2013年01月29日

『銅雀台』をDVDで見て

以下の文章では映画『銅雀台』の内容・結末に触れています。ご了承ください。なお、見たのは、アメリカ版DVDです。

 玉木宏見たさに見た。『三国志』には詳しくない。というわけでこれから書く文章には偏りがあると思う。英語字幕付きで見たので、二人の若い恋人たちの名前の表記は、ムウシュン、リンジウとさせてもらう。

 いきなりさらわれる子供たち。彼らは閉じ込められ、訓練され、曹操の暗殺者になるように育てられる――その中にいるのが、ムウシュンとリンジウ。ちなみに英語タイトルは『暗殺者たち』。曹操の愛妾になったリンジウの目を通して、物語の大半は語られる。
 玉木のムウシュンは、カッコイイ役ではある。通常、宦官というのはイメージのよくない役であるらしいのだが、ムウシュンは潔く美しく、リンジウとの悲恋の主人公である。

 ここでの玉木の役は一見、かつて彼が『殴者』や『ただ、君を愛してる』で演じた役に近いように思われる。女に人生を(生死を)左右される男。ただし、暗殺者なのだから、倒すべき権力者がいる点は、もちろん違う。
 女・リンジウは曹操に仕えるうちに、曹操なりの理屈や理想を知り、同時に外部からの攻撃ではなかなか彼を倒せないこと、つまり曹操を暗殺するとしたら自分しかないのでは、と思うようにもなってゆく。男・ムウシュンは、リンジウを幸せにするのは曹操しかいないのでは、と考え始める――自分には、彼女の望むような平和な生活を与えることはできないが、曹操ならできる、と。

 暗殺未遂事件としては、前半の忍者みたいなのが活躍するアクションや、終盤の大人数入り乱れての斬り合いのほうが派手な見せ場なので、ムウシュンとリンジウによる暗殺未遂は、その中の1エピソードにすぎないようにも見える。
 
 この二人が他の暗殺者たちと違うのは、自ら死を選ぶことだろう。曹操はムウシュンを逃がしてやってもいいと思っていたのだが、彼は曹操の身代わりになり(鎧を借り)、おとりとなって死ぬ。刺したのはなんとリンジウで、嘆く彼女は、曹操が身の安全を保障すると言うにも関わらず、ムウシュンの亡骸と共に、崖から身を投げる。

 殺そうとして反撃して殺される、のではなく自ら死を選ぶ。
 たとえば「王朝のために」曹操を殺そうとして自分も殺されるのは、大義のために死んだ、ということになるのだろう。この二人は大義のためには死なない。互いのために死ぬ。ムウシュンは彼女のためなら死ぬと言い(リンジウの安全を曹操に約束させる)、リンジウはムウシュンのいない生には意味がないと思う。「ただ生きる」「生き続ける」のはムウシュンがリンジウに望んだことだが、そうはできなかったわけだ。

 そうすると、映画の作り手が、大義や理想を掲げて殺し殺される人々の中に、そうではない二人を入れたかった理由がわかるような気がする。一種の清涼剤として。あるいは「生きる意味」を求める個人として。

 しかし、二人は一面、すごい反逆者であるのかもしれない。強大な権力を持つ男がその生を保障してやる、と言っているのに、それに逆らうのだから。
 そういう骨のある役を演じられたのは、玉木宏にとって良いことだったと思う。これでもう少したくさん出てきてくれたら、言うことないのだけれど。
  

Posted by mc1479 at 10:56Comments(2)TrackBack(0)

