドレスかワンピース。画面はとても美しい。
 マジックには必ずタネがある、と超能力など信じない英国人マジシャンのスタンリー。「金持ちの夫人が霊能力者を名乗る女性に騙されているから、彼女がニセ者だと暴いてやってくれないか」という友人の依頼を受け、その屋敷に滞在することに。友人もマジシャンなのだが、「僕には見抜けなかった」と言うのだ。現れた霊能力者ソフィは魅力的な女性。しかもスタンリーのことを次々に言い当てる……
 ロマンティック・コメディの定番というか、彼女を怪しんでいたスタンリーは、どんどんソフィに惹かれていく。彼女には本当に超能力があるのか?
 アレン映画のほとんどがそうであるように、主人公の男性はどこかアレンに似ている。頭が良くて皮肉屋でよくしゃべる。教養のない人には、こうするといい、ああするといい、とあれこれ教えたがる。
 合理的には割り切れない何か――それが恋の魔法、ということになるのだろうけれど、それはいくら毒舌であってもスタンリー役コリン・ファースが魅力的で、ソフィを演じるエマ・ストーンも可愛いから成り立つこと。
 ちょっと『マイ・フェア・レディ』を思わせる要素も取り入れつつ、きれいにまとめている。「夢のような話」と言っても、たとえば『カイロの紫のバラ』に見られたような苦さはほとんどなく、だから可愛い話だと思ったのだ。
 コリン・ファースが50歳を過ぎてから、こんなロマンチックな役をやるとは思わなかった。もっとも、この内容なら、10年くらい前のヒュー・グラントにやってほしかったなぁと思わなくもないけれど。  

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2015年04月13日

『悲しみよこんにちは』

 以下の文章では、映画『悲しみよこんにちは』の内容・結末に触れています。ご了承ください。


 サガンの小説を読んだことはあるが、映画は見たことがなかった。NHKのBSで放映されたので、見た。
 今見ると、「きちんと作られた昔の映画」という感じがする。
 その「きちんと作られた」感を与えるのは、女優さんと演じるキャラに合わせてぴったりに作られたドレスだったり、寝起きでもきれいな女優さんだったり、要所に散りばめられたしゃれたセリフだったりするのだが。
 現在のパリの夜が白黒で、去年の夏のリビエラでの出来事がカラーで描かれる回想形式だということも、初めて知った。
 セシルを演じるジーン・セバーグの美しさにまず惹かれる。もちろん、セシルはただの美少女ではない。実の父と名前で呼び合い、父が恋愛を楽しんでいるうちはそれに賛成しているけれど、結婚(再婚)となると動揺し、ましてやその相手が自分にまで説教めいたことを言い始めると反発する。
 フランス映画では、実の娘が父に憧れるというパターンは見たことがある。すぐに思い浮かぶのは実際の父娘だったシャルロットとセルジュ・ゲンズブールだろう。ただ、『悲しみよこんにちは』は1958年作のアメリカ映画である。そういう時代のせいもあるのか、父娘の間にはそれほど危ない雰囲気は漂わせない。
 娘の反発は、むしろ、遊びも恋愛もギャンブルも「軽い」ものであるべきだと思っていた二人の世界に「結婚」というシリアスで重いものを持ち込もうとした父を懲らしめたい、というくらいの軽いものだったようにも見える。
 おそらく、ちょっとしたイタズラくらいの気持ちから引き起こされたことに、父の婚約者アンヌは、まともに反応する。
 アンヌが死んだ後、残された父娘はどうするのか。現在のパリの場面で見る限り、二人は相変わらず「軽い」生活を続けていくしかないように見える。そしてそれがこの映画の作り手が二人に与えた罰のようにも見える。
 ただし、その罰のような生活は、おそらく映画封切り当時の日本人には羨ましく見えるくらいのものだっただろう。今でもそうかもしれない。そのことが、この映画の印象を曖昧なものにしているようにも感じられる。  

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2015年03月29日

『残念な夫。』感想 その②

 以下の文章では、連続テレビドラマ『残念な夫。』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 玉木宏くんのファンにとって昨年10月から半年間続いた、嬉しくも忙しい時期がひとまず終了した。

