2017年08月12日

プロフェッショナル

 以下の文章では、「プロフェッショナル 仕事の流儀」で放映された宮沢りえの回の内容に触れています。ご了承ください。

 今回は『クヒオ大佐の妻』という舞台劇上演までの取材ということだ、興味のあったことをメモ的に書いておく。
 上演は5月19日から6月11日まで。脚本・演出は吉田大八。宮沢とは映画『紙の月』で組んでいる。そして吉田は映画で『クヒオ大佐』というのを撮ったこともある(ただし、この映画には宮沢は全く出ていない)。
 4月13日、稽古初日。本読み。宮沢はいつも、この段階では自分の演じる役が完全にわかった、とは感じないらしい。
「わからないままで、わかっていく。皮膚でわかっていって」
 頭でわかる、というのではないらしい。
 吉田監督は、日本人の逃れられない欧米コンプレックス、その呪縛のようなものをクヒオ大佐の妻を通して描きたいと言う。しかし、ハーフである宮沢には、逆に「純粋な日本人のほうが良かったのに」という思いがあり、そういうコンプレックスは全く無いし、理解できない。
 4月19日、稽古場にセットが建てられ、立ち稽古に。宮沢のセリフは五千字以上、ひとりで電話を受けて話す場面は3分以上のひとりしゃべり。吉田監督は映画の演出に慣れているせいか、動きをすべて指示しようとするが、ここで生まれるものを試したい、という宮沢の提案も受け入れて、いろいろ動きを変えてみて、というやり方にしていく。電話で話しながら鏡を見たり、対峙する相手とのやり取りの中でペットボトルを投げつけるように落としたり、という動きが加わっていく。これが4月22日。
 稽古が始まって十日、吉田監督がセリフを少し変え、あらためて本読み。
 宮沢の役は、相手を狂気に引き込んでいくらしい。
 狂っていく時ほど地に足をつけていないといけないと思うけれど、今どこに着けているか本当にわからない、と宮沢。
 4月27日、相変わらず主人公をつかめない。台本を変えたので、また本読み。
 4月28日、宮沢、初めて遅刻。編集で切られたのかもしれないが、見る限りでは他の皆に頭を深々と下げて謝るような場面は無かった。
「今まで自分の要素をちょこちょこ振りかけてきた、今回の役はそれが全く無いのが悩みどころ」
 
5月4日、一番早く来る(一時間半前)。
5月9日、主人公が相手を狂気に引き込むきっかけとなる点がつかめたように思えてきた。  

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2017年08月12日

玉木宏 音楽サスペンス紀行

正確なタイトルは「玉木宏 音楽サスペンス紀行 マエストロ・ヒデマロ 亡命オーケストラの謎」 以下の文章で、この番組の内容に触れています。ご了承ください。

 タイトルが長い。「マエストロ~」以降は、内容を示すサブタイトルだとしても。でも、玉木宏と付けたかったのはわかる。彼の紀行番組の中でも出色の出来だった。こんな「旅人」ができるのは、彼氏かいないだろう。
 もちろん、発想としては「フィクションではあるが『のだめカンタービレ』でヨーロッパで活躍する若き指揮者・千秋を演じた玉木くんに、実際にヨーロッパで活躍した指揮者・近衛秀麿の跡を追ってもらおう」という単純なものだったかもしれない。が、その役をなんともいい塩梅でつとめているのだ。そう、これは紀行番組と言いつつ、この「旅人」は「役」に近いものだったと思う。
 玉木くんは、これまでに旅行・体験レポートのような紀行番組はいくつも経験してきている。ただ、今回はその場に行って、感じたことを率直に言い表すというだけの番組とは違う。玉木くん自身が、これまで近衛秀麿について調べ、追ってきたわけではない。だから、ナレーションで「僕は」と言う時、その「僕」は「近衛秀麿についていろいろ調べてきた私たち」という意味合いを持っている。もっと言うなら、「あの時代に、信念と良心を持って行動した日本人がいた。その人の跡を確かめたい私たち」と言ってもいい。そういう「私たち」を代表する「僕」に玉木くんがなってくれる、というのは、見ている側にとって安心でもあるのだ。
 玉木くんならきちんとやってくれる、という信頼感。人と向き合う時の礼儀正しさ。話を伺う相手に敬意を払いつつ、でも、好奇心と、その場で感じたことが顔に出る率直さ。「私たち」を代表する役でありながら、ひとりの感受性を持った人間であること。そういう役割を見事に果たしている。
 加えて、あの健康な身体。ピレネー山脈に行き、かつてのパッサー(亡命したい人を国境まで案内する役)について一時間歩き、戦時中ユダヤ人が隠れて逃げたというワルシャワ地下の下水道に潜る。ヘルメットを被って下水道に入るというのは「なんでもやってみよう」的な気持ちを持つ人にしか、なかなかできないだろう。
 かと思うと、ワルシャワの劇場で、かつて近衛秀麿が結成したオーケストラの演奏会を再現するb面では、ただひとりの観客として、正装で堂々と鑑賞する。この『未完成交響曲』演奏の場面は、ひとつのクライマックスだ。近衛秀麿は、その当時活動を禁じられていたポーランド人演奏家を、そのメンバーにかなり入れていた。そして、ドイツ人観客の前で「劣った民族だから、正統なクラシック音楽を演奏・鑑賞するに値しない」とされていたポーランド人たちに演奏させたのだ。その再現場面で身じろぎもせず聴き入る玉木くんの一種の貫禄と迫力。
 もうひとつのクライマックスは、パリで、ジャック・パレナンの娘・エマニュエルさんに会う場面だろう。ここで彼女は、幼い時、そういうオーケストラに入っていたと父から聞いた、とはっきり言うのだ。ユダヤの人たちも助かったし、父たちも強制労働に行かずにすんだ、と。父は日本に特別な絆を感じていました、戦後日本に演奏に行った時に、近衛秀麿さんにも会ったと聞いています、と。
 その時の玉木くんの「そうですか」と言う顔。ユダヤ人を逃がしていたという確かな証拠はないkれれど(と言うか、証拠になるようなものは残さないだろう)、近衛秀麿が守った音楽の遺伝子は今も受け継がれているdさろう、と感じたほっとしたような、誇らしげでもあるような顔表情。
 場面場面での反応が実に魅力的なのだ。それは、サスペンスを追う私たちの反応でもある。そう思うと、やはりタイトルに「玉木宏」と付ける理由はあったのだ。  

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2017年05月07日

ツバキ文具店

 以下の文章では、ドラマ「ツバキ文具店」の内容に触れています。ご了承ください。 

NHKのドラマ10。小川糸原作で、原作は読んでいないが、1回目・2回目を見て、なんかイマイチな気がしていた。
 主人公は代書屋で、祖母に昔からその修行をさせられたが、嫌がって家を出ていた。祖母の死後、継ぐはずのないと思っていたそれを継ぐことになり……
 1回目は、我が子のように可愛がっていた猿を亡くした奥さんへの手紙。最初は「ペットを亡くした」ことに対するお悔やみだけを書いて依頼主に叱られ、その猿がかけがえのない存在だったとして書き直す。書く紙や筆記用具へのこだわりも見所で、巻き紙に薄い墨の文字で書く。
 2回目は「円満離婚をする」という夫婦が、結婚を祝ってくれた人たちに出す。印刷だが、パソコンではなく活字印刷にする。