2013年01月27日

青山七恵『ひとり日和』『かけら・欅の部屋・山猫』

 青山七恵の『ひとり日和』と『かけら』を続けて読むと、作者の年齢の重ね方が垣間見えるようで面白い。
『ひとり日和」の作者は、明らかに語り手の「わたし(三田知寿)に寄り添って書いている。高校を出て、バイト中。親戚のおばあちゃんの家に同居することになったが、そのおばあちゃん(71歳)は、そっけないようでもあり、「わたし」を見守っているようでもあり。『ひとり日和』は結構、隙間の多い作品だと思う(悪口ではない)。吟子さん(おばあちゃん)の具合が悪くなった時、寝ている吟子さんからは、首に巻いているネギの匂いと共に「かいだことのない匂いがした。これが病人の匂いというものだろうか」と書かれているが、その匂いについてそれ以上の具体的な、それこそ匂いを感じさせるような描写はない。それは物足りなさを感じさせもするが、書かないことによって一種の清浄さを保っているとも言える。また、「わたし」目線で書かれるため、吟子さんとホースケさんの恋(?)も生々しく描かれることはない。ほのぼの、というか、童話めいた雰囲気すらある。そして、そういう童話めいた雰囲気が、この作品の後味をよくしていることも確かだ。
「わたし」は正社員になり、吟子さんの家を出ていくが、明確に自分がこう変わった、という手ごたえは感じない。もちろん二人の人間が一緒に暮らして全く影響を与え合わなかったわけがないが、それを明確に示すことを避けているようなところが、この作品にはある。

『かけら』は父とバス旅行に行くことになった娘の視点から語られる父の姿が主に描かれる。ここでは娘はおそらく今までは知らなかった父の姿に触れるのだが、だからといってそれで父への理解が深まったわけではない。ラスト近くの「じっと見ていると、わたしは昔から父をちゃんと知っていたという気がしたし、それと同時に、写真の中の人はまったくの見知らぬ人であるようにも感じた。」という一文がそれをよく示している。
『欅の部屋』は、男の目線から語られる、ある女との出会いと別れ、そしてまた別の女との婚約である。前の女に対するわだかまりのうようなものが丁寧に描かれ、それに対する一種の踏ん切りのようなものがある。
『山猫』になると、『ひとり日和』の「わたし」、『かけら』の「わたし」、『欅の部屋』の「僕」、といった一人称の語り手が姿を消す。杏子、秋人という夫婦が登場し、どちらの心情も描かれる。杏子のいとこである高校生の栞を大学見学の5日間世話する、その期間の話が描かれる。栞に対するそれぞれの感情と、すれ違い、というよりあえて口に出さなかったことなどがどちらかというと杏子中心に描かれるのだが、ここでは作者は若い側(つまり高校生の栞)ではなく、明らかに年上の側(杏子)の立場に立っている。最後に一節だけ数年後の栞の心情が描かれる。

 
 というわけで、続けて読むと、なんとなく作者の年齢の重ね方が見えてくるような気がするのだ。もちろん、年上の側に立ったからといって、落ち着き払ったり、いわゆる「温かい目で見守る」わけではない。決してそうなるわけではないのだ、ということを悟っていくのもまた、年をとってゆくことだと言われればそうなのだろう。そういう過程を見ているようで面白かった。
 『ひとり日和』は一年間にわたる話だが、『かけら』は一日、『山猫』は主に五日間、という限定された時間の出来事だからでもあろうが、描写にも隙間が少なくなっていく。隙間が少ない、という言い方がわかりにくいなら、嫌な感情も遠慮せずに描くようになっていく、と言うべきか。そして、客観的にもなっていく。『山猫』の次のような描写は、まさにそんな例。「栞の腕を軽く叩きながら『遠慮しないでね』などと言っている自分が、よくあるメロドラマの中の、よくある登場人物のように思えて、杏子は言いかけた言葉をすべて飲み込んだ。」
 こういうように作者が年齢を重ねていく(もちろんそれは作者によって演出されたものかもしれないのだが)のを見る、というのも同じ作者の作品を続けて読むことの楽しみのうちに入るのかもしれない。  

Posted by mc1479 at 14:03Comments(0)TrackBack(0)

2013年01月22日

白洲正子『金平糖の味』を読んで

 タイトルに惹かれて読んだエッセイ集だが、「ふうん」と思うこともいろいろあった。タイトルには関係のない部分で。
 チャップリンの『ライムライト』に関して「くだくだしいお説教」をしていると言い「終始一貫チャップリンは、このとっときの場所におさまり返って、いい気持ちにご託宣を並べるのである」と批判的に書いている筆者が、夫婦生活や着るもののことになると、若い人たちに説教するような調子になる。たとえば「幸福とは『タナからぼた餅』を待つことではなく自ら工夫して創るものです」というように。
 揚げ足を取るつもりはない。筆者のような、ある程度年齢のいった教養ある人に原稿の依頼が来るとしたら「若い人にメッセージを」というようなものだと思うからだ。
 