 1月から3月まで10回放映された『残念な夫。』
 題名からもわかるように、ここで玉木くんが演じた陽一は、カッコイイ男ではない。だが仕事はできる、お人好し、周りからも好かれるという長所はある。
「子どもが泣いていても自分であやさず、妻を呼ぶ」「ウンチのオムツは替えられない」といった残念さから始まって、会社の同僚の女性に好かれたのが災い、浮気疑惑に、部下に金を貸したことも重なって、一気に離婚の危機に陥る。陽一以外にも、娘の育児を全くしなかったために妻に見離されている細井、一見完璧な夫だが実は妻に暴力をふるっていた須藤という残念な夫たちが登場する。
 結末から言うと、それぞれの夫たちは少し変わろうと努力し、また妻のほうも変わっていくのだが、陽一以外の夫たちの残念さは、回を重ねるごとに少しずつ重みを増していく感じだった。
 最初は本当に陽一とその妻の知里、二人の子どもである赤ちゃんの華ちゃん、それに陽一の母と知里の父がしょちゅう乱入していたので、「このドタバタのままで最後まで行けるんだろうか」と気がかりにもなった。
 実際のところ、常に前面に「笑い」を押し出しながら、全体のストーリーを進めるのは大変だと思う。『残念な夫。』も、最終回では「笑い」は控えめになっていた。
 脚本は、山﨑宇子と阿相クミコ。山﨑宇子は『結婚しない』の脚本を坂口理子と共同で書いていた人。
 実は今回、一番心配だったのはこの脚本だったのだが、ストーリーの大きな流れには矛盾がなかったのでホッとした。常に二人の名が出ていた『結婚しない』と違って、今回は第5話、7話、9話が阿相脚本で、他の回は山﨑脚本。もちろん、基本の設定は合わせた上で書いているのだろうが、なぜか阿相脚本の時の陽一のほうがよりアホっぽい気がした。
 出演者の演技は自然で、コメディが上手だった。玉木くんはあれでも6割くらいに抑えていた「らしいが、それで正解。10割にしたら、やり過ぎ。倉科カナさんがこんなにコメディ演技が上手だというのも初めて認識した。ちょっともったいなかったのは、陽一の部下役の林遣都くん。田中圭くんがあれだけしか出てこない(知里の元カレの役)のにも驚いたが、そういう意味では贅沢な使い方だったとも言える。
 このドラマに「妻のことをわかっていない夫について、世間の関心を引き寄せたい」という目的があったのだとしたら、そこまで話題にならなかったという点では失敗だろう。「子育てコメディ」という時点で、見る人は限られる。恋愛に夢見る人は多くても、子育てに夢見る人はそう多くはないだろう。あえてそれをやったチャレンジ精神を認めるか、視聴率が上がらなかったからダメと切り捨てるか、で評価は変わってくると思う。
 ただ、私にとっては、玉木くんの持つ「安心感」を再認識するドラマになった。もちろん、俳優さんは見る側に不穏や不安を与えることも仕事のうちかもしれないけれど、たとえ、ハッピーエンディングでなかったとしても、玉木くんなら見事に着地を決めてくれるだろうという期待と、それに応える力。最後まで、安心して見続けることができるというのも、俳優さんの実力のうちではないだろうか。  