 この2回がなんとなくわざとらしく見えたのは、猿を亡くして少々精神的に常軌を逸しているらしい奥さんのことも「きれいに」描かれ、「円満離婚」に主人公が何となく疑問を持ちつつも、最後までドロドロな部分は見せずに終わっていたからかもしれない。もちろん、本当に「円満離婚」する夫婦もいるのだろうが。

 第三回にして、レギュラーからの代筆依頼。「男爵」と呼ばれる男(主人公の赤ん坊時代のことも、祖母のことも知っているらしい)から、旧友からの借金の依頼を断る手紙。原稿用紙に太めの万年筆、漆黒のインク。
 失礼な手紙を送ってすまなかった、という返事が来て、男爵は主人公にうなぎをおごってくれる。
 その話と、主人公自身が昔つきあっていて別れた男からの代筆依頼を断る話とがうまくからんでいたと思う。話が二つ以上、こういうふうにからんだほうが面白いのかもしれない。  

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2017年05月07日

リップヴァンウィンクルの花嫁

 以下の文章では、映画「リップヴァンウィンクルの花嫁」の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 映画封切り時に話題だったと思うので、放映されたのを録画しておいて、見た。
 最初は主人公が受身的で見続けようか、どうしようかと思った。教員だが非常勤なので他のバイトもしている。ネットで知り合った男と結婚することになり、教員を辞めさせられたのを寿退職であるかのように装う。それくらいの嘘は許されるよね、という気持ちから始まって、夫となる人に「親族二人?」と言われて便利屋に披露宴に出てくれる人を調達してもらい、既に離婚している父と母には揃って出席してもらう。
 新婚家庭に訪ねてきた男から、夫がもの生徒と浮気している、それは僕の彼女だと聞かされ(このあたりは単純に信じすぎ、と思うが)だから僕たちも浮気しましょうよと誘われたところを盗撮されていて、それがなぜか夫の母に送られる。離婚、というより追い出されるような形で出てきて、ビジネスホテルでバイト。
 夫の浮気調査を頼んでいた便利屋から「あれはお義母さんから頼まれた、別れさせ屋の仕事ですよ。典型的なマザコンです」と説明され、それに納得がいったのかどうか、自分も結婚式の披露宴の(親族のふりをした)出席のバイトを引き受ける。そこで姉妹役として出会った真白という女性と仲良くなる。
 もとレストランだった大きな屋敷の面倒を見るメイドのバイトをひと月100万円で、と便利屋から依頼され、行ってみるともうひとりのメイドは真白。真白に「友達が欲しい」と言われた便利屋が、初めからそう言うよりは、とメイドという形で頼んだのだとか。
 真白はAV女優で、実は重病患者。仲良くなり、二人でウェディングドレス姿で結婚式の真似事をし、「一緒に死んでくれる?」と真白は聞くが、結局ひとりで自殺する。
 真白の骨を持って彼女の母を訪ねると、娘の仕事も知っていて、「捨てた娘だから」と言いながら母はぐいと焼酎を飲み、裸になって「人様の前で裸になるなんて」と嘆きつつどんどん飲む。そして泣く。つられたように便利屋も泣き、全裸になって飲む。
 この場面がなんともいえなくて。
 そこまで、ややおとぎ話的に描いてきた現代では誰もがたどるかもしれない話、なのかと思い、その舞台のような新婚家庭やホテルや大きな屋敷を見ていた目には、この母の住む家と母だけが生々し過ぎる気がした。いy、ここでこういうのを出してリアルでしょって言うのはちょっとずるいんじゃないかという気分。
 便利屋が本気で泣いてしまっているようなのも不可解。これが嘘泣きで、便利屋はそういう男でした、というのかと思ったら、そうでもないようだ。
 しかもその後、主人公は真白と二人で住むはずだったと思われるアパートで、静かに暮らし始める。いいの、これ? という気がした。
 ひとつの考えとしては、とんでもない異性愛で傷つけられ、やがて同性愛に居場所を見つけた話なのか。そうだから、ふたりの女どうしの結婚ごっこは美しく描かれていたのか。
 しかし既視感もある。ウェディングドレスを試着して写真を撮るというのは「ただ、君を愛してる」を思い出すし、披露宴の代理出席は「家族、貸します ファミリー・コンプレックス」を思い出す。最後にベランダに出て、何もはめていない左手の薬指にあたかも指輪をはめているように振舞って見せる主人公は「オールウェイズ」の小雪を思い出させる。
 しかし、そういう過去の場面を思い起こさせながらも、現代を切り取ったふうな味をもって描けば、それはそれで作品として成り立つということか。
   

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2017年03月14日

おやすみなさい、と男たちへ

 以下の文章では、田中りえ「おやすみなさい、と男たちへ」の内容に触れています。ご了承ください。


 作者の田中りえさんって今どうしているのだろうかとウィキペディアを見たら2013年に亡くなっているのだった。田中小実昌の娘だというのは、ぼんやりと知っていた。読んだのは初めて。
 9篇入っていて、そのうちの6篇は一人称語りで、語り手は若い女性である「わたし」。ひらがなの「わたし」だ。そう言えばこの人は「なか(中)」や「ひと(人)」「いう(言う)」「きく(聞く)」もひらがなで表記する。
 長部日出雄が解説を書いていて、「いい小説というのは、生命を持っている。時代とともに成長したり、永遠に若さを保ちつづけたり、あるいは逆に若返ったりするものだ。」と書いていて、要するに田中の小説はそうだと言いたいのだろうが、今読むと会話に違和感がある。というか、当時の女子ってまだこういう女らしい語尾を多用していたのだなあと思う。
「わかったわよ。あたしがきっと聞きちがえたのよ」
「~よしましょうね」「……あなた、好きなことってないの?」
「~しちゃったの」とか「~なくちゃならないの?」という言い方は、今ではほとんど実際に使う女性はいないのではないだろうか。
 話し言葉だけ聞いていて、容易に男女の区別がついた時代は過ぎつつある。
 長部の解説には「田中りえの小説は、わがくにの開闢いらい(おそらく経済水準の向上と避妊の普及によって)初めて社会的に出現しつつある男女対等の人間関係を、べつに意気ごみもせず、肩肘も張らず、ごくあたりまえのことのように描いている点において、画期的なのである。」ともある。
 それを利用させてもらうなら、だから結婚生活は描かれず(結婚となると男女対等はなしくずしになると作者が感じていたから)、どこか甘いのは避妊の具体的方法が全く描かれないからではないだろうか。
 今の目から見ると、田中りえの描いた「わたし」のような女性は、どこか男にとっても便利な女性だったろう。セックスはOKで、結婚は望んでいない。そに甘やかさを感じさせるところが「受けた」のだろうと思うのは、厳しすぎる見方だろうか。  

