2018年08月16日

名人は危うきに遊ぶ

 白洲正子さん著『名人は危うきに遊ぶ』から思ったことです。

 おそらく文章界(という言い方があるのか、どうか)は、「元気・わりと上から目線・シニア」女性の書き手をときどき必要とするのだろう。
 瀬戸内寂聴さんは長くそういう立場であるような気がするし、かつてのドクトルマンボウのお母さんとか宇野千代さんとか、この白洲さんもそんな感じがする。
 で、白洲さんに場合はとりわけ「上等」なのである、ご自分が。そして周りもたぶんそれはそうだと思い、またそれだからこそ原稿をお願いしていた面もあるのではないだろうか。
  
 たとえば、この本の中にある表現。
 「カルチャーセンターに通う人種と、ふつうの生活人との違いが見られるようで面白かった」「やれ森林浴だの、緑のキャンペーンだの(中略)そんなものはカルチャー・センターに任せておけばよろしい」という言い方からは、明らかにカルチャー・センターを軽く見ている目線がうかがえる。世の中には、カルチャーセンターに行って初めて教養を身につけた人もいるかもしれないが、生まれながらにしてあふれる教養を身につけられる立場にいた人は平気なのだ。
 ついでに「日本にはめくらといういい言葉があるのに、禁句になっているとは、なんとユーモアに欠ける国民であることか」とテレビの放送を避けましょう的な言葉づかい集には従いませんよと言いたげな構えも見せる(もちろん著者は目の不自由な人を見下しているわけではありません)。
 しかしこういう「自分は正しい」という書き手は、ある意味必要とされている、というのもそれはそうだろうと思うのだ。そういう文章があってこそ面白い。
 たまに表記で気になる。福原リン太郎氏の文章について「珠玉とか傑作とかいう言葉はこの先生にふさわない」とあるが「ふさわない」という言い方…つまり「ふさう」という動詞があってそれを打ち消したもの…というのは、あるのか?  

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2018年06月26日

あなたには帰る家がある 結末

 以下の文章では、ドラマ「あなたには帰る家がある」の内容・結末に触れています。ご了承ください。


 主人公の真弓は、日常生活に楽しみを見いだせない人だ。だから、すっかり日常になってしまった夫婦生活には不満ばかり。ナスダ夫婦に踏み込まれて生活はメチャクチャになるけれど、実はけっこうスリルを楽しんでもいたのでは?
 ナスダの妻、真弓の夫の浮気相手・綾子は、日常生活に幸せを見出そうとしてきた人。だから日々の食事つくりや住まいを快適に保つことに気をつかう。それが、秀明に出会って壊れてしまった。「もしかするとこれ以上の幸せがあるのかも」という間違った期待からだろう。期待を持たせるのが悪い、と秀明ばかりを責めるのは気の毒だ。
 その期待が実現されないことを他人から指摘された時には、綾子はまだ自分だけが信じ込みさえすれば何とかなると思う。だって、これまでもそうして自分を信じ込ませて生きてきたのだから。でも実際に秀明と同居「ごっこ」をすれば、さすがに自分でもわかる。その時都合よく、まだ愛してる、帰ってこい、と言う夫の太郎。
 
 何だろう。この綾子のハッピーエンドを素直に祝福できない気持ち。それは、ひと昔前のおせっかいな「愛される女性になる秘訣」と同じような気がするからか。
 愛するよりも愛されるほうに持っていきなさい。そのためには相手も立てて。自分がどれだけ尽くしているか、自分によっていかに周囲が快適になっているかを相手にやんわりと、でもきちんと伝えるようにしなさい。そしてご褒美をもらえばよろしい。
 まあ、だいたいの「愛され方」アドバイスというのは、そんなところ。
 太郎が建てる家は綾子への愛情表現だろうし、ご褒美なのだろう。はっきりとは描かれていないが、勤め始めてみた綾子はきっと家に帰ると同時に勤めは辞めるのだろう。つまり勤めてみたことは「私にはこういう力もある。あなたがいなくてもやっていけるのよ」というアピールだったわけか。
 
 一方の真弓のお仕事ぶりは「セクハラ対策担当」以外にほとんど描かれなかったのは残念だが、きっと真弓にとってはお仕事もすぐ「日常」になってしまい、面白いこともなかったのだろう。
 夫の浮気から起こったことで、さんざん「日常」ではないことを味わった真弓が、「もう日常には帰れない」と思ったとしても不思議ではない。一方、おバカな秀明は、浮気という非日常を自分からやっても、真弓のいる日常へ帰れると思っていた。そして、綾子と暮らしてみれば、これまた「日常」になってしまって楽しくもなんともない。

 だから、結末=真弓とデートすること、は秀明にも楽しいはずだ。何年か先にプロポーズしたら…とわざわざ尋ねるのも、秀明にとってはその先にある結婚生活よりも、まずプロポーズが非日常で楽しいからかもしれない(何しろ昔、砂浜にわざわざ『ローマの休日』の真実の口を作って、そこに指輪を入れてプロポーズした男である)。だとしたら、この楽しさをしばらくは味わっていってください、としか言いようがない。  

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2018年06月17日

あな家秀明さんがいい

 以下の文章では、テレビドラマ「あなたには帰る家がある」第十回、またはそれ以前の内容に触れています。ご了承ください。


 淋しい回だった。秀明さん目当てに見ているのだから。ドラマ実質45分中、毎回20分以上は(時には30分以上)出てきてくれていたのに、今回は16分。淋しい。
 もちろん太郎先生を上げる回だから。でもイマイチ彼の良さには絶賛できない。
 ものすごく意地悪な見方をすれば、彼が服のよごれを気にせず人助けをできるのは、いつも服をきれいにしてくれる誰かがいたからだと思う。
 彼の言うことはある意味で正しい。正しいだけに、それを周りにも受け継いでほしいと思っている感じ。「(妻の)綾子を守ってきた」のは彼の正しさだったのだろうが、それを「幸せにしてやってくれ」と人に押しつけるのは、どうか。人は自分でしか幸せになれないと思う。
 彼と真弓さんは「自分が正しい」と思っている様子が似ている。
 綾子さんは「正しい」とは思っていないが、自分の好みを貫き通す。
 ひとり秀明さんだけが柔らかく対応し、変わっていけるような気がする。そういう意味で秀明さんはこのドラマの救い、要だと思う。  

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2018年05月22日

あな家 第六回のもやもや

 以下の文章では、テレビドラマ「あなたには帰る家がある」の内容に触れています。ご了承ください。

 断っておくが、「あな家」はとっても楽しませてもらっている。今のところ最高は第三回。ユーモアと恐怖の絶妙なミックス。
 さて先日の第六回では、原作では最終のクライマックスに当たる場面を迎えた。佐藤秀明とナス田綾子の浮気がばれた以上、そうそう引っ張れないだろうから、このあたりでこれが来るのは適切なのだろう。
 最初から原作とは設定が異なっていたので、ナス田夫妻襲撃場面があったことが、まず嬉しかった。だって贔屓が負傷する場面って結構見たいじゃないですか(あくまでも演技として)。それも見られたし、病室での上半身裸も見られたんだけど…これまで細かいところに気を配ってきたドラマにしては、この病室の場面はイマイチ。真弓が秀明の体を拭いてやる場面があるのだが、たとえばこの方が面白いのでは? 真弓が病室に入っていくと、看護師が秀明の体を拭いている最中。秀明h「ありがとう、すみません」という顔で看護師にちょっと微笑むようにしているが、真弓が入ってくると、顔をこわばらせる…あるいは個室でなくて四人部屋とかで、真弓が行くとにやっとする男性患者がいるとか。秀明は基本的には仕事上などで接する人には愛想よくふるまわなくてはと思っている人だろうし、ナス田太郎以外にも、女性と見ればなめるような視線で見てくる男性は「いるもので。