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2015年03月26日

『残念な夫。』感想

 以下の文章では、テレビの連続ドラマ『残念な夫。』の内容・結末に触れています。ご了承ください。


 男性が、謙遜のつもりなのか本音なのか、「男なんて、しょせん女のてのひらの上で踊らされているようなものですよ」というニュアンスのことを言う時がある。『残念な夫。』終盤の離婚騒ぎを見ていて、そういうことだったのか、陽一、結局、妻の知里のてのひらの上で踊らされていた?とふと思った。もう一度、本当に「父親」になる気があるのか?と確認されていたんじゃないのかと。
 というのは浮気(?)がバレてから離婚調停までの知里は、とても感情的になっているように描かれているけれど、裏ではそうではなかったのではないかと思えるフシがあるからだ。
 第一回の調停の時、知里は調停委員に「これが送られてきたんです」と浮気相手から送られてきた陽一の写真(だと思う。画面には映らない)を見せる。当たり前だが陽一の相手は、陽一のスマホにそれを送ったのだ。陽一がスマホを自宅に置き忘れ(どこへ行ったかと探していたのだが、出勤時刻になって、仕方なくそのまま出た)その後、娘の華ちゃんがそれをいじっているのを知里が見つけるという展開だった。知里がそのまま陽一のスマホを取り上げたとは考えにくいので、わざわざ自分のスマホに転送して保存しておいたということなのだろう。証拠として? ずいぶん用意周到ではないか。
 また、最終話になって、知里が実家に帰る前に、浮気相手に会っていたことがわかるのだが、そこでは感情的になることなく、冷静に話している。そもそも会うためには、やっぱり陽一のスマホから連絡先を控えておいたのだろう。これも用意周到。
 だから、あの調停とその前における知里の感情的な話し方は、もしかして陽一にもっと考え直してほしかったからで、心から離婚を望んでいたわけではないのでは?
 もう少し理屈をこねるなら、離婚を決意していたのなら、なぜすぐに働き口くを探そうとしなかったのだろうという疑問もある。
 現・夫からの再プロポーズ。お礼の言葉。もちろん、知里のほうからもそれは言うわけだけれど、やっぱり夫にそう言わせたくて、そこまでの行動をしていたんじゃないのか?という気もする……
 もちろん、このエンディングを否定するわけではない。後味のいい終わり方でよかったと思う。  

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2015年03月23日

『妻への家路』

 以下の文章では、映画『妻への家路』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

「文化大革命に引き裂かれて20年、再会した妻は夫の記憶を失くしていた。」というのがチラシに書いてあった言葉だが、これは正確ではない。20年ずっと離れっ放しではなく、途中で一度、夫は逃げ出してきたのだ。しかし扉をたたく音を聞いて、妻は鍵を開けなかった。夫は明日、駅で待つから、とメモを残すが、当時の教育を真面目に受けていた娘は、それを密告する。妻は駅に行くが、目の前で夫は連れ去られる。
 さて夫が正式に解放されて帰ってくると、妻は「二度とあの人を締め出したりしないように」と鍵をかけずに暮らしている。娘のことは許せず追い出して、娘は勤め先の寮にいる。そして、帰ってきた夫のことを夫だと認識しない。
 そこから夫の苦心が始まる。まず、妻が自分の出した「5日に帰る」という手紙を信じていることを知り、5日に駅にやってくる。今着いたばかりのようにして妻の前に現れるが、妻はやはり夫のことをわからない。
 そこで夫としてではなく、妻を手助けする。「夫が帰ってくるまでにピアノの調律をしたい」と聞くと、調律のにわか勉強をしてそれをやる。そうしてピアノでたぶん懐かしい曲か何かを弾く。ピアノを弾く夫の背に妻は近づく。しかし、夫が振り返るとやはりダメ。
 書いても出せなかった手紙がまとまって荷物として届く。目が悪くなって読みづらいという妻に、夫はそれを読んでやる。その手紙の中に自分の願いをすべり込ませて、娘を許してやるように言うと、それには妻は素直に従う。しかし夫はこのままでは自分は「手紙を読む人」になってしまうと焦る。そこから一歩踏み込もうとすると、激しく拒絶される。
 いい関係が結ばれたのかと思うと、またダメで……ということの繰り返しが描かれた後、一気に歳月が過ぎたラスト。夫は妻と一緒に「待つ人」になっている。夫の側からしたらもどかしくてたまらないかもしれないが、素直に受け入れられる結末だった。妻を愛し続けているのなら、たぶんこういう結末しかないのだろう。
   

