2012年05月18日

東京物語

 長い間、題名だけは聞いたことがあるのに、実際に見たことのない映画。私にとっては「東京物語」はそうだった。NHKのBSで放映されたデジタル・リマスター版でやっと見た。基本的にホームドラマ、そして明確な悪役は誰もいないところが純文学っぽい(明確な悪役がいたりするとエンターテインメントになると思う)。尾道から上京した老夫婦の長男も長女も時間がなくてろくに相手をしてやれないが、それは悪意があってやっているわけではない。次男の妻の言葉を借りれば「誰だって自分の生活が一番」なのだ。
 これが名作として残っている理由は多少わかった気がする。漂う哀感(名作と言われるものには、喜劇よりは悲劇のほうが多い)。美しさ(一枚の白黒写真にしてとっておきたいような美しい場面がある)。解釈の多様さを許すようなセリフ(これは主に原節子によって口にされる)。そして人生とはこのようなものだ、と感じさせるところ。
 義母との会話で「今はそうでも(再婚しなくて大丈夫と思っても)年とってくると淋しいよ」と言われた原節子が「いいんですの。私、年とらないことに決めておりますの」と答えるのはいいな~と思った。
  

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2012年05月16日

新・平家物語

 先日BSで「新・平家物語」を放映していたので見た(1955年・溝口健二監督)。長い話だからどこを切り取るかということなのでが、若い清盛が決意を固めるまでの話だった。現在の大河ドラマを見慣れていると、この清盛はずいぶんしっかりして見える(時子も)。もちろん若いなりの性急さや未熟さはあるのだが。西海の海賊討伐から帰ったところから始まり、神輿を射るシーンをクライマックスにして上手にまとまっている。ここでは神輿を射るのは「1個人として生きる」「新しい時代をつくる」という自覚と決意があってのことなのだ。
 何しろ清盛の最後のセリフが「公家どもよ、踊りたいだけ踊っていよ。お前たちにはもはや明日はないのだ。明日はこの俺たちのものだ」である。いかにも野心に燃える若者!
 このセリフが原作にもあるものなのかどうかを確認していないのだが、制作年代にも関係はあるのかもしれない。いかにも戦後に育ってきた若者が言いそうではないか?
 それと、今年の大河の衣装で「透ける烏帽子」は特別のように書かれていたと思うのだが、この映画でも日当たりのいいところで見ると、けっこう烏帽子って透けて見えるんだ・・ということを確認した。  

Posted by mc1479 at 15:13Comments(0)TrackBack(0)

2012年05月08日

君に届け を見た

 ケーブルTVで放映していたので「君に届け」を見た。もどかしい話だった。もどかしいのは青春の、というか恋愛ものの要素であるから、これでいいのかもしれない。が、あまり最後にカタルシスが感じられなかった。私の年のせいか?
 まず「恋愛もの」と捉えるのが良くないのかも。友達って何? とか、「親の子離れ」的な要素もかなり入っているので、一言ではジャンル分けできないのかもしれない。
 そういう目で見ると、主人公の少女の変化は丁寧に描かれているし、うまいと思う。他の女の子たちにもそれぞれのドラマがあって、女の子には共感しやすくできているのかもしれない。
 恋愛ものとして、もっと盛り上がってほしいなと思うのは、贅沢なのだろうか? 盛り上がりに欠けると思うのは私の勝手かもしれないが、風早くんの内面がちっとも描かれないからだと思う。他の登場人物にドラマらしい背景があるのに対して、彼には、ない。それが物足りない。
 もっとも私は原作も読んでいないし、アニメ化その他も見ていない。原作から大事にこれを見続けてきた人には納得の話なのかもしれない。  

Posted by mc1479 at 12:42Comments(0)TrackBack(0)

2012年05月02日

名もなく貧しく美しく

 タイトルに書いた映画だけでなく、たまたまなのか、60年代初めの映画を続けて放映していたので、見た。具体的に言うと「小早川家の秋」「名もなく貧しく美しく」「私は二歳」である。
 続けて見ると、なんとなく共通項は見えてくる。家族の幸せ。当時の映画はこんなにも「ホームドラマ」が多かったのだろうか? 「家族が揃って暮らしているのが何よりも幸せ」という価値観が見えるのだ。もちろん「小早川家」の主人たる男は外に妾とその娘がいる。でも亡くなった後に「なんだかんだ言ってお父さんがこの家を支えてくれていたんだわ」というふうに言われる。「名もなく貧しく美しく」では耳の聞こえない夫婦が子供1人と妻の母とで幸福な家庭を作り上げる。妻の姉や、弟は、不幸(と主人公からは見なされる)であり、家庭を持っていない。「私は二歳」では、姑と同居するようになってからいざこざはあるものの、最終的には「お母さんいい人だった」ということになる。
 当時は本当にこれくらい「幸せとは、家庭を築くこと」と確固として信じられていたのだろうか? もしくは、その確固たることが崩れかけていたからこそ、こういう映画ができたのだろうか?
 もう2,3。
「小早川家」の主人も「私は二歳」のおばあちゃんも突然亡くなる。それは意外しれないが、ぴんぴんしていて、ころっと死にたいという願望のある人から見れば、理想的な死に方だろう。いや、これで寝たきりになっては話が進まないから、こういう死に方になるのか。しかし不謹慎な言い方かもしれないが「いい死に方」であろう。
「名もなく貧しく美しく」は、そうはいかない。「そんなに泣かせたいか!」とも思ったが、この映画では自動車は悪役なのである。大切なミシンを奪っていくのも自動車だ。電車では乗客どうしが触れ合うことができても、車は一方的に人から何かを奪っていくのだ。そこに時代性もしくはこの映画を作った人の好みを見る気がした。  

Posted by mc1479 at 14:18Comments(0)TrackBack(0)
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