 そういう細かいところとは別に、もやもやの残る回だった。まだ続くのだからそれでいいでしょうと言われればそれまでなんだけど、もやもやの主因は太郎さん。秀明は一応変われるかどうか頑張ってみます的な態度は見せるけれど、変わりそうにないのがこの人。今回、佐藤家に乗り込んで、秀明に殴らせろ、と迫って室内をめちゃくちゃにした。秀明は逃げ惑って、自分で落っこちるのだが(この人は綾子との恋?の場合も、つくづく自分から落ちるのだ)何はともあれ、秀明は痛い目にはあった。で、太郎の方はこれでいいのか? 妻に浮気された、その罰をどうしてやろう、相手に殴らせろと迫り、妻にはこれからも尽くせと言う。秀明は少なくとも今は、浮気した自分への罰として怪我を受け止めたように見える(今後、離婚したらまた変わるかもしれないが)。太郎はモラハラ・セクハラを変えようとは思っていない(ように見える)。
 秀明のような美形の夫を持たない女にとっては、仕事上などで接する時に秀明と太郎のどちらが迷惑かと言えば、太郎だろう。打ち合わせの席などで平気でセクハラ発言をしてくるし、客の立場であれば、相手はそうそう嫌な顔はできないだろうと思っているフシもある。だからどうも第六回のもやもやは、太郎はまったく変わりそうにないところにあるのだろう。もちろん、不倫がばれれば叩かれるが、セクハラ罪はありませんという現実世界を反映した展開です、と言われれば、はあ、そうですか、と言うしかないのだけれど。
 繰り返して言うが、でも、楽しんで見てますよ。  

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2018年02月01日

舞台「危険な関係」2

 続きです。

 女性には、わりとその意見に賛成してくれる人もいるのではないかと思うけれど、メルトゥイユ夫人はカッコイイ。女は男に従属するのが普通だった時代に、自分で本を読んで研究し、男と対等に生きようとする。飽きる前に亡くなってくれた、とは亡夫に対してずいぶんな言い方だが、つまり彼女は夫が生きている間は、愛人を持たずに済んだのだろう。そして夫の死後は、どんなに再婚の申し込みがあっても独身を通す。今までの(歴史上の)女たちの復讐をしているのだと言う。近代のフェミニストが言いそうな言葉だ。
 男と対等でいたい、というだけでなく、愛に関してはロマンティックな面もある。かつて恋人だったヴァルモンはいまだに彼女とベッドを共にすることを願っているのだが、彼女は厳しい条件をつけた上、一緒に過ごすなら一夜だけ、と言う。一夜だけ過ごして別れるのが一番いいのだ、と。そこには「倦怠など感じる前に別れる」という現実的な側面を共に、「美しい思い出にしておきたい」という願いも感じられるではないか。
 そんなふうに「自分にとって最良のやり方」がわかっているのが彼女なのだ。
 ヴァルモンは、どうか。彼は狙った女性を攻略するのには知力を尽くしても、いったん関係を持ったとなると、熟慮した行動をとっているとは言いにくい。セシルの妊娠にしても面白がっているようにメルトゥイユには話すけれども、最初から計画にあったわけではないだろう。おそらく、メルトゥイユは、ヴァルモンのそういう面も知っていた。だからトゥルヴェルを手に入れた後の彼が、彼女にのめり込んで行くかもしれないという予想ができた。そして、それを阻止する。
 それはヴァルモンに、プレイボーイとしての面目を保たせるためなのか、嫉妬なのか? 私は、彼女があくまで彼と対等でいたかったのだと思う。
 自分がヴァルモンに従属するのは嫌。でも彼のほうが自分より劣った(?)存在になるのも嫌。自分が、ひとりだけに深入りすることなく、きれいに別れて楽しんでいるように、彼にもそうしてほしい。お互いにそうできる者どうしなら、いい関係でいられるんじゃない?
 おそらくヴァルモンには、そこまでの割り切りができていない。エミリーのような娼婦は別として、それなりにくどいて関係を持った相手には、たぶん彼は彼なりの「恋愛」をしているのだ。それがトゥルヴェルに対しては深くまで行き過ぎた(とメルトゥイユには見えた)。ヴァルモンはメルトゥイユに指摘されてトゥルヴェルと別れるが、自分がいつもより深入りしていることに自覚的ではなかった。

 考えてみれば、この話の中でもっとも「恋愛のはじめから終わりまで」を描いているように見えるのは、ヴァルモンとトゥルヴェルの関係なのだ。反発、反発しながら惹かれる、激しい求愛、相思相愛、喜び、別れ、悲しみ。そのひと通りを経験した二人は幸せだったのかもしれない。トゥルヴェルが病気になり、ヴァルモンが死に、その知らせを聞いたトゥルヴェルも死ぬという結末は、時間差の心中だと言えなくもない。そういうところが、軽薄で残酷なヴァルモンを、この話の中で一番ロマンティストだったのかもしれない、と思わせる要因だろう。
 それに対して、メルトゥイユはあくまで「ゲームを続ける人」であろうとする。しかし、ラストでゲームを続けているはずの彼女は目隠しをされてたいへん危うい感じに見える。その姿は、時代に取り残され、それでもなお、自分のやり方を続けていこうとする人のようにさえ見えるのだ。しかし彼女は最後までプライドを持って貫くのだろう。
 ヴァルモン、メルトゥイユともにそういう見方ができるので、ただの嫌な人、策略家には見えず、心に触れるのだろう。

 当然だが、伏線の多いセリフにも惹かれる。第一幕の終わりで、いったんはヴァルモンから逃げ出すトゥルヴェルがロズモンド夫人に相談すると、夫人は「男は自分が幸せになれば満足する。でも女は男を幸せにしないと満足しないのだから」と言う。ついにトゥルヴェルががヴァルモンに陥落する時、これが効いてくる。
 ヴァルモン「どうしてそんなに苦しむんだ。僕を幸せにしてくれるんだろう?」
 トゥルヴェル「ええ、あなたを幸せにしなくては、私ももう生きていけない」
 また最初のほうでメルトゥイユがヴァルモンに「回顧録に書けば?」と言い、彼が「書いている暇はないんじゃないかな」と答える場面も、ヴァルモンは回顧録を書く暇もなく死んでいくことを早くも暗示しているようにも見える。

 なお、舞台に現れる現代日本でもありそうな小道具。もしかしたらこれらは、18世紀フランスと現代日本とで同じような話が進行している、という形を表しているのかもしれない。もちろん現代日本に決闘による死は、ない。しかしスキャンダルによって人を社会的に葬ることはできる。そのあたりに現代に通じるものを感じたトワイマンの演出なのかもしれない。  