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2017年03月14日

 以下の文章では、柳美里の「男」の内容に触れています。ご了承ください。

 柳美里「男」(新潮文庫)。
 最初に出たのは平成12年とあるから、17年前か。
 中にこんな文がある。
「当代若い女性の人気を二分しているのは中田英寿と木村拓哉だろう。」
 さらに続けて「木村拓哉主演の連続テレビドラマを1,2度観たことがあり、現代の若者像をあれほどリアルに造形できるのは、彼を置いてほかにいないと高く評価している。木村拓哉は最近ではめったにオ目にかかれない野心と反抗とを併せ持ったジュリアン・ソレル的な青年だと思う。彼にルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』の主人公よりもっと強い悪意と復讐心を抱いた役を与えれば、目を見張るようなヒーロー像を創り出せるに違いない。」とも書いている。
 ファンではないと言う。
 読んでいるこちらも、なんとなく柳美里がとても人気のある人を好きなんて何か違うような気がする。もう少しマイナーで玄人好みの人を好きになるのではないかと勝手に思ってしまうのだ。
 しかしファンでないと言いつつ、上半身はだかの写真(のページ)を切り取っておいたそうだ。「彼の喉もとから両肩に向かって真っ直ぐ伸びた鎖骨に目を奪われたのだ(中略)精悍ともエロティックとも異なる、男の根源的な力、選ばれた人間の刻印に見えた」

 なるほど。さて「男」という本は、目・耳・爪・尻・唇・肩・腕・指・髪・頬・歯・ペニス・乳首・髭・手・声・背中 と分かれていて、全体がある小説を書こうとする試みのような構成になっている。だから全体としてのつながりはあるのだが、ひとつひとつのパートへの思い入れは案外薄い。体のパーツにこだわりのある人から見たら物足りないだろうし、フェティシズムの本ではない。
 彼女にとっては、やはりパーツに分けるのではなく全体としての「男」が大切だからだろうか。
「わたしは男を描くならば、神話的な存在として登場させたいと考えているのだ。男の顔も、性格も、肉体も神話性に彩られたものでなければならない。スーツ姿で都心のビル街を歩く狂暴さと狂気と知性と逞しい肉体を有した男――。」とも書いている。
 また、「わたし」は「健康な暮らし」に無縁だと自覚してもいる。
 すると、彼女にとっては木村拓哉の鎖骨は、健康の象徴でもあり、神話的な男を描けそうだと思わせるものだったのだろうか。  

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2017年03月14日

沈黙 サイレンス

 以下の文章では、映画『沈黙 サイレンス』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 原作が書かれてから50年、だそうだ。マーティン・スコセッシがこれを映画化すると聞いてからも既に20年以上が経っている。私は以前日本で映画化されたものは見ていない。原作はだいぶん前に2回読んだ。
 単純に今の日本人なら、「なぜそんな危険を冒してまで日本に来たのか」と思うところだが、カトリックの神父にとって「世界にあまねく神の教えを広める」のは重大な務めなのだ。また、ここに出てくるロドリゴとカルペにとっては、自分たちの師であったフェレイラが日本で行方がわからなくなっている、いや棄教したのだという噂は、確認すべきものだった。マカオまで来て、そこに居た(船の難破でたどり着いた)キチジローを案内にし、中国船で密航する。九州の小さな村に到着すると、密かにキリスト教を信仰していた村人に歓迎され、山の中に隠れ家も用意される。夜になると村へ降り、告解を聞き、ミサを行なう。
 しかし信者を見つけ出すための「踏み絵」は日常的に行われており、捕えられた信者が殉教していくのを、物陰から見ることになる。安全のため、ふたりは行動を別にする。筑後守・井上と対面するロドリゴ。海に落とされる信者を追って自分も溺死するカルペ。
 筑後守・井上あるいは通辞とロドリゴの対話がけっこう長い。筑後守は特に残酷だというわけではなく、この時代の掟に従っているに過ぎないのだが、独自の理屈もまた持っている。それが日本を害するものなら排除するしかない、という理屈だ。さらに、日本ではキリスト教は根付かぬ、という理屈。ロドリゴは布教を続けさせてくれれば根付く、と反論するのだが、彼も薄々は感じている。ここで信仰されているのは、自分の信じるキリスト教からは少し変質したものではないか。
 再会したフェレイラから説得され、自分が転べば今拷問を受けている信者も許すと言われ、ロドリゴは踏み絵を踏む。原作では、ここは一番感動した場面だった。しかし、映画では意外と淡々と描かれる。特殊効果が使われるわけでもなく、イエスの声も殊更大きく響くわけではない。踏み絵に描かれたその人の顔も、原作では確かロドリゴが「この国へ来てから初めて見るその人の顔」だったはずだが、映画では(ロドリゴは直接向き合って見ていないにしても)村人が踏み絵をする場面で、踏み絵に描かれたキリストを観客は見ている。これを見えないようにしておいて、ロドリゴが踏む場面で初めてはっきりと見えたという演出なら、また印象が変わっていたかもしれない。
 とにかく、ここではロドリゴが「転ぶ」場面は、それだけ取り立てて特別な場面には仕立てられてはいない気がした。
 棄教後の話も、長い。死んだ日本人の名前を受け継ぎ、妻と子もそのまま貰い受けて日本人となったロドリゴ。フェレイラと共に、唯一の交易国となったオランダから入ってくるものにキリスト教のしるしがないかを検閲する係となり、その役目を忠実に果たす。「棄教した」という証文は定期的に書かされる。亡くなると仏教式に葬られるが、その握りしめた手の中には……というのが結末なのだが、ということはロドリゴも日本の多くの隠れキリシタンと同じように、密かな信仰を続けたということなのだろうか。
 ロドリゴと比較するように描かれるのがキチジローだ。家族の中でひとり踏み絵を踏んで死刑を免れた彼は、その後もロドリゴに許しを乞いながら、また踏み絵も踏み、ロドリゴを密告する。ときを経て日本人となったロドリゴに仕えるようになった彼は、定期的な取り調べの歳、首からかけているお守り袋に聖画を入れているのが見つかって連行され、その場でこの物語から消える。結局、キチジローもロドリゴもそんなに変わりはなかったということなのか。
 自らがカトリックであるスコセッシには、これだけ長くいろいろな「理由」を書かねばロドリゴの棄教は納得がいかなかったのだろうか。いや、棄教後をこれだけ詳しく描くことで、彼の人生もまたひとりの信者としてはあり得たものと、肯定したのだろうか。  

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2017年01月24日

肉小説集

 以下の文章では、坂木司の本「肉小説集」」の内容に触れています。ご了承ください。

 いろんな小説集があるものだ。これは、各小説の大切なところに、必ず肉料理が出てくる。ロースカツ、豚バラの角煮、ホルモン焼き……、まあ、ハムも出てくるので、これは料理とは言えないかもしれないが。ちなみに肉といって豚肉なのは、作者が関東人だからだそうな。
 気になっていた彼女の家に初めて行ってご馳走になるのがそれ、だったり。塾で一番前に座る子がいつも食べているのがハムサンドだったり。
 恋愛がらみ(これから結婚して生きていく、というのも含めて)が多く、中でも彼女の家に行って食べる、あるいは分けてもらうという話がいくつもあるのは、そういうシュチュエーションだと描きやすいからだろうか。彼女の(あるいは彼女の家庭の)好みの味。なぜ、それをよく作るか。そんな理由から話しも展開しやすいのだろう。
 サスペンスというか、ちょっと自意識過剰な主人公がピンチに陥る話もあるが、上司の退職後、悩んでいた男がそこから一歩踏み出すなど希望の持てる話が大半で、また、そういう話がこの作者に合っているように思う。
 会話が面白かったのは「魚のヒレ」という話。ほら話が得意だった祖父に「このヒレ肉というのは、魚のヒレが退化した部分なのだ」と子どもの頃ウソの説明をされて信じてしまったとか、そういう話を語るうちに男女がちょっとずつ打ち解けていく過程がイヤミなく受け取れた。  