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2015年03月23日

『はじまりのうた』

 以下の文章では、映画『はじまりのうた』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 最近またテレビで『ONCE ダブリンの街角で』を見て、素朴でいいよねと思ったこともあって、同じ監督の新作であるこれを見に行った。今度はダブリンではなく、ニューヨークが舞台。その街のあちこちでロケをしているという点では、前作以上に「街が主役」の映画なのかもしれない。
 ただし、ここには『ONCE』を見た時のような、意外な拾い物をしたような喜びはあまりない。男と女が音楽を介して心を通わせながら恋人どうしにはならずにそれぞれの道を行く、というのは『ONCE』の時には新鮮な感じがしたが、今回は「そうなるのだろうな」と予想できてしまうからだ。
 名前と顔を知られた俳優さんが出ているから、「もしかしてこの人たちは、ほんとうにこういう生活を送っているのかも」と思わせる力も弱い。主人公のグレタがギターを弾き歌う場面では、どうしても「キーラ・ナイトレイがギターを弾き歌っている」と見てしまうからだ。ただし、ニューヨークの街のあちこちで演奏して録音する場面では、「なるほどニューヨークでなら、こんなこともできるのかもしれないなぁ」と思わされた。こちらが漠然と持っているニューヨークのイメージ――雑然としていて自由で――にハマるからだろう。
 そこがこの映画の一番の見所だ、と言ってしまえばそうかもしれない。そして主人公たちが、現代では特に有名レコード会社に頼ったりしなくても、自分たちの音楽を世に出せることを示して見せるのも小気味良い。もっともそれだって、今までの人間関係に頼ってはいるのだが。  

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2015年03月10日

『天才探偵ミタライ 傘を折る女』感想

 まず、前の記事のタイトルが変で、すみませんでした。正しくは「~化で気になること」でした。なお、今回も取り上げますが、ドラマの正式タイトルはもっと長いです。省略しておりますが、すみません。
 そして当然、今回はドラマの内容・結末に触れております。ご了承ください。


 さて、ドラマを見て。まず気にかかっていた点から言うと、バスジャック事件は上手に処理されていた。1人だけ逃げた乗客は自分を正当化し言いふらし、自分のスナックの客にも自慢していた。しかし、彼女が逃げたことで怒った犯人は、乗客の1人を殺す。逃げた女は「私が知らせたから犠牲が1人で済んだ」と主張するが、「彼女が逃げたから1人が殺された」と考えるバスの運転手は、殺された客の娘に、バス内で起こったことを話す。ただ、原作では1人犠牲者だけが名前を明らかにされてプライバシーを踏みにじられたことへの怒りがもっとあったと思う(犯人も少年だったため、名前は公表されなかった)。そういう面ももっと出せば、社会批判の趣も出たのに。
 殺される側に非難される点があり、殺す側への同情を誘うというのは、ドラマではよくある手法だろう。もちろん原作にもそういうところはあるのだが、ドラマではいっそう強調されている。殺人犯となった女性の着ていた白いワンピースが、まるで彼女の罪のなさを象徴するものとして用いられているようにも見えてくる。
 ミステリーマニアから見れば、細かい点での不満はあるかもしれないが、謎解きは原作通りだし、その謎で話を引っ張っていく力もあった。
 ストーリー以外で注目されるのは人物像だろう。そもそもこんなに長く映像化されなかったのは、御手洗潔という人物を表現するのが難しいという理由もあったわけだから。30年以上にわたって書き継がれてきたため、御手洗の性格も変化し、複雑になっているが、基本的に(能力が高いため)上から目線でものを言うし、変人と思われやすい。実生活上では、同居している石岡和己にほぼ依存している。
 いきなり変人として登場すると、特にテレビでは嫌われるかもしれないし、『傘を折る女』の原作では御手洗はさほど変なところは見せない、ということもあって、ソフトではあるが原作の御手洗らしさは映像化されていたと思う。
 石岡が、御手洗の興味を惹きそうな話をしても、初めは本を読んだままでいること。初対面の女性刑事をじろじろ見て、彼女の最近の状況を言い当てる場面。昼食をどうするか石岡に聞かれて「君の作る和食がいい」と御手洗が答え、石岡が出版社との打ち合わせがあるので今日はちょっと無理だと答えると「じゃあ、もういい」と食べずに済ませるところ。特にこの昼食に関するやり取りは、御手洗が実生活でいかに石岡に頼っているかということや、熱中すると食事をとらなくなるということを表していて巧い。
 たぶん「天才御手洗にしては、謎解きに時間がかかり過ぎ」という不満を抱く人もいるだろうが、御手洗の中では解決されていても、直接犯人と会って話をするために時間を稼いでいたという説明もできる。そういうことも合わせて上手にドラマにしてあった。
 事件の舞台を御手洗の住む近くにしたのは、その地域の刑事たちを含め、シリーズ化を狙っているからだと思う。あのカッコイイタイトルが一度きりで終わるのは残念なので、是非続きをお願いしたい。