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2018年02月01日

舞台「危険な関係」

 昨年のことになってしまったが、鑑賞した舞台「危険な関係」のことを書いておきたい。なお、舞台の内容・最後のみならず、これまでの映画化についても触れています。ご了承ください。

 何度も映像化されている作品だが、私の見たことのあるのは、ロジェ・ヴァディムの二度の映画化、スティーブン・フリアーズのもの、ミロシュ・フォアマンのもの、そして舞台ではアダム・クーパーのバレエ。バレエは表現方法がかなり違うので置いておく。
 ヴァディムの一度目の映画化はジャンヌ・モローとジェラール・フィリップという魅惑の顔合わせだが、私は実は二度目のが結構好きだ。ナタリー・ドロンとジョン・フィンチとシルビア・クリステル。何しろシルビアがトゥルヴェル夫人だからフルヌードあり。ジョン・フィンチもヌードで。フィンチというと、これ以外には『マクベス』『ナイル殺人事件』くらいしか見たことがないのだけれど、ここでは我儘で繊細な感じ。彼が致命傷を負って倒れた瞬間にバッサリという感じで終わる、その終わり方も気に入っている。

 さて、今回はもちろん、玉木宏がヴァルモンを演じることに興味があった。一般的なイメージからいけば、ぴったりではないだろうか。貴族で、チャーミングで、女に不自由していなくて、恋愛をゲームとして楽しむ。年上のメルトゥイユ夫人とかつて恋人どうしだったというのも、彼のこれまで演じてきた役で年上の女性と恋仲になるのがわりとあったことからも自然に思える。

 舞台は18世紀フランスには見えない、巨大な引き戸(透明なものと、向こうが見えなくなっているものとある)を活かした空間。引き戸の向こうは庭であったり、寝室であったり、場面に応じて適宜変わっていく。そして戸の上方や、柱に当たる部分に、たとえば「八月 メルトゥイユ侯爵夫人邸」というように時と場所を示す字幕が投影される。この字幕と引き戸の活用で、場面転換をスムーズにしている。
 
 私が初めに見たのは二日目(初日はチケットが取れなかった)。正直に言うと、ちょっと焦り気味な感じがした。場面転換がスムーズなのは良いのだが、役者さんたちが息つく暇がない、という感じなのだ。特にヴァルモンはセリフの言い方が速く、もう少しゆっくり時間をとってもいいのではないかという感じがした。
 三日目になると、セリフの速さになじんできた。捉え方によっては、この話し方はヴァルモンの生き急ぐような、どこか自分の破滅とこの社会の終わりを予感しているようなところをも表しているような気がした。
 しかし、誤解を恐れずに言うなら、演出が活かそうとしたのは、玉木のセリフ回しより、まず身体だろう。細見で筋肉質、なめらかでごつごつした感じがないのに、力強い。白いシャツに身を包んでいると、どこにこんな清潔で高貴な人がいるかしらという趣なのに、上半身裸になると危なくセクシー。適切な場面で彼の上半身を見せることによって、実はこんな危険な男、というのを説得力を持って見せる。
 脱ぐとすごく鍛えられた身体なのだが、顔が小さく着やせして見えるのは、ラスト近くの決闘シーンにも効果的。ダンスニーは死にもの狂いなので卑怯な手も使って執拗に攻める。ヴァルモンはどこかそれを受け入れている感さえある(「いいじゃないか、正当な理由があったんだ。それに引き替え、俺のしてきたことといったら」という最期の言葉がそれをほのめかしているようにも思える)。
 そしてその身体が細く長く横たわったまま(つまりヴァルモンの死体は舞台上にあるまま)最後の場面を迎える。最後に「ゲームを続けなくては」と言ったメルトゥイユ夫人は目隠しをされ、身体を何度か回される。もちろん、夫人の言葉を素直に受け取れば、これは「ゲーム」なのだろうけど、目隠しをされたままの彼女が宙を探るように腕を伸ばすところで暗転して終わる、という最後は、ちょっとヴァディムの二度目の映画版のラストを思わせるようなぶった切り方でもあって、余韻というよりショックを味わわせるような終わり方だった。

 ここで、いったん切ります。  

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2018年01月31日

映画「悪と仮面のルール」感想

 以下の文章では、「悪と仮面のルール」およびその他の映画の内容に触れています。ご了承ください。


 松橋真三プロデューサー(以下、松橋P)制作の、玉木宏主演映画を見てきている者にとっては「こう来ましたか」という映画。
 暗い画面のまま、玉木の声だけが響くファーストシーン。明らかに『ただ、君を愛してる』を思い起こさせる。松橋Pとのコラボは『恋愛小説』から始まっただけに、ラブストーリーが印象的だ。おそらくこれと『ただ、君を愛してる』あたりを二人のコラボの代表作にあげる人が多いのではないだろうか? 一見、恋愛とは無関係な『MW』も、監督に言わせれば「結城と賀来とMWの三角関係」なのだ。
 そして『恋愛小説』では美しく控えめながらあったベッドシーンは『ただ、君を愛してる』では一度だけのキスに集約され、『すべては君に逢えたから』では、キスシーンすらない。
 年を経るにつれて、どんどんプラトニックになっている感すらある。しかし、『すべては君に逢えたから』を見た時には新機軸かと思った。それまでは女性が亡くなるパターンが多かったのに、初めてハッピーエンディングと呼べるラストを迎えたから。さて、この後に松橋Pのつくる玉木映画はどうなるのかと思っていたら、今回の『悪と仮面のルール』である。ベッドシーンはあるが、他の女性と。恋い焦がれる相手には手も触れない、いや、かつてこの二人は抱き合い、キスしたこともあったのだが、幸福はすでに過去の記憶にしかない。
(希望は過去にしかないbyバルザック)
 今回は二人とも生きながら、でもおそらくこのまま二度と会うことはないだろうというラスト。もちろん、それは原作をなぞっているのだが、原作にはもう一人女性が出てきて「二番目がいいってこともあるから」と主人公に同行するのだ。でも、この映画にはそれがない。
 そう来たか。あくまで思いを秘めながら、ひとり旅立つ。不幸とは言えないけれど、泣けるラスト。涙というのも松橋P玉木映画にはわりとあって『恋愛小説』でも『ただ、君を愛してる』でも、クライマックスで見事に美しく、彼が泣く。『すべては君に逢えたから』でも泣く。今回は抑えがたく流れる涙を見せてくれる。
 というより、今回はもうすべて玉木を見せる映画だと言ってしまいたい。基本的に「玉木と誰か」が話している。それぞれの場面で人間関係がわかり、過去も少しずつ見えてくる。そして、愛する女性と二人だけのシーンがクライマックス。「ごく恵まれた少数の者だけが持つことのできる、幸福という名の閉鎖」としての空間の中で、自らの正体を明かさないまま、愛の告白をする。相手の女性も今話しているのが誰かを察しながら、問いただすことはしない。閉じた空間を出ていく女性と、閉じた空間である車を走らせながら、生きていく男性。映画の中に「僕の中の最高の価値は、善でもなく世界でもなく神ですらなく、香織だった」というセリフがあるが、それを借りるなら「最高の価値は玉木」という映画だ。
 見る者は皆、彼の表情、手のしぐさ、息遣いの細やかな変化にそって物語を追う。それが十分に尽くされたのちにラストシーンが来る。
 そして、本編とその後に流れる主題歌は(和歌でいう)長歌と反歌の関係だと思った。  