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2017年01月24日

人生オークション

 以下の文章では、原田ひ香の本「人生オークション」の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 「人生オークション」「あめよび」の2作が入っているのだが、どちらかというと「あめよび」のほうが印象に残った。もちろん、タイトルとしては「人生オークション」のほうがインパクトがあるだろう。不倫のあげくに離婚した叔母の、せめて賃貸料の足しになるかと、叔母の持ち物をネットオークションに出すように勧めた「私」がその手伝いをしながら、叔母の人生を垣間見ていく。ブランドもののバッグは結構売れるが、衣類は安くてもなかなか売れない、などのオークションにありそうなことも描きながら、叔母に反発しながらもどこか自分と似ているところもあるとわかっていく「私」。
「あめよび」のほうは、あるラジオ番組のファンであることをきっかけに知り合った男性・輝男と付き合う美子の、そのずるずると続いている関係をどうしようかという話だ。結婚したいと美子が言っても、自分はそれに向かないと答える輝男。両親の不仲を見てきたことを話す輝男は「諱(いみな)」を持つという地方の出身なのだが、ではその大切な諱を教えて、と美子が迫るとそれは教えてくれない。結局輝男と別れた美子は結婚紹介所で知り合った男性と結婚し、飛行場で再会したとき、輝男は美子に諱を教える。
 ラジオ番組のファンの集まりやら、ラジオで自分の投書か読まれることを生きがいにしている「ハガキ職人」と呼ばれる人たちの存在や、諱を持つ人たちのグループ、というように「へえ、そういう世界もあるのか」と思うようなことが次々と出てくるのが、こちらのほうが面白いと思った理由かもしれない。これが男性作家だったら、どうしようもない輝男に、それでも美子はずっと付き添っていく、ということになるのかもしれないが、別れたところが女性作家らしい現実味があると思った。
 それは「人生オークション」のほうにも言えて、叔母は自分の人生を建て直せそうなきっかけを得て、パート勤務とはいえ、就職が決まったところで、話は閉じられる。
 んあとか前向きに生きていけそうなところで終わりにするのが、この作者の後味のいいところかもしれない。  

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2016年12月25日

ヒッチコック/トリュフォー

 以下の文章では、映画『ヒッチコック/トリュフォー』の内容に触れています。ご了承ください。


 1962年にトリュフォーがヒッチコックに手紙を送り、やがでユニバーサルスタジオで実現した、トリュフォーによる、ヒッチコックへの長時間インタビュー。それは『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』という本になり、日本でも出版された。この映画はインタビューの音源を使いつつ、他の監督(もちろんヒッチコックに大いに関心あり)へのインタビューも加えた映画だ。監督たちの話に沿って、ヒッチコックの作品の一部が引用される。
 10人の監督が登場するが(中に黒沢清もいる)、この監督はヒッチコックの作品をこう観ているのか、とわかったり、私には未見のヒッチコック初期作品も挿入されたりするなど、見ていて飽きない。
 デビッド・フィンチャーが『めまい』を「変態の映画。美しい変態」と言ったり、マーティン・スコセッシが『鳥』のある場面を「神の視点から見ている」としたり。多くの映画監督のお気に入りは『サイコ』のようだ。しかし、監督たちはそれがきちんと秩序ある世界だということも、もちろん理解している。ヒッチコックはスタジオでもロケでも、スター達も使いながら、自分で統制した。ある場合はそういう演出では演技しにくいと言うスターもいたが、それでも演技しろ、と言ったという。また、時間を思いのままに操れるのが映画の楽しみだということも自覚していた。
 これほど長く深くヒッチコックと話したトリュフォーの「ヒッチコック的」と言われる『暗くなるまでこの恋を』や『黒衣の花嫁』がトリュフォーの作品の中ではさほど評価が高くないのは、かえってヒッチコック作品は誰にも真似のできなかったものだということを証明しているのかもしれない。
 トリュフォーは、撮影中にうまくいかないとセリフを変えることもあるとこの中で話しているが、ヒッチコックはそれに対して反対しないまでも、驚いたような反応を示している。そのあたりが二人の大きな違いだったのかもしれない。
 しかし、このロングインタビューののち、トリュフォーはほぼ一年に一作ずつ映画を撮っていったが、ヒッチコックはわずか三作しか撮れなかった。時代が、ヒッチコックには合わなくなっていったのか。
 それに関して言うなら、52歳で亡くなったトリュフォーのほうが時代に乗れていたのかもしれない。彼の晩年は、日本でもミニシアターが増えて話題作をさかんに上映していた頃で、メジャーに公開されなくても、公開される場があった。トリュフォーの晩年に作品はそういう場で公開されることも多かった(たとえば『緑色の部屋』は岩波ホール、『隣の女』はシネマスクエアとうきゅう)。
 もともと、トリュフォーにはどこか「個人的」な映画をも撮りたいという希望があったのではないだろうか。そういう映画にはミニシアターはぴったりだった。
 一方、ヒッチコックはあくまでも多くの観客を目当てにしていたのだろう。この中で「映画館の2000人の観客」を想定している、と話すところがある。200人ではなく、2000人をいっぺんに惹きつけドキドキさせるものがヒッチコックの考える映画だったのだ。
 現在、ミニシアターはどんどん消えていき、映画は巨大ヒットを狙うものが多く登場している。それらは確かに、ヒッチコックよりも多くの観客を目指しているのだろう。ただし、ヒッチコックの映画にあったような、多くの観客を惹きつけながらも「変態」な映画はなかなか出てこないように思う。そういうところが彼の凄さだったのかと改めて感じた。  

