2017年08月12日
プロフェッショナル
以下の文章では、「プロフェッショナル 仕事の流儀」で放映された宮沢りえの回の内容に触れています。ご了承ください。
今回は『クヒオ大佐の妻』という舞台劇上演までの取材ということだ、興味のあったことをメモ的に書いておく。
上演は5月19日から6月11日まで。脚本・演出は吉田大八。宮沢とは映画『紙の月』で組んでいる。そして吉田は映画で『クヒオ大佐』というのを撮ったこともある(ただし、この映画には宮沢は全く出ていない)。
4月13日、稽古初日。本読み。宮沢はいつも、この段階では自分の演じる役が完全にわかった、とは感じないらしい。
「わからないままで、わかっていく。皮膚でわかっていって」
頭でわかる、というのではないらしい。
吉田監督は、日本人の逃れられない欧米コンプレックス、その呪縛のようなものをクヒオ大佐の妻を通して描きたいと言う。しかし、ハーフである宮沢には、逆に「純粋な日本人のほうが良かったのに」という思いがあり、そういうコンプレックスは全く無いし、理解できない。
4月19日、稽古場にセットが建てられ、立ち稽古に。宮沢のセリフは五千字以上、ひとりで電話を受けて話す場面は3分以上のひとりしゃべり。吉田監督は映画の演出に慣れているせいか、動きをすべて指示しようとするが、ここで生まれるものを試したい、という宮沢の提案も受け入れて、いろいろ動きを変えてみて、というやり方にしていく。電話で話しながら鏡を見たり、対峙する相手とのやり取りの中でペットボトルを投げつけるように落としたり、という動きが加わっていく。これが4月22日。
稽古が始まって十日、吉田監督がセリフを少し変え、あらためて本読み。
宮沢の役は、相手を狂気に引き込んでいくらしい。
狂っていく時ほど地に足をつけていないといけないと思うけれど、今どこに着けているか本当にわからない、と宮沢。
4月27日、相変わらず主人公をつかめない。台本を変えたので、また本読み。
4月28日、宮沢、初めて遅刻。編集で切られたのかもしれないが、見る限りでは他の皆に頭を深々と下げて謝るような場面は無かった。
「今まで自分の要素をちょこちょこ振りかけてきた、今回の役はそれが全く無いのが悩みどころ」
5月4日、一番早く来る(一時間半前)。
5月9日、主人公が相手を狂気に引き込むきっかけとなる点がつかめたように思えてきた。
今回は『クヒオ大佐の妻』という舞台劇上演までの取材ということだ、興味のあったことをメモ的に書いておく。
上演は5月19日から6月11日まで。脚本・演出は吉田大八。宮沢とは映画『紙の月』で組んでいる。そして吉田は映画で『クヒオ大佐』というのを撮ったこともある(ただし、この映画には宮沢は全く出ていない)。
4月13日、稽古初日。本読み。宮沢はいつも、この段階では自分の演じる役が完全にわかった、とは感じないらしい。
「わからないままで、わかっていく。皮膚でわかっていって」
頭でわかる、というのではないらしい。
吉田監督は、日本人の逃れられない欧米コンプレックス、その呪縛のようなものをクヒオ大佐の妻を通して描きたいと言う。しかし、ハーフである宮沢には、逆に「純粋な日本人のほうが良かったのに」という思いがあり、そういうコンプレックスは全く無いし、理解できない。
4月19日、稽古場にセットが建てられ、立ち稽古に。宮沢のセリフは五千字以上、ひとりで電話を受けて話す場面は3分以上のひとりしゃべり。吉田監督は映画の演出に慣れているせいか、動きをすべて指示しようとするが、ここで生まれるものを試したい、という宮沢の提案も受け入れて、いろいろ動きを変えてみて、というやり方にしていく。電話で話しながら鏡を見たり、対峙する相手とのやり取りの中でペットボトルを投げつけるように落としたり、という動きが加わっていく。これが4月22日。
稽古が始まって十日、吉田監督がセリフを少し変え、あらためて本読み。
宮沢の役は、相手を狂気に引き込んでいくらしい。