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2017年12月28日

鬼畜

 以下の文章では、12月24日に放映されたドラマ「鬼畜」の内容に触れています。ご了承ください。


 松本清張の短編が原作。映画版も、過去のドラマ版も見たことがなく、今回、玉木宏主演でドラマ化されると聞いてから原作を読んだ。
 原作はごくあっさりと、突き放すように描かれている。主人公・宗吉以外の心情は描かれず、宗吉のそれもごく断定的で簡潔に描かれるだけだ。つまり、それは脚本がいくらでも隙間を埋めることのできる原作でもある、ということになる。
 妻役が常盤貴子で愛人役が木村多江である以上、ふたりの対照的な様子や対立を見せたくなるのは当然だろう。事実、ここでもそのケンカには気合が入っている。原作だと宗吉の家を訪れて子供たちを押しつけた後は出てこない愛人は、その後もう一度促されて宗吉宅を訪ね、妻と大ゲンカをする。宗吉はおろおろするばかり。
 正直、この「おろおろする玉木宏」を見せたかったのでは、と思うくらいその様子はハマっているのだが、それだけでは鬼畜にならない。子供を殺そうとするから鬼畜なのだ。しかし現在では実の子を殺す親がいる(そういう事件が報道される)から、殺すのをためらう宗吉はむしろ「人間的」に見えてしまうかもしれない。
 ドラマの設定は昭和51年になっているが、なぜその年代にしたのかがよくわからない。原作通り昭和30年年代のほうが「貧乏だった時を経てようやく少し余裕の持てた男がついつい妾さんを囲ってしまった」という設定に説得力があったのでは? その時代のほうがまだ「二号さんを持つ男」に何となく(男同士の間では)「あいつも余裕が出てきた」と思う雰囲気があったような気がするからだ。また、自分の妻に子ができないので他の女を求めた、というにしても昭和30年代のほうが説得力があったように思う。昭和30年代にするとロケ地を探すのが大変だから、昭和も後のほうにしたのかもしれないが…
 実は原作を読んだ時、もっとも印象に残ったのは、2歳の次男が死んだ時、まったく証拠はないのだが宗吉は妻が殺したのではないかと疑う、その時に妻が珍しく積極的に宗吉を求めてくるという描写だった。愛人が子供たちを押しつけていってから、きっと妻との間にそういうことは絶えていたに違いない。いや、もっと前からなかったのかもしれない。しかし妻が(証拠はないにしても)共犯意識からそういうふうにしてきて、宗吉もそれに興奮してしまうというのは、ありそうなことだと思った。だからその場面が無いのはちょっと不満。ただ、宗吉が置い込まれていく様子と妻の、引くに引けない思いつめた感じはよく出ていた。
 なんで子供たちがあんなに宗吉を慕うのだろうという感想があったが、きっと子供にはこの人がいないと困る(何しろ子供というのは保証人とか保護者とかが必要)ということがわかっていて、大人三人を別々に見れば宗吉が一番マシ、と判断したのかもしれない。
 ロケ風景は美しく、父子が海辺を歩く遠景は「砂の器」へのオマージュかとも思わせる。和泉監督はたっぷり時間をかけて玉木くんの表情を捉えてくれる。
 設定的には、妻はほぼ家の中にいる。小さな印刷所で、仕事場と住居が一緒というのは、そこに密着する度合いも高くなるのかもしれない。外回りは宗吉がやっているというのは原作からの設定だ(だから外に女もできたわけだが)。それにしても、このドラマでは妻が買い物に出るシーンもないようだ。一度婦警が訪ねてきた時に出たのかと思ったら、すぐ戻ってきた。ケンカの後、愛人が出て行った時も、追いかけてさらに追いやるようなことはしない。とりあえず家から出ていけばいい、という感じだ。愛人をつくったとばれた宗吉に「出ていけ」と怒る場面もあった。子供たちにしても必ず死んでくれなくても、ここからいなくなればそれでいい、と思っているようだ。だから最終的に妻が逮捕される前に毒を飲んでしまうのも、ここを出るよりこの家で死ぬことを選んだようにすら見えてしまう。それほどまでに彼女が執着した家。それは宗吉と自分だけの城、他の誰をも容れることのできない場所だったのかもしれない、すると、彼女の怒りが宗吉よりもそこに邪魔者として入り込んできた子供たちに向けられるのも、わかるような気がする。  

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2017年10月08日

巨悪は眠らせない 特捜検事の標的

 以下の文章では、ドラマ「巨悪は眠らせない 特捜検事の標的」の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 昨年放映された「巨悪は眠らせない 特捜検事の逆襲」に続き、特捜検事・冨永真一が活躍する。昨年の第一作は、冨永が特捜部に配属になるところから始まっていて、宇宙開発と政治のからみを描いた。長年にわたり日本にどう利益をもたらすかを考えてきたグレーな大物政治家を仲代達也が演じたのだが、彼にたどり着くまでが長く、一方宇宙開発に純粋な夢を託す女性研究員も登場するので、人物をさばくのがやや大変かな、という印象があった。
 今回はスケールという点では前作より小さいのかもしれないが、ストレートでわかりやすい。

 今回の「標的」は女性初の総理大臣候補と言われる越村みやび。ここに、今回独特のちょっと微妙な問題がからんでくる。ドラマの中のセリフにもあるが「日本初の女性総理なんざ絶対に許さんという奴」は現実にもきっといるだろう。だから、越村の事件は反対派による罠なのではないかと疑われる。
 また、冨永の上司である特捜部部長の岩下は、はっきりと「日本初の女性総理、実現してほしかった」と言うし、記者の大塚にも期待があったと思う。一般に女性リーダーに対しては、思想信条の違いを越えて女性からの応援はあるだろう。
 そして男性がその女性を訴え、逮捕して取り調べをするのも男性ということになると、どことなく「女性が頭角を現すのを男性が阻止しようとしている」ように見えることも確かだ。
 冨永は、越村が女性である点にはほとんど触れない。実際に目の前にして「華があるというか、受け答えに頭の良さを感じる」と語るが、「女性だから」とか「女性なのに」とは決して言わない。冨永の偉いところだ。
 だからこそ、というべきか、最後に冨永が越村を追い詰めるセリフには少し違和感もあった。
「夫婦としては、どうなのでしょう」
 越村夫妻は、夫婦というより、同志に近かったのでは?
 仲間を置き去りにして、自分だけ去ってしまう同志というのは、同志と言えるでしょうか?」
 そう尋ねたほうが良かったような気もする。「女性だから」と言うことなく越村の能力に敬意を払っていた冨永が最後に出す切り札が「夫婦としては」であることに、少しひっかかった。
 が、それは越村には「ずっと一緒にいるべき人があなたを置いていったのですよ。それでもあなたはその人と二人で見ていた夢に固執するのですか」と聞こえたのだろう。越村のこころは、それで砕けたのだと解釈した。  