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2016年12月17日

ロマンチックウィルス

 以下の文章では『ロマンチックウィルス』(島村麻里・集英社新書〉の内容に触れています。ご了承ください。

 著者の名前も初めて聞いたし、こういう本が出ていることも今まで知らなかったのだが、世間的には「いい年をした」女性の熱中ぶりを書いているということで、興味を持った。
 出版されたのは二〇〇七年。ここで取り上げられているのは主に「韓流」、中でもペ・ヨンジュンに熱狂した人を対象に考察している。
 それまでファン活動などしたことがなかった、もしくはうんと若い頃にはあったけれどずいぶん遠ざかっていた・・・・・・という人たちが大量にファンになる。ファンとしては「ビギナー」なので熱中の度合いが高い。お宝が増える、よく出かける、〈たとえば韓国語の)勉強をする、仲間が増える・・・・・・
 そういう人たちは「こんな自分が好き」「まだ、自分にもこんな部分があったんだ」と自己愛に浸っている面もある。
 ある程度まで、元気になる、生きがいができる、など良い面が多いが、人の迷惑も考えずに自分の趣味を押し付けようとしたり、仲間うちでトラブルになる、など行き過ぎると弊害もある。
 また、日本(東南アジア)では、結婚していても「女性ひとりでのお出かけ」が認められているという基盤があってこそ、この熱中も起こるのだというのは面白い指摘だ。欧米のように「出かけるならペアが基本(夫婦なら夫婦揃って出かける)」という文化の強いところでは、なかなか既婚の女性ファンが大量に集まって熱狂する、という場は生まれにくいのだとか。
 もうひとつ、いわゆる「アイドルにきゃきゃあ言う」ようなことからは卒業した、と見られている中高年女性に(当時の)日本は鑑賞に耐えるようなテレビドラマなどをうまく提供できていなかった、そこに上手にはまったのが韓国ドラマではないかという考察も面白い。
 現在は少し状況が変わってきているのかもしれないが、韓国ドラマの人気が高まったことで、作り手側が意識的に高い年齢層に向けた作品を発し始めたのなら、それはいいことだろう。まあ、実際には経済力を持っている人たちを「おばはん」と呼んで排除できなくなったという商業的な理由がるわけだが、どんな理由でも、今までほぼ無視されてきた世代が重視されるようになったのなら、それはいい。
 結論的には、著者はロマンチックウィルスに感染することも上手に生かしていこう、という立場。元気になれるし、仲間も作れる。もちろん、ひとりで楽しんだっていい。長い老後にもいい刺激というわけだ。
 でも、そうまとめられてしまうと、何か物足りない気もする。著者自身、韓流ではないがかなりのファン歴があるそうで、読み物としてはきっとそれを書いてもらったほうが面白い。とは言っても、新書であるからには、こういうまとめにんるのだろう。  

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2016年12月17日

ドラマ『キャリア』

 以下の文章では、連続ドラマ『キャリア』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

『キャリア』良かった。
始まった時も、もちろんいいと思っていたのだけれど、最一回はテンポの良さで、見せ切ったところがあった。もう今は、どんな事件を描こうと「どこかで見たことがある」と言われるだろうから、それらを組み合わせて描く、ということになるのだと思う。第一回は序盤がバスジャック、その後落書き犯と逃走犯の話がからむ。結びつかないと思っていたものが結びつく「なあるほどと言いたくなる快感があるわけだ。あとは主人公の北町署署長・遠山金志郎のキャラクター設定。まっとうな正義感ある警官。と言っても「署長」なのだから、本来は出歩いたりせず、署内の管轄・指導をするべきなのだろう・・・・・・というのは、このドラマのセリフからもわかる。
 ただ、この署長は現場に出たくて仕方がない。
「僕は、市民に警察の力を信じてほしいし、市民の力も信じたいんです」と語る。
 そう、この語り口も独特で、常に丁寧な「ですます調」を崩さない。第四回で誘拐犯に話すときでも、そうなのだ。
 しかし、このほわ~んとした裏に何かもっとありそうだ、というのは金志郎を玉木宏が演じている以上、視聴者は思うのではないか。ただのほんわりさんでは、ないだろう。どうしても『IMAT』の日向先生を思い出してしまうからかもしれない。緊急時にたとえば人質や犯人をも含めて治療する医者、でありながら、闇を抱えていた日向先生。
『キャリア』で言えば、第一回で、逃走犯と遭遇した時、振り向きざまに犯人が突き出したナイフを素手で握ってしまう場面がある。もちろんそうされれば犯人は武器が使えないし、揉み合った末に逃げ出すのだが、素手で刃を握ってしまうところに何かただならぬ気配がある。
 しかし第二回以降、ほぼそういう危うさを想像させるところは秘められてきた。冤罪をかぶりそうな人にはあくまで味方をし、どんな人も暴力にさらされたりすることのないよう気を遣う。
 スイーツを携えて北町署にやってくる警視監・長下部さんの存在や、ヨガ教室での風景も、このドラマのほんわかした部分を受け持っていた。
 ほんわかした部分と、スリリングな部分のバランス。それがドラマの妙味だったと言ってもいい。神回とも言われる第八回ではそのバランスが絶妙で、ファンを熱狂させた。
 さて、第九回に来て、ストーカー、あわや殺人?という事件を描きつつ、過去の金志郎の父の死についても疑問が現れ、急展開を見せる。したがって、ほんわりした部分が少なくなってしまったが、どう決着をつけるのか、金志郎はやはり普通でないものを背負ってしまった、どこか歪んだ人だったのか、そのあたりがどう描かれるのか、ということに焦点が絞られてきた。
 結果から言えば、最終回の前半で少し自分を見失ってしまった金志郎だが、そこはこれまで彼が関わってきた刑事課の部下たちが支えてくれる。父を殺した犯人との対峙。よくある展開でここで犯人は死ぬのかと思ったら、そうはならないところが新鮮だった。
 犯人は挑発する。ここで俺を殺せば、警察の隠蔽工作はばれない。お前も父の敵が討てるだろう。しかし、金志郎は、そういう憎しみの連鎖は選ばない。さらに、犯人に自殺もさせない。
 生きて罪を償わせる、という。そして当時の隠蔽工作をした上司たちを告発するのは、実はその時自分も関わっていた長下部さん。
 警察署長も周りの人に支えられていることがよくわかる展開にしていた。
 特筆すべきはこのドラマ、一度もドラマ中で殺人が起こらなかったことだろう。もちろん、前提として金志郎の父は殺されているので、その回想シーンは出てくる。ただ、それはこのドラマの始まる前の物語だから、ドラマ内の事件では誰も殺されなかった。
 殺人事件の犯人である男にも生きさせる。生きろ、という選択。それがこのドラマの一番強い主張だったと思う。

  

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2016年12月12日

太宰治の辞書

 以下の文章では、北村薫『太宰治の辞書』の内容に触れています。ご了承ください。

 円紫さんと私シリーズ。北村薫の書いた人気シリーズだ。
『空飛ぶ馬』(1989)は北村のデビュー作で、その後、1990年代に『夜の蝉』『秋の花』『六の宮の姫君』『朝霧』と続き、そこで途絶えていた。
 それがいきなり再び2015年に現れたのが、本作。
 もともt、円紫さんと私シリーズは、最初の作品では大学生だった「私」と、落語の師匠・円紫さんが、日常の中で起こる不思議なことを解決していく、人の死なないミステリーだった。その後、人の死ぬ話も出てきたが、基本は日常生活を離れることはなかった。また、「私」が日本文学を研究する大学生であることから、文学上のミステリーというべきものを探究していく話もあった。それが『六の宮の姫君』だ。その後、「私」は大学を卒業し、出版社に勤めるが、90年代に描かれたのは、そのあたりまでだった。
 さて、今回の『太宰治の辞書』は(タイトルから見当がつくかもしれないが)文学探究のほうの作品である。
 今も本が大好きな「私」が疑問に思ったことを追究する。その「私」は今は結婚してひとり息子を持つ、働く母である。「つれあい」と呼ばれる夫は「私」が休日に仕事以外で出かけるような時にも快諾して手伝ってくれるような、いわゆる理解ある夫だが、それ以上の詳しいこと、つまり容姿や年齢は描かれない。息子についても中学生で野球部所属、という以外にはほとんど説明されていない。
 