狂っていく時ほど地に足をつけていないといけないと思うけれど、今どこに着けているか本当にわからない、と宮沢。
4月27日、相変わらず主人公をつかめない。台本を変えたので、また本読み。
4月28日、宮沢、初めて遅刻。編集で切られたのかもしれないが、見る限りでは他の皆に頭を深々と下げて謝るような場面は無かった。
「今まで自分の要素をちょこちょこ振りかけてきた、今回の役はそれが全く無いのが悩みどころ」
5月4日、一番早く来る(一時間半前)。
5月9日、主人公が相手を狂気に引き込むきっかけとなる点がつかめたように思えてきた。
2017年08月12日
玉木宏 音楽サスペンス紀行
正確なタイトルは「玉木宏 音楽サスペンス紀行 マエストロ・ヒデマロ 亡命オーケストラの謎」 以下の文章で、この番組の内容に触れています。ご了承ください。
タイトルが長い。「マエストロ~」以降は、内容を示すサブタイトルだとしても。でも、玉木宏と付けたかったのはわかる。彼の紀行番組の中でも出色の出来だった。こんな「旅人」ができるのは、彼氏かいないだろう。
もちろん、発想としては「フィクションではあるが『のだめカンタービレ』でヨーロッパで活躍する若き指揮者・千秋を演じた玉木くんに、実際にヨーロッパで活躍した指揮者・近衛秀麿の跡を追ってもらおう」という単純なものだったかもしれない。が、その役をなんともいい塩梅でつとめているのだ。そう、これは紀行番組と言いつつ、この「旅人」は「役」に近いものだったと思う。
玉木くんは、これまでに旅行・体験レポートのような紀行番組はいくつも経験してきている。ただ、今回はその場に行って、感じたことを率直に言い表すというだけの番組とは違う。玉木くん自身が、これまで近衛秀麿について調べ、追ってきたわけではない。だから、ナレーションで「僕は」と言う時、その「僕」は「近衛秀麿についていろいろ調べてきた私たち」という意味合いを持っている。もっと言うなら、「あの時代に、信念と良心を持って行動した日本人がいた。その人の跡を確かめたい私たち」と言ってもいい。そういう「私たち」を代表する「僕」に玉木くんがなってくれる、というのは、見ている側にとって安心でもあるのだ。
玉木くんならきちんとやってくれる、という信頼感。人と向き合う時の礼儀正しさ。話を伺う相手に敬意を払いつつ、でも、好奇心と、その場で感じたことが顔に出る率直さ。「私たち」を代表する役でありながら、ひとりの感受性を持った人間であること。そういう役割を見事に果たしている。
加えて、あの健康な身体。ピレネー山脈に行き、かつてのパッサー(亡命したい人を国境まで案内する役)について一時間歩き、戦時中ユダヤ人が隠れて逃げたというワルシャワ地下の下水道に潜る。ヘルメットを被って下水道に入るというのは「なんでもやってみよう」的な気持ちを持つ人にしか、なかなかできないだろう。
かと思うと、ワルシャワの劇場で、かつて近衛秀麿が結成したオーケストラの演奏会を再現するb面では、ただひとりの観客として、正装で堂々と鑑賞する。この『未完成交響曲』演奏の場面は、ひとつのクライマックスだ。近衛秀麿は、その当時活動を禁じられていたポーランド人演奏家を、そのメンバーにかなり入れていた。そして、ドイツ人観客の前で「劣った民族だから、正統なクラシック音楽を演奏・鑑賞するに値しない」とされていたポーランド人たちに演奏させたのだ。その再現場面で身じろぎもせず聴き入る玉木くんの一種の貫禄と迫力。
もうひとつのクライマックスは、パリで、ジャック・パレナンの娘・エマニュエルさんに会う場面だろう。ここで彼女は、幼い時、そういうオーケストラに入っていたと父から聞いた、とはっきり言うのだ。ユダヤの人たちも助かったし、父たちも強制労働に行かずにすんだ、と。父は日本に特別な絆を感じていました、戦後日本に演奏に行った時に、近衛秀麿さんにも会ったと聞いています、と。