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2017年09月22日

眩(くらら)

 以下の文章は、ドラマ「眩(くらら)」の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 ドラマ「眩(くらら)」を見た。何しろ「あさが来た」の佐野Pと脚本・大森さんのコンビで、「あさが来た」では主人公の姉・はつを演じた宮崎あおい(さき は立つのさきです)が今回は主役。そりゃ楽しみだ。

 主人公は北斎の娘・お栄。色彩あふれる画面が素晴らしく、シーンによっては光と影のコントラストが強調されている。
 しかし、すうっとひと通り見ただけで言うのもなんだが、カタログみたいな感じがしなくもないのだ。北斎の代表作やお栄の絵が次々と紹介されるからかもしれない。
 それらの美しさに比べると、いわゆるドラマチックな部分には少し物足りない気もする。そもそもお栄が出戻ったところから話が始まっているが、それまでには夫との葛藤がいろいろあっただろうに。
 もちろん、その後お栄がひそかに思いを寄せる男とのやり取りはあり、彼と関係も持つ。しかし、彼には家があり妻がいて、お栄はそれ以上踏み込もうとはしない。
 お栄は絵に取りつかれている。父には及ばない。それは自分でもわかっている。それでも描きたい。父が倒れた時、父を失うより「父の絵」を失うことを恐れているのではないか、自分はなんて娘だろうと思うが、それを深く反省するというよりは、父にもう一度絵筆を持たせるように力を尽くす。
 名高い父は膨大な作品を残し、「(自分が描いたものでも)父の名のほうが高く売れる」と自覚していたお栄の署名入りの絵は、たぶんそんなには残っていないのだろう。年老いて、弟の家に住むようになったお栄はふらふらと絵歩いて「恥にならないように気を付けてくださいよ」と弟の妻に言われる。
 それでも、お栄は平気だ。
 
 一般的に見れば、お栄は(嫌な言い方だが)「負け組」だろう。結婚に失敗し、子もなく、世間的には絵でそれほど認められたわけでもなく、老いては弟夫婦の世話になる。しかし、それでも堂々としている。
 考えてみれば「あさが来た」のヒロインは勝ち組だった。愛し、愛される夫がいて、人の三倍か四倍くらいの濃い人生を送って、後の世に残るような仕事をした。それを描いた脚本家が、そうではない女の人生を、それでも肯定して描きたかったのは、ひと組、というのか表と裏、というのか、とにかくどちらかひとつだけではいけないような気がして描いたのではないかと推測する。
 世間的に見ればたいしたことのない人生でも堂々と生きろ。そう肯定したところに面白みがあると思った。  

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2017年09月22日

5時から7時までのクレオ

 以下の文章では、映画「5時から7時までのクレオ」の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 これも題名は聞いたことがあって、見たことのない映画の一本だった。
 5時「から7時までのひとりの女性をその時間のままに沿って描いた、というふうに聞いていたので、「なんで上映時間が2時間じゃなくて90分なの?」と思っていた。
 初めに主人公がタロットカードで占ってもらう、その並んだカードだけがカラー。一枚一枚の絵柄がはっきり映る。しかし、主人公や占い師は白黒でしか映らない。その占いが終わったところからは全部白黒。
 そして「5時から5時5分までのクレオ」という具合に、章立てがされている。
 最後のほうでクレオは若い男に出会う。
「新しいものほど面白いのです」
「あなたはよくご存じね」
「好奇心が強いので」
「じゃあ見に行けば?」
「好奇心はあるが怠け者なのです」
といったやり取りがあって、男はアルジェリアに行っている兵士なのだが休暇中で、しかもその休暇は今日で終わり、今夜には旅立つとわかる。7時になったら医師から電話がかかってくる、というクレオに、そんなに結果が気がかりなら病院に聞きに行けばいい、一緒に行こうと言う。だから30分早いのか。最後の章は「6時15分から6時30分のアントワヌとクレオ」だ。
 クレオはやはり病気で、しかし医師は放射線治療で必ず治す、と言う。クレオはもう怖くない、幸せだとアントワヌを見つめる。もちろん「無駄死には嫌だ」と言っていたアントワヌが戦場に戻ってどうなるかはわからない。クレオの病気についても、医師は必ず治す、と言うがどうだろう。しかし、それでも出会う前と出会った後のふたりは違うのだ。キスするわけでもなく、見つめ合う2人のアップが突然切られるように終わるのも良かった。  

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2017年08月12日

プロフェッショナル

 以下の文章では、「プロフェッショナル 仕事の流儀」で放映された宮沢りえの回の内容に触れています。ご了承ください。

 今回は『クヒオ大佐の妻』という舞台劇上演までの取材ということだ、興味のあったことをメモ的に書いておく。
 上演は5月19日から6月11日まで。脚本・演出は吉田大八。宮沢とは映画『紙の月』で組んでいる。そして吉田は映画で『クヒオ大佐』というのを撮ったこともある(ただし、この映画には宮沢は全く出ていない)。
 4月13日、稽古初日。本読み。宮沢はいつも、この段階では自分の演じる役が完全にわかった、とは感じないらしい。
「わからないままで、わかっていく。皮膚でわかっていって」
 頭でわかる、というのではないらしい。
 吉田監督は、日本人の逃れられない欧米コンプレックス、その呪縛のようなものをクヒオ大佐の妻を通して描きたいと言う。しかし、ハーフである宮沢には、逆に「純粋な日本人のほうが良かったのに」という思いがあり、そういうコンプレックスは全く無いし、理解できない。
 4月19日、稽古場にセットが建てられ、立ち稽古に。宮沢のセリフは五千字以上、ひとりで電話を受けて話す場面は3分以上のひとりしゃべり。吉田監督は映画の演出に慣れているせいか、動きをすべて指示しようとするが、ここで生まれるものを試したい、という宮沢の提案も受け入れて、いろいろ動きを変えてみて、というやり方にしていく。電話で話しながら鏡を見たり、対峙する相手とのやり取りの中でペットボトルを投げつけるように落としたり、という動きが加わっていく。これが4月22日。
 稽古が始まって十日、吉田監督がセリフを少し変え、あらためて本読み。
 宮沢の役は、相手を狂気に引き込んでいくらしい。
 狂っていく時ほど地に足をつけていないといけないと思うけれど、今どこに着けているか本当にわからない、と宮沢。
 4月27日、相変わらず主人公をつかめない。台本を変えたので、また本読み。
 4月28日、宮沢、初めて遅刻。編集で切られたのかもしれないが、見る限りでは他の皆に頭を深々と下げて謝るような場面は無かった。
「今まで自分の要素をちょこちょこ振りかけてきた、今回の役はそれが全く無いのが悩みどころ」
 