 太宰治の辞書、の探究は『女生徒』に出てくる「ロココ料理」の話から始まる。「ロココという言葉を、こないだ辞書で調べてみたら、華麗のみにて内容空疎の装飾様式、と定義されていたので笑っちゃった」とある。
 こんなに「ロココ」の定義を悪く書いてある辞書なんて本当にあるのか。言われてみれば、辞書というのは、善し悪しの判断を感じさせるような定義というのはしないのではないか。
 ところが、では太宰の使っていた辞書はどんなものだろう、となると難しい。この作品で書かれているように、日常で使われていた小型の辞書などは、なかなか残らないからだ。価値ある古書として大切にされたりはしない。
 さまざまな辞書や百科辞典を引いた後に、残された太宰の書斎の机を撮った写真や『回想の太宰治』を読んだりして、ようやく、当時太宰が使っていたのは「掌中新辞典」だろうと見当をつける。側に置いて、外出の時は持ち出したくらいなのだ。小さいに違いない。実際に見た時の印象は「かまぼこ板」、と書いている。
 そしてその掌中新辞典には「ロココという項目はなかった。
 太宰は、心の辞書を引いていたのだ、という結末。
 なあんだ、と思う人もいるだろう。が、もちろん、本をめぐる話は、その過程を楽しむべきなのだろう。
 とは言っても、もう一度、「日常の中のミステリー」を円紫師匠に解き明かしてほしい気持ちは、やっぱり残るのだけれど。  

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2016年11月08日

本 贋作『坊っちゃん』殺人事件

 以下の文章では、柳 光司 の「贋作『坊っちゃん』殺人事件」の内容に触れています。ご了承ください。


 ミステリーをあまり読むほうではないので、「へえ、『ジョーカー・ゲーム』の作者がこういうものを書いているのか」と思った。もっとも『ジョーカー・ゲーム』も映画になったということを知っているくらいで、読んだことはないのだ。
 はじめのうちは特に、もとの『坊っちゃん』を思わせる言葉遣い・リズムで、よくよく『坊っちゃん』を読み込んで書いたのだろうと思われる。
 赤シャツが死んだと聞いて驚き、山嵐に誘われて、再びあの地へ行こうかという時の
「そうだな、まあ行かないでもない」
「なに、休めないことがあるものか」
というような喋り方も坊っちゃんそのものだ。
 再び四国に着く時の様子は、坊っちゃんが初めて赴任した時とまるで変わらないし、それが三年経っても、ここが変化していないことを示しているようだ。再会しても変わらない山城屋のおかみ。相変わらず、よそ者のしたことはすぐに町中に伝わる速さ。
 地元のばあさんとのやり取りにはさまる、坊っちゃんの感想
「田舎の噂なんて大抵こんなものだろう。死人に口無し。都合の悪いことは全部死人のせいだ。おちおち死んでもいられない」なんていうのも、いかにも坊っちゃんの思うことらしい。

 鍵を握るのは『坊っちゃん』本編では重要だが、そんなにたくさんは出てこないマドンナとうらなりくんである。こういう小説の場合、本編ではそんなに出てこなかった人のほうが「実は……」という話を作りやすいわけだ。
 漱石は、たいてい主人公などから憧れられる女性の内面は描かないからこそ、マドンナをこういうふうにアレンジできる。
 そして、漱石は決してあからさまには同時代の政治のことを描かなかったが、ここでは「赤シャツ=社会主義」「山嵐(堀田)=民権派」という対立があったということを謎解きの背景にしていく。東京から来た坊っちゃんが最初いったい何者かと疑われ、情に厚く熱心だから自分たちの仲間に引き入れたかったという事情も語られていく。
 この謎解きの部分になると、説明が多くなるから、もとの『坊っちゃん』の文章のリズムや表現をうまくなぞったような描写は、どうしても少なくなっていく。それが残念だが、もちろん、推理ものの、同期や背景を説明する部分というのは、どの小説でもそうなるものだ。
「こう読めるかもしれない」という物語として面白かった。
  

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2016年11月01日

家政夫と代理の母

 以下の文章では、テレビドラマ『家政夫のミタゾノ』と、原田ひ香の小説『母親ウエスタン』の内容に触れています。ご了承ください。

 
 10月21日から始まった『家政夫のミタゾノ』を見た。どう聞いても以前あったヒットドラマのパクリのようなタイトルだが、主人公は女装の男性。ほぼ無表情で、雇い主の家の「見られたくないもの」を暴いていく。ものすごく愛情深いというわけではなく、そんなにその家族から好かれるわけでもない。
 ただし、家事全般はきちんとやる。プロフェッショナルというわけだ。そのコツを見せる、というのも売りものらしい。第1回では、途中までミートソースを作ったのを急遽中華に、ということで「食べるラー油」を混ぜ、ナスを入れて麻婆茄子にするというワザ。シャツのシミを急いで抜く方法。浴室のカビを減らすには・・・・・・というのが披露された。
 一話完結なので、一見幸せそうに見える家族の「実は・・・」という部分を暴いていく趣向らしい。ただし、最後は一応のハッピーエンドにするようだ。ミタゾノがどうして女装しているのか、なぜ家政婦という仕事を選んだのか、もいずれ明かされるのかもしれない。
 ちゃんと起承転結があって、家事のコツも見せてくれてお得感を出している。次々と家に行くのだから、いろいろな家庭を描けそうだ。
 
 さて、同じ頃、『母親ウエスタン』(原田ひ香、2012年)という本を読んだ。これは、子どもの母親代わりになるために家庭に入り込んでいく女性の話だ。男、よりも子ども。子どもの母親代わりになることが目的。そのために男には近づくけれど。
 もし、これがドラマなら、きっと一回につきひとつの家族での顛末を描くのだろうけれど、小説だから凝った構成をとる。男に近づいてきて、一緒に住み始める話が語られたかと思うと、一見関係のないような、大学生の男女の話になる。実はその男のほうが、かつてふらりとやって来た「母親」に世話になって、それは一年半だったのだが、その時のことを今も忘れす感謝している。その人らしい人を見つけたので、自分から近づいていく・・・・・・という話。さらに、もうひとつ別の家庭の話、彼女がなぜそういう暮らしをするようになったかということも明かされていく。
 正直言って、この種明かしのような「なぜ」の部分は無くても面白いのに、という気もする。しかし、そうはいかないのだろう。代理の母を続ける彼女には、ひとりだけ自分の実の子を手放してしまった過去があった。姑に追い出されるように離婚して、それからこういう生き方をするようになったこと。実は次々に回った家族のことはよく覚えていなくて、今も実の子ひとりだけは忘れられないこと。
 そう明かされてしまうと、自分のてから失われた子の代わりを求めていただけなのか、とちょっと思う。奇抜な理由が必要だとは思わない。いっそ何の理由もなくそういう生き方をする女性がいた、という話のほうが面白い気がするが、どうだろうか。

追記 そうこうするうちに、『ミタゾノ』第2回が放映された。ふむ・・・いつも、いわゆるふつうの幸せな家庭(家族みんなで仲良く一緒に暮らす)が結末になるのなら、ちょっと面白くないかもしれない。全然別のドラマだが『家売るオンナ』が面白かったのは、家族という形は崩壊しても、あるいは世間一般的に見れば家族でない者どうしが一緒に暮らしてもいいんだよ、という例をいろいろ見せてくれたからではないだろうか。  