その時の玉木くんの「そうですか」と言う顔。ユダヤ人を逃がしていたという確かな証拠はないkれれど(と言うか、証拠になるようなものは残さないだろう)、近衛秀麿が守った音楽の遺伝子は今も受け継がれているdさろう、と感じたほっとしたような、誇らしげでもあるような顔表情。
場面場面での反応が実に魅力的なのだ。それは、サスペンスを追う私たちの反応でもある。そう思うと、やはりタイトルに「玉木宏」と付ける理由はあったのだ。
タイトルが長い。「マエストロ~」以降は、内容を示すサブタイトルだとしても。でも、玉木宏と付けたかったのはわかる。彼の紀行番組の中でも出色の出来だった。こんな「旅人」ができるのは、彼氏かいないだろう。
もちろん、発想としては「フィクションではあるが『のだめカンタービレ』でヨーロッパで活躍する若き指揮者・千秋を演じた玉木くんに、実際にヨーロッパで活躍した指揮者・近衛秀麿の跡を追ってもらおう」という単純なものだったかもしれない。が、その役をなんともいい塩梅でつとめているのだ。そう、これは紀行番組と言いつつ、この「旅人」は「役」に近いものだったと思う。
玉木くんは、これまでに旅行・体験レポートのような紀行番組はいくつも経験してきている。ただ、今回はその場に行って、感じたことを率直に言い表すというだけの番組とは違う。玉木くん自身が、これまで近衛秀麿について調べ、追ってきたわけではない。だから、ナレーションで「僕は」と言う時、その「僕」は「近衛秀麿についていろいろ調べてきた私たち」という意味合いを持っている。もっと言うなら、「あの時代に、信念と良心を持って行動した日本人がいた。その人の跡を確かめたい私たち」と言ってもいい。そういう「私たち」を代表する「僕」に玉木くんがなってくれる、というのは、見ている側にとって安心でもあるのだ。
玉木くんならきちんとやってくれる、という信頼感。人と向き合う時の礼儀正しさ。話を伺う相手に敬意を払いつつ、でも、好奇心と、その場で感じたことが顔に出る率直さ。「私たち」を代表する役でありながら、ひとりの感受性を持った人間であること。そういう役割を見事に果たしている。
加えて、あの健康な身体。ピレネー山脈に行き、かつてのパッサー(亡命したい人を国境まで案内する役)について一時間歩き、戦時中ユダヤ人が隠れて逃げたというワルシャワ地下の下水道に潜る。ヘルメットを被って下水道に入るというのは「なんでもやってみよう」的な気持ちを持つ人にしか、なかなかできないだろう。
かと思うと、ワルシャワの劇場で、かつて近衛秀麿が結成したオーケストラの演奏会を再現するb面では、ただひとりの観客として、正装で堂々と鑑賞する。この『未完成交響曲』演奏の場面は、ひとつのクライマックスだ。近衛秀麿は、その当時活動を禁じられていたポーランド人演奏家を、そのメンバーにかなり入れていた。そして、ドイツ人観客の前で「劣った民族だから、正統なクラシック音楽を演奏・鑑賞するに値しない」とされていたポーランド人たちに演奏させたのだ。その再現場面で身じろぎもせず聴き入る玉木くんの一種の貫禄と迫力。
もうひとつのクライマックスは、パリで、ジャック・パレナンの娘・エマニュエルさんに会う場面だろう。ここで彼女は、幼い時、そういうオーケストラに入っていたと父から聞いた、とはっきり言うのだ。ユダヤの人たちも助かったし、父たちも強制労働に行かずにすんだ、と。父は日本に特別な絆を感じていました、戦後日本に演奏に行った時に、近衛秀麿さんにも会ったと聞いています、と。
その時の玉木くんの「そうですか」と言う顔。ユダヤ人を逃がしていたという確かな証拠はないkれれど(と言うか、証拠になるようなものは残さないだろう)、近衛秀麿が守った音楽の遺伝子は今も受け継がれているdさろう、と感じたほっとしたような、誇らしげでもあるような顔表情。
場面場面での反応が実に魅力的なのだ。それは、サスペンスを追う私たちの反応でもある。そう思うと、やはりタイトルに「玉木宏」と付ける理由はあったのだ。