5月4日、一番早く来る(一時間半前)。
5月9日、主人公が相手を狂気に引き込むきっかけとなる点がつかめたように思えてきた。  

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2017年08月12日

玉木宏 音楽サスペンス紀行

正確なタイトルは「玉木宏 音楽サスペンス紀行 マエストロ・ヒデマロ 亡命オーケストラの謎」 以下の文章で、この番組の内容に触れています。ご了承ください。

 タイトルが長い。「マエストロ~」以降は、内容を示すサブタイトルだとしても。でも、玉木宏と付けたかったのはわかる。彼の紀行番組の中でも出色の出来だった。こんな「旅人」ができるのは、彼氏かいないだろう。
 もちろん、発想としては「フィクションではあるが『のだめカンタービレ』でヨーロッパで活躍する若き指揮者・千秋を演じた玉木くんに、実際にヨーロッパで活躍した指揮者・近衛秀麿の跡を追ってもらおう」という単純なものだったかもしれない。が、その役をなんともいい塩梅でつとめているのだ。そう、これは紀行番組と言いつつ、この「旅人」は「役」に近いものだったと思う。
 玉木くんは、これまでに旅行・体験レポートのような紀行番組はいくつも経験してきている。ただ、今回はその場に行って、感じたことを率直に言い表すというだけの番組とは違う。玉木くん自身が、これまで近衛秀麿について調べ、追ってきたわけではない。だから、ナレーションで「僕は」と言う時、その「僕」は「近衛秀麿についていろいろ調べてきた私たち」という意味合いを持っている。もっと言うなら、「あの時代に、信念と良心を持って行動した日本人がいた。その人の跡を確かめたい私たち」と言ってもいい。そういう「私たち」を代表する「僕」に玉木くんがなってくれる、というのは、見ている側にとって安心でもあるのだ。
 玉木くんならきちんとやってくれる、という信頼感。人と向き合う時の礼儀正しさ。話を伺う相手に敬意を払いつつ、でも、好奇心と、その場で感じたことが顔に出る率直さ。「私たち」を代表する役でありながら、ひとりの感受性を持った人間であること。そういう役割を見事に果たしている。
 加えて、あの健康な身体。ピレネー山脈に行き、かつてのパッサー(亡命したい人を国境まで案内する役)について一時間歩き、戦時中ユダヤ人が隠れて逃げたというワルシャワ地下の下水道に潜る。ヘルメットを被って下水道に入るというのは「なんでもやってみよう」的な気持ちを持つ人にしか、なかなかできないだろう。
 かと思うと、ワルシャワの劇場で、かつて近衛秀麿が結成したオーケストラの演奏会を再現するb面では、ただひとりの観客として、正装で堂々と鑑賞する。この『未完成交響曲』演奏の場面は、ひとつのクライマックスだ。近衛秀麿は、その当時活動を禁じられていたポーランド人演奏家を、そのメンバーにかなり入れていた。そして、ドイツ人観客の前で「劣った民族だから、正統なクラシック音楽を演奏・鑑賞するに値しない」とされていたポーランド人たちに演奏させたのだ。その再現場面で身じろぎもせず聴き入る玉木くんの一種の貫禄と迫力。
 もうひとつのクライマックスは、パリで、ジャック・パレナンの娘・エマニュエルさんに会う場面だろう。ここで彼女は、幼い時、そういうオーケストラに入っていたと父から聞いた、とはっきり言うのだ。ユダヤの人たちも助かったし、父たちも強制労働に行かずにすんだ、と。父は日本に特別な絆を感じていました、戦後日本に演奏に行った時に、近衛秀麿さんにも会ったと聞いています、と。
 その時の玉木くんの「そうですか」と言う顔。ユダヤ人を逃がしていたという確かな証拠はないkれれど(と言うか、証拠になるようなものは残さないだろう)、近衛秀麿が守った音楽の遺伝子は今も受け継がれているdさろう、と感じたほっとしたような、誇らしげでもあるような顔表情。
 場面場面での反応が実に魅力的なのだ。それは、サスペンスを追う私たちの反応でもある。そう思うと、やはりタイトルに「玉木宏」と付ける理由はあったのだ。  

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2017年05月07日

ツバキ文具店

 以下の文章では、ドラマ「ツバキ文具店」の内容に触れています。ご了承ください。 

NHKのドラマ10。小川糸原作で、原作は読んでいないが、1回目・2回目を見て、なんかイマイチな気がしていた。
 主人公は代書屋で、祖母に昔からその修行をさせられたが、嫌がって家を出ていた。祖母の死後、継ぐはずのないと思っていたそれを継ぐことになり……
 1回目は、我が子のように可愛がっていた猿を亡くした奥さんへの手紙。最初は「ペットを亡くした」ことに対するお悔やみだけを書いて依頼主に叱られ、その猿がかけがえのない存在だったとして書き直す。書く紙や筆記用具へのこだわりも見所で、巻き紙に薄い墨の文字で書く。
 2回目は「円満離婚をする」という夫婦が、結婚を祝ってくれた人たちに出す。印刷だが、パソコンではなく活字印刷にする。

 この2回がなんとなくわざとらしく見えたのは、猿を亡くして少々精神的に常軌を逸しているらしい奥さんのことも「きれいに」描かれ、「円満離婚」に主人公が何となく疑問を持ちつつも、最後までドロドロな部分は見せずに終わっていたからかもしれない。もちろん、本当に「円満離婚」する夫婦もいるのだろうが。

 第三回にして、レギュラーからの代筆依頼。「男爵」と呼ばれる男(主人公の赤ん坊時代のことも、祖母のことも知っているらしい)から、旧友からの借金の依頼を断る手紙。原稿用紙に太めの万年筆、漆黒のインク。
 失礼な手紙を送ってすまなかった、という返事が来て、男爵は主人公にうなぎをおごってくれる。
 その話と、主人公自身が昔つきあっていて別れた男からの代筆依頼を断る話とがうまくからんでいたと思う。話が二つ以上、こういうふうにからんだほうが面白いのかもしれない。  