   

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2015年03月05日

『傘を折る女』ドラマ化出来になること

 以下の文章では、2015年3月7日放映予定のドラマ『傘を折る女』について筆者が「ここはどうなるのかな?」と思うことを書いています。白紙でドラマをご覧になりたい方はお読みにならないでください。


 原作では ラジオで聞いた話・後には刑事から聞いた現場の様子から推理が進む。つまり探偵は、現場には行っていない。予告を見る限り、ドラマではそうではなく探偵たちも現場に行くらしい。ということは「離れたところにいて真実を言い当てる」という天才的なワザを見せる話ではなくなるわけだ。そのへんをどうしてあるのか。
 原作では犯行の場所は名古屋近郊。これも変更されているのだろうか。

 93年を舞台にした原作だが、ドラマの舞台は「現代」になっている様子。それで不自然にならないようにうまく変更してあるのか。

 原作を読んだ時から少し疑問だったのは、バスジャックされたバスの運転手が途中で1人だけ降りた乗客の名前を知っていたこと。なぜ
? 1 よほど何度も利用したことのある客で顔なじみだった。
  2 この乗客は客商売なので、運転手さんにも「近くに来たら寄ってね」と店の名前と自分の名前の入った名刺を渡していた。
 これくらいしか私には考えられないのだが。

 そしてバスの運転手から聞いた名前をもとに新聞記者がその乗客の素性を探って記事にする。展開から考えると、探偵側もその記事を読んでいて、バスジャックの時に何が起こったか知っているということになるのだろう。
 小説の中にはその記事は具体的には書かれていないので、これはドラマではどういう記事だったのか説明されるのか?
 またたぶん新聞記者というよりは週刊誌の記者になりそうな気がするが、どうなのか。

 とりあえず、そんなあたりがどう上手に処理されて不自然でないものになるのか を見てみたいと思う。  

Posted by mc1479 at 07:18Comments(0)TrackBack(0)

2015年02月24日

「ジミー、野を駆ける伝説」

 以下の文章では、映画「ジミー、野を駆ける伝説」の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 変わることなく「ケン・ローチの映画」としか言いようのない映画を作り続けているケン・ローチの新作。
 体制には不適合な人々を描くことが多く、だから挫折や敗北の色が濃いのだが、にも関わらず郷愁を誘うような温かさがある。というのが、私の勝手にイメージする「ケン・ローチの映画」なのだが、ここでもそういう感じ。
 1932年、アメリカで暮らしていた(逃走していた、というのが正しいのか?)ジミー・グラルトンが、アイルランドの故郷に戻ってくる。かつてジミーはそこにホールを建て、仲間を集め、それぞれが分担して歌やダンスや絵などをボランティアで教えていた。そのことを伝え聞いていた若者たちが、それを再開してほしいと願う。かつての仲間に新しい若い仲間が加わって活動は再開され、ホールは賑わう。
 しかし教会はそれを好まない。神の名のもとではなく人々が集い、低俗な音楽やダンスで欲望をかき立てる、とにらむ。さらに、ジミーは共産主義者だと思われている。富裕層の地主にとっては、彼が多くの人を束ねる力を持つのは脅威だ。
 ジミーは教会を敵に回すのは得ではないと考え、司祭に「ホールを運営する委員になってほしい」と提案するのだが、司祭は運営のすべての権限を任されるのでなくては承諾しないと言う。ジミーは「あなたは膝まずく者しか救わない」と言って決別する。
 結局、ホールは不審火で焼け、ジミーは国外追放になる。その日、ジミーを護送する車を、若い人たちが自転車に乗って追う。口汚くジミーをののしる地主たちを司祭は止め、「君らよりよほど骨のある男だ」と言う。