 言葉って変わるのだな、と感じたものもある。「美男論」の中で筆者は「英語でも、プリティとかビューティフルなどという形容詞は、男には用いません」と書いているのだが、映画『トーチソング・トリロジー』(1988)の中では、女性カメラマンが男性モデルに「ビューティフル!」と言いながら撮影していたし、1994年のニューズウィーク誌で某男優が「プリティ・フェイス」と書かれていた。
「美男論」は1959年のエッセイとのこと。「~用いません」と断言された「事実」も30年もたてば、コロリと変わるのだ。事実とはそういうものだと覚えておこう。  

Posted by mc1479 at 15:34Comments(0)TrackBack(0)

2013年01月11日

白石一文『翼』が心に残った理由

 この文章では、白石一文の『翼』『心に龍をちりばめて』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 白石一文の『翼』を読んで「好きだな」と思い、他の小説を2冊読んでみたが、『翼』ほどは好きになれなかった。『この世の全部を敵に回して』という本の方は、手記という形をとっていて物語性が希薄だから、という理由が考えられる。『心に龍をちりばめて』の方は物語としては十分面白いのに、やっぱり『翼』の方が私は好きだな、と思ってしまった。なぜだろう。

『心に龍をちりばめて』の女主人公・美帆は『翼』の女主人公・里江子に似たところもあるのだ。まず、仕事を持ってそれをきちんとこなしている女性だということ。30代で独身だということ。
 にもかかわらず、私は里江子に感じたような共感は、美帆には持てない。もちろんそれは、美帆が歩けば人から必ず注目されるような美人だから、ということもあるかもしれない。しかし、生と死に関する考え方でいえば、両作品にはかなり共通点もあるのに。
 
 たとえば『心に龍をちりばめて』には「誰かのために生きる」、あるいは逆に「誰かのために死ぬ」という考えが出てくる。「誰かのために」という言い方にはひっかかるかもしれないが、もちろん作品の中ではそれらはもっと上手に表現されている。そのように言い切るために相応な条件と覚悟も描かれている。
『翼』に示された「自分のことを最も深く理解してくれている人間の死は、自分の死と限りなく近いかもしれない」という考え方は、もう少し受け入れやすいものだろう。しかしこの両者に共通するものがあるのはうかがえる。人の生死は、その人ひとりだけのものではないということ。共通するものがあるにもかかわらず、やはり『翼』の方が受け入れやすい。

 2つの物語は、収束点は大いに異なっている。単純に言えば『心に龍をちりばめて』は生に向かう結末を用意していて、『翼』は、死に向かう。たぶんそこが、私の『翼』に惹かれる理由なのだ。
 両作品とも 孤独な人々が登場する。女主人公も、その相手役と言っていい男も、ともに孤独を抱えている。しかし『翼』の女は、孤独を嫌わない。孤独は自分にとって当然だと受け入れている。いや、むしろ自分で自分をますます孤独にしていっている面がある。そういう、人との関わりをどちらかというと断ち切っていく女、というのが興味深かった。孤独な女が、その孤独さゆえに、自分を「運命の人」と感じた男を拒む。もちろん表面上の理由は、彼が親友の恋人だったから「そんなことはできない」と断ったのだ。再会。再度の拒絶。結婚しても子供ができても幸せだと思ったことがないという男。男のそれまでの人生にも「死」は色濃く、男もまた孤独で、いわゆる頭のいい人だが、自分を「とても変わった人間」だと認識している。

 結末としては、ごく単純に考えれば『心に龍をちりばめて』のように「生きる」方向に向かう方が心地よいし、安心できるものだろう。『翼』の結末は不穏だ。けれども一人の孤独が別の人を死に追いやるかもしれない、という流れを二人の過去、どこか「変わった」人であること、常識的な判断や励ましではなんともならないことがあること、などを無理なく収束させていくその筋立てに惹かれたのだと思う。とにかく「生きる」方向へ向かわなくてはならない、という一種の強迫観念のような結末ではないところに、感心もし、納得もさせられたのだ。
  

Posted by mc1479 at 15:13Comments(0)TrackBack(0)
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