2013年12月22日

『終の信託』

 放映された『終の信託』を見た。
以下の文章では、この映画の内容に触れています。ご了承ください。

 作品的なクライマックスは、患者を死なせるところと、その後の取り調べのシーンということになるのだろうけれど、前半に描かれる、主人公の女性医者の人物設定が強烈だった。男性医者と不倫の関係にあって、肉体的にも彼に溺れていて、何もかも止めにしたいと思った時、自殺を図る。いや、睡眠薬では死ねないとわかっていたのなら発作的な行動、「終わりにしたかった」ということなのか。とにかくここまでが強烈。
 もちろん、担当していた患者とは、ずっと前から看る側・看られる側の関係だった。しかし、患者がオペラのアリアのCDを貸してくれ、それについての話を聞かせてくれた時、患者が女性医者を「看る」立場になる。その後の二人は対等になったようで、以前より踏み込んだことまで話すようになる。そういう話の中で、女性医者は患者から「自分の最期は先生に任せます。先生が決めてください」と頼まれたと受け取り、しかし実行したところで訴えられる。
 問題になりそうな状況を上手につくっている。患者は医者に話したものの、紙に書いて渡したわけではなかった。最後に入院してきた時には、患者は意志を示せる状態ではなかった。意識は戻らないが、自呼吸していたことで、脳死状態とは判断しにくかった…
 全くの社会派映画ではなくて、一種の恋愛映画なのだという見方ももちろん成り立つ。医者は患者と心を通わせ、自分に任されたと思ったからこそ、患者を死なせるようなことをした。しかし「恋愛」が周りからは理解し難いものだとしたら、医者の行為は「犯罪」と見なされるだろう。
 そもそもそういう擬似恋愛関係を成り立たせるために、患者と医者を男・女の設定にしたのか。それなら「冷静に判断して死を迎えさせた」とは言えないわけだ。医者は、自分のそれまでの患者に対して積み上げてきた感情――尊敬や同情も含めて――を基に、情緒的に動いたことになる。
 この映画の作り手にとっては、「人の死」は科学的な判断ではなく、根本的には「情」によって判断されるものだったから、そういう話の流れにしたのだろうか。ただ、だから「情」に流される医者の役は女性にして、患者を男性にしよう、というような「感情に流されやすいのは女」という考えで役の割り当てがされたのだとしたら、それはちょっと嫌だけれど。  

Posted by mc1479 at 13:19Comments(0)TrackBack(0)

2013年12月22日

『ニューイヤーズ・イブ』

『ニューイヤーズ・イブ』が放映されたのを見た。
以下の文章では、この映画の内容・結末に触れています。ご了承ください。

『バレンタインデー』は、その一日の朝から晩までを描いた、たくさんの男女が登場する話だった。そのスタッフが再び作ったこれも、ある一日(大晦日)の人々の話なのだが、ニューヨークのタイムズスクウェア周辺に集まる人たちに限られている。そういう意味で『バレンタインデー』に比べて、よく言えばまとまっており、悪く言えば広がりがない。おバカな話が減って、子ども主体のエピソードがなくなった。
 誰とつながっているのが誰だった、という点で意外さを見せるのは『バレンタインデー』と同じだが、女性客にサービスしているのかな、と思うところもあった。
 というのも、ラストで成立するカップルのうち、2組は明らかに女性の方が年上なのだ。そして、よりを戻すカップルは、男性のほうが女性の仕事を尊重して歩み寄る。
 親子の争いも、離れたところにいる恋人との通信も、細部まで描き込むことはなく、アクセント的に描いていく。もちろん時間的制約あってのことだけれど、歌はしっかり聞かせたりする。
 そういうサービス精神を楽しむ映画。衝撃はないけれど、気持ちよく見ることができる。  

Posted by mc1479 at 12:53Comments(0)TrackBack(0)

2013年12月13日

『カティンの森』

 これはNHKのBSプレミアムで放映されたのを録画して、見たら消去するつもりでいたのだが、見たらなんだか消せなくなった。
 以下の文章では 映画『カティンの森』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 この映画の持つ「本物」の感じが重く迫ってくる。監督のアンジェイ・ワイダは実際にカティンの森で、父を虐殺されたのだと言う。
 そういう意味だけでなく、画面から伝わってくる「本物」の感じ。降る雪も、冷たい土も。そしてときどき、完璧な構図で捉えられているような画面が出てくる(たとえば、割られた墓石)。
 カティンの森で虐殺された将校の話を中心にしているものの、エピソードがいくつも出てくるし、戦後の話にも及ぶ。やや散漫になってしまうのではないかと思うが、そんな中に詩情あるシーンがふっと挿入される。たとえば、ポーランド将校の妻と幼い娘を匿った赤軍将校が、その娘の落とした小さなぬいぐるみを拾うシーン。また、たとえば、カティンの虐殺はドイツがしたことと決めつけるソ連に反発し、ソ連兵に追われた若者が逃げて登った屋根の上のシーン。
 ポーランド将校の残した手帳が発見され、ラストで再現される虐殺のシーンは恐ろしくリアルだ。機械的に、次々と殺されていく人々。穴に放り込まれる死体。土をかけていくブルドーザー。その恐ろしさはこけ脅しではなく、必要なものとしてこの映画を成立させている。  

Posted by mc1479 at 16:20Comments(0)TrackBack(0)

2013年12月10日

『六条御息所 源氏語り』を読んで

『六条御息所 源氏語り』(林真理子)を読んだ。
以下の文章では、この本の内容に触れています。ご了承ください。

 これはまだ第一巻で(一 光の章)、全部で三巻の予定なのだそうだ。雑誌『和楽』に連載したもの、と聞くと「なるほど」と思う。あの豪華な作りの、通信販売のみの(今は書店でも売っているが)雑誌に、源氏物語はふさわしい気がする。
 読んでみようとする人は、おそらく源氏物語のあら筋くらいは知っているだろう。それを想定した上で、光源氏をめぐる女たちの中でいわば悪役(生霊となって他の女をとり殺す)である六条御息所を語り手にしたのは上手い。
 しかもここでは彼女は既に亡くなっているという設定。現世への執着ゆえに、漂いながらあれこれとこの世の様子を見ている、というのも納得がいく。
 末摘花は亡くなって六条御息所と出会っても「むむむ」とくぐもった声で言うだけで言葉を交わさない、というのも面白いし、六条御息所が取りついて殺したことになっている夕顔はそれほどの美貌も教養も才気もないが、心の中を見せず、男からはいとしいと思われる女、と描写されると、プライドの高い六条御息所から見ればまさにその通りだったのだろうと思う。
 読者が期待するような(?)身体的描写もされていて、光源氏は「ほとんど歩くことのないふくらはぎは女のように細い」と書かれると、なるほど、と感じる。
 ある程度源氏物語を知っている人に向けて書いた源氏の一バージョンとして楽しめる。  

Posted by mc1479 at 15:54Comments(0)TrackBack(0)
QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。 解除は→こちら
現在の読者数 0人
プロフィール
mc1479