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2016年11月01日

映画『ベストセラー』

 以下の文章では、映画『ベストセラー』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 事実に基づく物語だそうだ。フィッツジェラルドをデビューさせ、ヘミングウェイの何作かを世に出した名編集者がいた。パーキンズという男で、家庭では妻と五人の娘の父。トマス・ウルフが持ち込んだ原稿を認め、手直しさせ、デビューさせる。ウルフはデビュー作で「天才」と評される。

 そこからが大変だ。2作目を書き上げるが、これも手直しの連続。二人で編集部に一日中こもったり、パーキンズの家にウルフが泊まったり、ほとんどスポーツ選手の合宿みたいだ。実際にパーキンズがどこまでウルフにヒントを与え、ガイド役を果たしたのかはわからないが、ここで見る限り、その指摘は的を射ている。たとえば、初恋の女性との出会いの場面を延々と比喩を使って描写するウルフに、初恋だろ、そんなことを思う暇があるか、と短く書き直させる、というように。
 しかしウルフにもパーキンズにも不安はある。こんなに「編集される」のは自分だけではないかと思うウルフ。酔って、「ヘミングウェイやフィッツジェラルドにもこんなに直させたのか?」とからむ。一方、パーキンズは、本当に作品をより良くしているのだろうか、もしかしたら「別の作品」を作っているのではないかと悩むこともある。
 ウルフのパトロンだったユダヤ人の夫人はパーキンズに嫉妬し、パーキンズ夫人は、夫は自分に持つことのできなかった息子の代わりにウルフの面倒を見ているのだと思う。
 本を読むのが仕事であり趣味でもあるようなパーキンズをウルフが一夜誘い出し、ジャズを聴かせる場面が楽しい。
 また、フィッツジェラルドやヘミングウェイとパーキンズの交流も挿入される。書けなくなったからハリウッドへ行こうと思うと言うフィッツジェラルド。スペインへ行くと話すヘミングウェイ。彼らのそういう姿を見ていると、今、小説を書くのに必死なウルフにパーキンズが入れ込むのも納得できる。
 二作目も高い評価を得たウルフだが、旅先で倒れ、短い生涯を終える。彼が死ぬ前に書いた手紙がパーキンズに届き、読み終わったパーキンズが涙をこぼすところでエンド。このタイミングが良かった。延々と泣くのを見せるわけでもなく、こぼれた涙を急いでぬぐうパーキンズの顔を少しだけ見せて、暗転。
 実際はどうだったのかは知らないが、ウルフがパーキンズの編集者魂も連れて行ったのでは、と思わせるようなラストだった。  

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2016年10月19日

夏目漱石の妻(ドラマ)

 以下の文章では、テレビドラマ『夏目漱石の妻』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 NHKの土曜ドラマ。連続4回。と言っても、1回が75分、CM無しだから、かなりの量。漱石の妻・鏡子のいとこにあたる房子がナレーターをつとめ、途中から房子自身、夏目家で家事手伝いをするようになる。
 あくまで「妻」中心だ。だから、ロンドンでの漱石は一場面も描かれない。もちろん、ロンドンで調子が悪くなったらしいという噂を聞いた鏡子の反応は描かれる。そういう意味では、妻・鏡子を演じた尾野真千子を堪能するドラマだったと言っていい。
 正直言って、このドラマでは、鏡子がなぜ漱石を愛したのかは、よくわからない。漱石の側は、たぶん自分よりタフなところのある鏡子に惹かれたのだと思う。
 ここで描かれる漱石は、ひと昔前の「モノを書く主人」のイメージそのものだ。家によく人が来る。学生もいるし、自身の体験を小説にしてくれと言う者もいる。そして彼らは平気で食事をしたり、夜遅くまで居座ったりする。妻としてはたまらないだろうが、その頃はまだお手伝いさんもいたから、ましだったのか。しかし、家計はいつも火の車で、朝日新聞へ入社してそれまでより高い給料を取るようになっても、あまり裕福そうには見えない。それなのに、漱石は自分の「良い本棚」は、妻に相談もせずに買う。
 現代の女性には、なぜ鏡子がそんな漱石と生活を共にし続けたのか、わかりにくいだろう。そのために鏡子のほうが先に、知的に見えた漱石に恋をした、という設定にしているような気さえする。漱石を演じるのも、小柄だった実際の漱石とは違って、長身の長谷川博己である。
 結婚したばかりの頃の鏡子は、なかなか朝早く起きられないのだが、それがずっと続いていたほうが面白かったのに、という気もする。そういう図太く見えるところのある鏡子なら、漱石は離れられないだろうし、鏡子自身も、まあまあこんなものだから、と割り切って生活していけたように思う。
 しかしドラマでは、第1回で結婚間もない頃、漱石は自分が養子に出されていた体験を話して、愛情を素直に受け取れないというようなことを鏡子に話す。ならば、その漱石が愛情を素直に出せるようになっていく過程を描いてくれたら、ドラマとしては見ていて納得がいくだろう。ところが、そういう過程は描かれない。専業作家になってからの漱石はますます気難しくなっていくように見える。それなのに、ラストでは鏡子が悩んだ末に一応の平穏にたどり着いたように見えるから、その軌跡が今ひとつ納得しにくい。ドラマとしての昇華、というのか良かったという思いが少ない。
 ただ、いつもNHKのドラマを見ると感じることだが、セットや衣装は素晴らしいし、丁寧なつくりだ。漱石の養父が竹中直人で、大塚楠緒子が壇蜜というキャストも面白かった。  

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2016年10月12日

巨悪は眠らせない

 以下の文章では、2016年10月5日に放映されたドラマ『巨悪は眠らせない』の内容に触れています。ご了承ください。

 真山仁『売国』のドラマ化。テレビ東京が本社の移転を記念してつくったドラマの3本目。1本目が、宮部みゆき原作の『模倣犯』、2本目が湊かなえの短編のオムニバスだった。この2つはミステリーであり、殺人事件があった。それに対して『売国』にはあからさまな殺人はないし、恋愛もない。派手なアクションもない。これをドラマにするのは、けっこうな冒険だと思った。