 こういう映画を見ると、とても本物らしい、と思うのだが、それはなぜかを説明するのは難しい。ジミーを演じるバリー・ウォードをはじめ、すべての俳優さんたちを私が知らないからだろうか。昔ジミーとつきあっていた女性も、今ジミーに憧れているらしい若い女性も、モデル体型ではなく、ややぽっちゃり型だから、リアルに見えるのだろうか。いや、やはり感動をあおり強制することのない、抑制された表現によるのか。楽しくはないかもしれないけれど、見て満足のいく映画だというのは確かだろう。  

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2015年02月16日

『玉木宏の秘境ふれあい紀行』感想

 以下の文章ではテレビ番組『玉木宏の秘境ふれあい紀行』について触れています。具体的な地名は出ておりませんが、まだこの番組を見たことがなく、真っ白な状態で見てみたい、という方はお読みにならないほうが良いかもしれません。

 この番組が始まると聞いた時、「ドラマの収録だけでも忙しいのに、紀行番組なんて出来るのだろうか」と思ったが、スタッフが下準備をしてくれているのだろう。本当に偶然出会う人もいるが、お店や自宅にお邪魔する場合は連絡してあるらしい。ただ、誰が訪れるのかまでは言っていないようだけど……そんなわけで「玉木さんですよね」「わあ、玉木さん!」というような反応も起きる。
 BS朝日の放映である。地上波の紀行番組というと、絶えず話すか食べるかという印象もあるのだが、衛星放送だとそうでもないのか、音楽も人の声も入らずに風景を映している時もあって、やかましくない旅番組だ。月に2回、新しい放映があって、あとの2回は再放映。というのんびりしたペースで、この2月にようやく10箇所を巡ったことになる。
「秘境」の定義は難しい。純粋に人の手が入っていない所など、なさそうだ。日本では、かなり隅々までもが観光地として整備されてきたのだな、とあらためて思う。滝にしてもそこへ行くまでの道は整えられていて、氷穴の中にも通路はある。ふだんめったに行かないそういう場所にたたずむ玉木くんを見るだけで、美しいから見るかいがある。
 面白いのは、地元の人たちの本音だろう。廃線になった線路のそばに住む人に「寂しいですか」と聞けば「別に寂しいことはない」と言われるし、「この村は好きですか」と聞いて「好きでも嫌いでも、もうじきあの世行きだから」と返されたこともある。別に怒っているわけでもなく、淡々と、あるいは笑いながらそう言われるのだが。
 山登り、墨絵を描く、草木染め、そば打ち……と玉木くんがいろいろ挑戦してくれるのは、ファンには楽しい。こういう手作業は好きなのだろうな、ということが伝わってくる。そして、カメラ。毎回、ここぞというベストショットを撮ってくる。
 よくぞこんなものが残っている、と感心させられることもあるし、興味を引かれることも多いけれど、あえて言うなら番組の持ち味は、ちょっとした寂しさだと思う。もっと言うなら、どこかに滅びの色が見える。かつて玉木くんのお父さんが通っていた小学校は廃校になっているし、全児童数7名の小学校を訪れたこともあった。山の上に1人住むお年寄りのために福祉モノレールが設置されていたり、「今、これを作り続けているのは1人だけ」というその1人が90代の人だったりする。近い将来に必ずくるだろう「終わり」を予感しているような、それでも今はまだ郷愁を誘うようなふれあい。
 もちろん、働き盛りに脱サラして自然豊富な土地に移り住んだという人も登場するし、昔からの伝統技術を受け継ぐ若い世代がいる場合もある。しかし全体としては、どこか「終末」的な色合いを漂わせながら、レトロな風景の中に玉木くんがいることが多い。10年たったら、ここで歩いた村のいくつかは、本当に消滅しているかもしれない。ふっとそういう感じも抱かせる番組でもある。  

Posted by mc1479 at 09:23Comments(0)TrackBack(0)
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