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2017年05月07日

リップヴァンウィンクルの花嫁

 以下の文章では、映画「リップヴァンウィンクルの花嫁」の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 映画封切り時に話題だったと思うので、放映されたのを録画しておいて、見た。
 最初は主人公が受身的で見続けようか、どうしようかと思った。教員だが非常勤なので他のバイトもしている。ネットで知り合った男と結婚することになり、教員を辞めさせられたのを寿退職であるかのように装う。それくらいの嘘は許されるよね、という気持ちから始まって、夫となる人に「親族二人?」と言われて便利屋に披露宴に出てくれる人を調達してもらい、既に離婚している父と母には揃って出席してもらう。
 新婚家庭に訪ねてきた男から、夫がもの生徒と浮気している、それは僕の彼女だと聞かされ(このあたりは単純に信じすぎ、と思うが)だから僕たちも浮気しましょうよと誘われたところを盗撮されていて、それがなぜか夫の母に送られる。離婚、というより追い出されるような形で出てきて、ビジネスホテルでバイト。
 夫の浮気調査を頼んでいた便利屋から「あれはお義母さんから頼まれた、別れさせ屋の仕事ですよ。典型的なマザコンです」と説明され、それに納得がいったのかどうか、自分も結婚式の披露宴の(親族のふりをした)出席のバイトを引き受ける。そこで姉妹役として出会った真白という女性と仲良くなる。
 もとレストランだった大きな屋敷の面倒を見るメイドのバイトをひと月100万円で、と便利屋から依頼され、行ってみるともうひとりのメイドは真白。真白に「友達が欲しい」と言われた便利屋が、初めからそう言うよりは、とメイドという形で頼んだのだとか。
 真白はAV女優で、実は重病患者。仲良くなり、二人でウェディングドレス姿で結婚式の真似事をし、「一緒に死んでくれる?」と真白は聞くが、結局ひとりで自殺する。
 真白の骨を持って彼女の母を訪ねると、娘の仕事も知っていて、「捨てた娘だから」と言いながら母はぐいと焼酎を飲み、裸になって「人様の前で裸になるなんて」と嘆きつつどんどん飲む。そして泣く。つられたように便利屋も泣き、全裸になって飲む。
 この場面がなんともいえなくて。
 そこまで、ややおとぎ話的に描いてきた現代では誰もがたどるかもしれない話、なのかと思い、その舞台のような新婚家庭やホテルや大きな屋敷を見ていた目には、この母の住む家と母だけが生々し過ぎる気がした。いy、ここでこういうのを出してリアルでしょって言うのはちょっとずるいんじゃないかという気分。
 便利屋が本気で泣いてしまっているようなのも不可解。これが嘘泣きで、便利屋はそういう男でした、というのかと思ったら、そうでもないようだ。
 しかもその後、主人公は真白と二人で住むはずだったと思われるアパートで、静かに暮らし始める。いいの、これ? という気がした。
 ひとつの考えとしては、とんでもない異性愛で傷つけられ、やがて同性愛に居場所を見つけた話なのか。そうだから、ふたりの女どうしの結婚ごっこは美しく描かれていたのか。
 しかし既視感もある。ウェディングドレスを試着して写真を撮るというのは「ただ、君を愛してる」を思い出すし、披露宴の代理出席は「家族、貸します ファミリー・コンプレックス」を思い出す。最後にベランダに出て、何もはめていない左手の薬指にあたかも指輪をはめているように振舞って見せる主人公は「オールウェイズ」の小雪を思い出させる。
 しかし、そういう過去の場面を思い起こさせながらも、現代を切り取ったふうな味をもって描けば、それはそれで作品として成り立つということか。
   

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2017年03月14日

おやすみなさい、と男たちへ

 以下の文章では、田中りえ「おやすみなさい、と男たちへ」の内容に触れています。ご了承ください。


 作者の田中りえさんって今どうしているのだろうかとウィキペディアを見たら2013年に亡くなっているのだった。田中小実昌の娘だというのは、ぼんやりと知っていた。読んだのは初めて。
 9篇入っていて、そのうちの6篇は一人称語りで、語り手は若い女性である「わたし」。ひらがなの「わたし」だ。そう言えばこの人は「なか(中)」や「ひと(人)」「いう(言う)」「きく(聞く)」もひらがなで表記する。
 長部日出雄が解説を書いていて、「いい小説というのは、生命を持っている。時代とともに成長したり、永遠に若さを保ちつづけたり、あるいは逆に若返ったりするものだ。」と書いていて、要するに田中の小説はそうだと言いたいのだろうが、今読むと会話に違和感がある。というか、当時の女子ってまだこういう女らしい語尾を多用していたのだなあと思う。
「わかったわよ。あたしがきっと聞きちがえたのよ」
「~よしましょうね」「……あなた、好きなことってないの?」
「~しちゃったの」とか「~なくちゃならないの?」という言い方は、今ではほとんど実際に使う女性はいないのではないだろうか。
 話し言葉だけ聞いていて、容易に男女の区別がついた時代は過ぎつつある。
 長部の解説には「田中りえの小説は、わがくにの開闢いらい(おそらく経済水準の向上と避妊の普及によって)初めて社会的に出現しつつある男女対等の人間関係を、べつに意気ごみもせず、肩肘も張らず、ごくあたりまえのことのように描いている点において、画期的なのである。」ともある。
 それを利用させてもらうなら、だから結婚生活は描かれず(結婚となると男女対等はなしくずしになると作者が感じていたから)、どこか甘いのは避妊の具体的方法が全く描かれないからではないだろうか。
 今の目から見ると、田中りえの描いた「わたし」のような女性は、どこか男にとっても便利な女性だったろう。セックスはOKで、結婚は望んでいない。そに甘やかさを感じさせるところが「受けた」のだろうと思うのは、厳しすぎる見方だろうか。  

Posted by mc1479 at 13:10Comments(0)TrackBack(0)

2017年03月14日

 以下の文章では、柳美里の「男」の内容に触れています。ご了承ください。

 柳美里「男」(新潮文庫)。
 最初に出たのは平成12年とあるから、17年前か。
 中にこんな文がある。
「当代若い女性の人気を二分しているのは中田英寿と木村拓哉だろう。」
 さらに続けて「木村拓哉主演の連続テレビドラマを1,2度観たことがあり、現代の若者像をあれほどリアルに造形できるのは、彼を置いてほかにいないと高く評価している。木村拓哉は最近ではめったにオ目にかかれない野心と反抗とを併せ持ったジュリアン・ソレル的な青年だと思う。彼にルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』の主人公よりもっと強い悪意と復讐心を抱いた役を与えれば、目を見張るようなヒーロー像を創り出せるに違いない。」とも書いている。
 ファンではないと言う。
 読んでいるこちらも、なんとなく柳美里がとても人気のある人を好きなんて何か違うような気がする。もう少しマイナーで玄人好みの人を好きになるのではないかと勝手に思ってしまうのだ。
 しかしファンでないと言いつつ、上半身はだかの写真(のページ)を切り取っておいたそうだ。「彼の喉もとから両肩に向かって真っ直ぐ伸びた鎖骨に目を奪われたのだ(中略)精悍ともエロティックとも異なる、男の根源的な力、選ばれた人間の刻印に見えた」

 なるほど。さて「男」という本は、目・耳・爪・尻・唇・肩・腕・指・髪・頬・歯・ペニス・乳首・髭・手・声・背中 と分かれていて、全体がある小説を書こうとする試みのような構成になっている。だから全体としてのつながりはあるのだが、ひとつひとつのパートへの思い入れは案外薄い。体のパーツにこだわりのある人から見たら物足りないだろうし、フェティシズムの本ではない。
 彼女にとっては、やはりパーツに分けるのではなく全体としての「男」が大切だからだろうか。
「わたしは男を描くならば、神話的な存在として登場させたいと考えているのだ。男の顔も、性格も、肉体も神話性に彩られたものでなければならない。スーツ姿で都心のビル街を歩く狂暴さと狂気と知性と逞しい肉体を有した男――。」とも書いている。
 また、「わたし」は「健康な暮らし」に無縁だと自覚してもいる。
 すると、彼女にとっては木村拓哉の鎖骨は、健康の象徴でもあり、神話的な男を描けそうだと思わせるものだったのだろうか。  