 原作の『売国』では、検事の冨永真一と、宇宙研究・ロケット開発に携わる八反田遥の物語は独立して交互に語られ、二人が出会うのは一度だけだ。政治家のヤミ献金を追ってきた冨永が、その政治家が宇宙開発にからんでいることを知り、学者を巻き込んで、アメリカに研究成果を売らせようとしているのではないかと疑う。それが八反田の師事する寺島教授だ。だから、二人が出会った時の八反田は、富永にいい印象を持たない。
 ドラマでは、二人を早くから出会わせた。二人の話が絡み合ってクライマックスへ向かうところを描きたかったのだろう。原作に描かれた要素を少しずつ、順序を変えたりして取り入れているが、大きな違いは富永が独身だということ。その設定を聞いて、八反田との恋愛話になったら嫌だなと思っていたが、そうはならずによかった。
 時間的制約があるからか、富永は原作よりストレートに悪を暴く方向に向かうように見える。特に上司に直接「捜査を続行させてください」と訴える場面があるから「熱く」見える。しかし、その熱さ、若さは「永田町のドン」と呼ばれる橘との対比のためにも有効だったのだろう。橘は長年にわたって自分の本当の立場を隠し、周りを欺いてきた男だ。そんな橘と向かい合って話す中で(富永の親友・左門がそれ以前から橘に、富永のことを話していたとしても)橘に信頼感を抱かせるには、熱さと共に理解力・推理力を持つ人間だということを示す必要がある。自分の考えを橘の前で話した富永に、橘は満足そうな表情を浮かべる。
 独身の富永の部屋は、仕事に熱い彼が自分をクールダウンさせるために作っている休息所のように見えなくもない。クラシックの音楽、ジグゾーパズル、冷蔵庫に入った大量の水。それを見ると、なんだか現実味の薄い人間のようだが、親友・左門や実家の父への思いが見える場面が富永の人間味を出している。
 要所で出てくる階段も印象的。上司に訴える富永が駆け上がる階段。記者会見を開いて自分を逮捕させようという橘がしっかり前を見据えて一歩一歩踏みしめて上る階段。逆に内閣官房長官の中江は階段を下りかけたところで検事たちに同行を求められ、そのまま下っていく。
 そういう象徴的なシーンも入れながら、抑えた演出で、音楽も邪魔にならないがスリリング。原作よりも富永の明るい力強さの見えるラストにしたのも、後味が良かった。  

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2016年09月28日

ドラマ「一の悲劇」

 以下の文章は、9月23日に放映されたドラマ『一の悲劇』の内容に触れています。ご了承ください。


 スペシャルドラマとして放映された『一の悲劇』を見た。興味を持った点は、原作が法月綸太郎ということ(彼も島田推薦を受けてデビューした人のひとり)、脚本が今度の『キャリア』の関えり香だということ。探偵役となる法月綸太郎(そう、原作者と同じ名前)を演じるのが長谷川博己。
 ふた組の夫婦が登場する。山倉志郎(井原剛志)と和美(富田靖子)、富沢耕一(神尾佑)と路子(矢田亜希子)。山倉夫妻のひとり息子・隆史は本当は義弟の三浦靖史(浪岡一喜)の子だが、引き取って育てている。それは、和美が5年もの不妊治療の末やっと身ごもったのに流産して、子が持てない体になったためでもある。富沢夫妻のひとり息子・茂は実は路子と志郎のあいだにできた子。かつて、和美が流産してつらかった時期に、ふたりは不倫関係にあった。志郎はそれをいけないこととして別れたのだが、数年後、山倉夫妻は近所に越してきて、子どもどうしは仲良くなる。
 誘拐しかも誤認誘拐と思われる事件だった。隆史を誘拐したという電話があったのだが、実際に誘拐されたのは、茂。茂がいつも隆史を呼びに来て二人で学校へ行っていたのだが、その日隆史が熱を出して欠席したため、ひとりでいた茂が誘拐されたのでは、と最初思われる。
 実は、夫と路子のあいだの子である茂を見るに耐えられなくなった和美が、三浦に話を持ちかけ、三浦が計画を練った。三浦はミステリを書いたこともあるが、作家にはならず今はテレビディレクターの仕事をしている。それで、その日は法月綸太郎のところへ一日中取材に来ていて、アリバイがあった。実は法月の目の前で脅迫電話をかけていたのだが、あらかじめ録音したものとスマホがあれば、できるのだ。
 朝家まで来た茂を迎え入れてその場で眠らせ、ガレージに置いておき、夜になって殺害したのは和美。山倉志郎は身代金を持って走らされるが、それは茂の遺体を運ぶために時間を稼ぐ必要があったからだ。
 しかし協力者の三浦も、和子は殺してしまう。
 ここでの密室の作り方は『私の嫌いな探偵』にも出てきた、刺された人がまだ息のあるうちに内側から鍵をかける、というのだった。
 警視・法月貞雄(奥田瑛二)が綸太郎の父だし、綸太郎が一緒にいたということが三浦のアリバイになっているので、綸太郎が推理に乗り出したわけだ。
 法月家に長年つとめているらしいお手伝いさんの小笠原花代(渡辺えり)が面白い。コナンや相棒や金田一くんを引き合いに出して、ミステリマニアか?と思わせるが、彼女がいいので、逆に彼女の登場しないシーンが長いと(主に和美目線で描かれる、過去)ちょっとつらい感じもする。
 脚本はダレることはないが、茂が誰の息子かを路子が明かすシーンあたりから延々と流れる歌は必要だろうか? もう少し短くても(2時間以内でまとめても)良さそう。
 それと私は長谷川くんのファンではないので何だが、冒頭出てきたあと30分くらい出てこないのは、ファンだったら物足りないかも。そして、和美が落ちていく場面のやり取りはいまひとつ胸に迫らない。
 タイトルと最初の山倉志郎が駈けずり回されるところの画面分割が、1960~70年代の映画を思い起こさせた。法月家のインテリアはレトロで素敵だが、和美の逃げ込んだ別荘〈?)が安っぽい感じで残念。  

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2016年09月25日

『模倣犯』物語を壊すこと

 以下の文章では、ドラマ9月21・22日に放映された『模倣犯』の内容・結末に触れています。ご了承ください。


 原作を読んでいないので、まったくのドラマの感想。
 これは「物語についての考察」という面を持っている。現実に決して満足してはいない人物が、物語をつくり出す。そしてそれをできるだけ多くの人に見せたいと思う。衝撃的な話であるほうが注目を集めやすい。
 犯人の発想は、そんなところだろう。もちろんそれまでの生育歴が影響したことは考えられる。しかし犯人の一番の希望は「自分のつくった物語に多くの人が注目してくれること」だったらしい。
 そんな犯人には初めから罪悪感はない。後悔もない。罰されるべきだとも思っていない。自分のつくり出した物語は面白いでしょう? と言っているだけだ。
 そんな時、犯人を打ちのめすのは「あなたのつくり出した物語は、たいしたものじゃない。いや、それはあなたのつくり出したものですらない」と断言することだろう。
 まさに、そういう方法で犯人をやり込める話だった。

 もうひとつ、主人公にとって、これは自分の女性らしさを回復させる、あるいは回復したと見せる結末になっていた。話が進行するにつれて、夫は、家庭よりも仕事を優先し、子どもをつくらないできた主人公に愛想をつかす。
 その夫は、主人公がひとりで弱い立場にいて、助けを求めていると知った時に、彼女のもとへ急いで駆けつける。
 女性らしさ、というのも難しい。もし女性らしさの現れが男性に頼ることだとするなら、兄が犯人と報道されて打ちのめされ、真犯人に優しくされて幸せ、と言う由美子のような道をたどることにもなりそうだ。
 主人公は、初めはたぶん野心から、途中からは責任を感じて、事件を追跡した。その途中で離れていった夫。しかし最後に主人公は夫を頼って、夫を取り戻した。
 もしかすると、事件を追うことを通じて、どのように人を頼るべきかを学んでいったのかもしれないが……  

Posted by mc1479 at 12:53Comments(0)TrackBack(0)
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