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2017年03月14日

沈黙 サイレンス

 以下の文章では、映画『沈黙 サイレンス』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 原作が書かれてから50年、だそうだ。マーティン・スコセッシがこれを映画化すると聞いてからも既に20年以上が経っている。私は以前日本で映画化されたものは見ていない。原作はだいぶん前に2回読んだ。
 単純に今の日本人なら、「なぜそんな危険を冒してまで日本に来たのか」と思うところだが、カトリックの神父にとって「世界にあまねく神の教えを広める」のは重大な務めなのだ。また、ここに出てくるロドリゴとカルペにとっては、自分たちの師であったフェレイラが日本で行方がわからなくなっている、いや棄教したのだという噂は、確認すべきものだった。マカオまで来て、そこに居た(船の難破でたどり着いた)キチジローを案内にし、中国船で密航する。九州の小さな村に到着すると、密かにキリスト教を信仰していた村人に歓迎され、山の中に隠れ家も用意される。夜になると村へ降り、告解を聞き、ミサを行なう。
 しかし信者を見つけ出すための「踏み絵」は日常的に行われており、捕えられた信者が殉教していくのを、物陰から見ることになる。安全のため、ふたりは行動を別にする。筑後守・井上と対面するロドリゴ。海に落とされる信者を追って自分も溺死するカルペ。
 筑後守・井上あるいは通辞とロドリゴの対話がけっこう長い。筑後守は特に残酷だというわけではなく、この時代の掟に従っているに過ぎないのだが、独自の理屈もまた持っている。それが日本を害するものなら排除するしかない、という理屈だ。さらに、日本ではキリスト教は根付かぬ、という理屈。ロドリゴは布教を続けさせてくれれば根付く、と反論するのだが、彼も薄々は感じている。ここで信仰されているのは、自分の信じるキリスト教からは少し変質したものではないか。
 再会したフェレイラから説得され、自分が転べば今拷問を受けている信者も許すと言われ、ロドリゴは踏み絵を踏む。原作では、ここは一番感動した場面だった。しかし、映画では意外と淡々と描かれる。特殊効果が使われるわけでもなく、イエスの声も殊更大きく響くわけではない。踏み絵に描かれたその人の顔も、原作では確かロドリゴが「この国へ来てから初めて見るその人の顔」だったはずだが、映画では(ロドリゴは直接向き合って見ていないにしても)村人が踏み絵をする場面で、踏み絵に描かれたキリストを観客は見ている。これを見えないようにしておいて、ロドリゴが踏む場面で初めてはっきりと見えたという演出なら、また印象が変わっていたかもしれない。
 とにかく、ここではロドリゴが「転ぶ」場面は、それだけ取り立てて特別な場面には仕立てられてはいない気がした。
 棄教後の話も、長い。死んだ日本人の名前を受け継ぎ、妻と子もそのまま貰い受けて日本人となったロドリゴ。フェレイラと共に、唯一の交易国となったオランダから入ってくるものにキリスト教のしるしがないかを検閲する係となり、その役目を忠実に果たす。「棄教した」という証文は定期的に書かされる。亡くなると仏教式に葬られるが、その握りしめた手の中には……というのが結末なのだが、ということはロドリゴも日本の多くの隠れキリシタンと同じように、密かな信仰を続けたということなのだろうか。
 ロドリゴと比較するように描かれるのがキチジローだ。家族の中でひとり踏み絵を踏んで死刑を免れた彼は、その後もロドリゴに許しを乞いながら、また踏み絵も踏み、ロドリゴを密告する。ときを経て日本人となったロドリゴに仕えるようになった彼は、定期的な取り調べの歳、首からかけているお守り袋に聖画を入れているのが見つかって連行され、その場でこの物語から消える。結局、キチジローもロドリゴもそんなに変わりはなかったということなのか。
 自らがカトリックであるスコセッシには、これだけ長くいろいろな「理由」を書かねばロドリゴの棄教は納得がいかなかったのだろうか。いや、棄教後をこれだけ詳しく描くことで、彼の人生もまたひとりの信者としてはあり得たものと、肯定したのだろうか。  

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2017年01月24日

肉小説集

 以下の文章では、坂木司の本「肉小説集」」の内容に触れています。ご了承ください。

 いろんな小説集があるものだ。これは、各小説の大切なところに、必ず肉料理が出てくる。ロースカツ、豚バラの角煮、ホルモン焼き……、まあ、ハムも出てくるので、これは料理とは言えないかもしれないが。ちなみに肉といって豚肉なのは、作者が関東人だからだそうな。
 気になっていた彼女の家に初めて行ってご馳走になるのがそれ、だったり。塾で一番前に座る子がいつも食べているのがハムサンドだったり。
 恋愛がらみ(これから結婚して生きていく、というのも含めて)が多く、中でも彼女の家に行って食べる、あるいは分けてもらうという話がいくつもあるのは、そういうシュチュエーションだと描きやすいからだろうか。彼女の(あるいは彼女の家庭の)好みの味。なぜ、それをよく作るか。そんな理由から話しも展開しやすいのだろう。
 サスペンスというか、ちょっと自意識過剰な主人公がピンチに陥る話もあるが、上司の退職後、悩んでいた男がそこから一歩踏み出すなど希望の持てる話が大半で、また、そういう話がこの作者に合っているように思う。
 会話が面白かったのは「魚のヒレ」という話。ほら話が得意だった祖父に「このヒレ肉というのは、魚のヒレが退化した部分なのだ」と子どもの頃ウソの説明をされて信じてしまったとか、そういう話を語るうちに男女がちょっとずつ打ち解けていく過程がイヤミなく受け取れた。  

Posted by mc1479 at 09:01Comments(0)TrackBack(0)

2017年01月24日

人生オークション

 以下の文章では、原田ひ香の本「人生オークション」の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 「人生オークション」「あめよび」の2作が入っているのだが、どちらかというと「あめよび」のほうが印象に残った。もちろん、タイトルとしては「人生オークション」のほうがインパクトがあるだろう。不倫のあげくに離婚した叔母の、せめて賃貸料の足しになるかと、叔母の持ち物をネットオークションに出すように勧めた「私」がその手伝いをしながら、叔母の人生を垣間見ていく。ブランドもののバッグは結構売れるが、衣類は安くてもなかなか売れない、などのオークションにありそうなことも描きながら、叔母に反発しながらもどこか自分と似ているところもあるとわかっていく「私」。
「あめよび」のほうは、あるラジオ番組のファンであることをきっかけに知り合った男性・輝男と付き合う美子の、そのずるずると続いている関係をどうしようかという話だ。結婚したいと美子が言っても、自分はそれに向かないと答える輝男。両親の不仲を見てきたことを話す輝男は「諱(いみな)」を持つという地方の出身なのだが、ではその大切な諱を教えて、と美子が迫るとそれは教えてくれない。結局輝男と別れた美子は結婚紹介所で知り合った男性と結婚し、飛行場で再会したとき、輝男は美子に諱を教える。
 ラジオ番組のファンの集まりやら、ラジオで自分の投書か読まれることを生きがいにしている「ハガキ職人」と呼ばれる人たちの存在や、諱を持つ人たちのグループ、というように「へえ、そういう世界もあるのか」と思うようなことが次々と出てくるのが、こちらのほうが面白いと思った理由かもしれない。これが男性作家だったら、どうしようもない輝男に、それでも美子はずっと付き添っていく、ということになるのかもしれないが、別れたところが女性作家らしい現実味があると思った。
 それは「人生オークション」のほうにも言えて、叔母は自分の人生を建て直せそうなきっかけを得て、パート勤務とはいえ、就職が決まったところで、話は閉じられる。
 んあとか前向きに生きていけそうなところで終わりにするのが、この作者の後味のいいところかもしれない。  

Posted by mc1479 at 08:51Comments(0)TrackBack(0)
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