2016年08月20日

本格ミステリー宣言

 以下の文章では、島田荘司『本格ミステリー宣言』の内容に触れています。ご了承ください。

 図書館を利用するようになってから、本を買う冊数は少なくなったが、本屋やBOOKOFFに出かけて行って「うわ~こんなに本があるんだ」と眺めるのは好きだ。新刊本で目立つ所に置いてない限り、ある程度こっちから「会いに行く」必要があるのは何でもそうだと思うけれど、BOOKOFFで「きょうだけ使える50円OFF券」をもらって即座に「島田荘司」のコーナーに行って、一冊買った。

 小説のほうはだいぶん読んだので、買ったのは『本格ミステリー宣言』。講談社文庫。
 文庫は1993年刊だが、単行本は1989年に出たらしい。そうか、この後、90年代に大長編を毎年発表していく前の「宣言」だったのかとも思うし、この頃島田さんが推薦文を書いた新人だった綾辻行人、歌野晶午、法月綸太郎は、皆その後も作品を発表し続けているのだからたいしたものだとも思う。
 とにかく今になって読むと、島田さんは当時も今も、ミステリーのために若い才能を世に出すために尽力していたのだと感じる。この本には、島田さんが書いた文章だけではなく、対談やインタビューなども含まれるのだが、どうやら日本では「そのうち、ミステリー以外のものも書くのでしょう?」と尋ねられたりするらしい。つまり、ミステリーは一段低いものと見られているらしいのだ。が、島田さんはミステリーを書き続けているし、何よりミステリーが大好きらしい。
 中に収められた「本格ミステリー論」では、日本におけるミステリーの歴史、「推理小説」という呼称の使われ始めた時、松本清張以降、「社会派」が高く評価され、「社会派ではない」と判断されたものが一段低く見られる傾向のあったこと、などが書かれていく。
 そもそも島田さん自身は、大雑把に分ければ、小説は私小説を頂上とする「リアリズムの小説」と「神話の系譜」に分かれるのではないかという考えに惹かれ、もちろんミステリーは後者である。そして、「本格ミステリー」の定義も簡単に言えば、冒頭近くに美しい謎があり、それを徹底して論理的に明かしていくこと、だと言う。
 もちろん、「推理小説は文学か」というような、かつての論争についても触れている。
 現在の時点から見ると、この後、歴史的なことを踏まえつつますます海外へも舞台を移していったり、語り手が変わると縦書き・横書きと変わる構成にしたりという冒険をどんどんしていく前の、島田さんの宣言だったのだろう、という気がする。
   

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2016年08月19日

桜は本当に美しいのか

 以下の文章では、水原紫苑の著書『桜は本当に美しいのか』の内容に触れています。ご了承ください。

 この本のテーマになっていることを漠然と感じたことのある人は結構いるのではないか。毎年お花見の季節になると大騒ぎ。どこが咲いた、どこは満開、もう散り始めた、どこが名所。もちろん仕事上の付き合いからどうしてもお花見という行事をしなければならない人もいるだろうし、お疲れ様とも思うが、「そんなにいいものか?」と呟きたくなる気持ちもある。とりわけ桜「だけ」がこんなに特別扱いされるなんて、と思うのだ。
 この本は、歌人としての立場から、桜がいかに日本人の「こころの花」に仕立てられていったかを辿っている。
 歌人による歌集の読み方を知ることができたのは面白かった。教科書にバラバラに取り上げられた歌一首一首の解釈を中心に読んできた経験しかない私は、「はあ、歌集の中で続けて置かれている歌の、つながり具合、まとまり具合や変化の出し方は、こう読むのか」と思った。
 とりわけ、古今集の中で、山の中に人知れず咲く、万葉集に出てきてもおかしくない桜を詠む歌などから始まって、だんだんと「人に見られる桜」、そして万葉集の時代にはなかった「散る桜」の美しさを詠む歌に至る、と歌を挙げながら追っていくところ。さらにそれは『新古金集』になると、現実の桜というよりも、桜の不在・非在が多く詠まれるようになっていく。実在でなくてもいい、ということになると、つまり桜は想像の中にある、美の象徴、追い求めるべきものになっているわけだ。
 さらに西行、定家、世阿弥と続いていく。
 もちろん、近代になって国家に利用された桜のイメージにも触れられているが、それはこの本の中心テーマではない。
 また、有名な歌についても、たとえば「みわたせば柳桜をこきまぜて宮こぞ春の錦なりける」の「こきまぜて」の音の響きにどうしても抵抗があるとか、逆に歌は下手だといわれる本居宣長の歌のいくつかをとりあげ、「行道にさくらかさしてあふ人はしるもしらぬもなつかしきかな」は文句なくいい歌だと思う、としている。そういう自分なりの評価を見せてくれるのもいい。
 現代に至ると、短歌だけではなくポピュラーソングにも桜は現れ、しかももう戦争のイメージも抱いてはいない。ただ季節の移ろいや繰り返しやはかなさの象徴でもあるようだ。
 桜ソングはあくまでも個人を歌うものであってほしいという願いで閉じられている。  

Posted by mc1479 at 12:48Comments(0)TrackBack(0)

2016年08月11日

『紙の月』

 以下の文章では、映画『紙の月』の内容に触れています。ご了承ください。


 1990年代。銀行の外回りを担当する、働く主婦である一女性が、お金を使い込む。
 導入部は丁寧だ。お金が足りなくなった時、お客から預かった中から一万円借りてしまう。その時はすぐに返した。が、両親を亡くし祖父にも援助してもらえないから大学をやめるという青年に、その祖父から預かったお金を回す。仕事場から用紙を盗み、自宅でコピーを使い、手を広げていく。
 青年とは恋仲になるのだが、これが典型的なダメ男。しかし、クライマックスで主人公が向き合うのは、青年でもなく、だました客でもなく、真面目な同僚の女性だ。
「私は、徹夜をしたことがない。いつも明日のことを考えるから」と言う彼女に対して、「私はしたわ」と言い、窓を割って逃げていく主人公。
 そういう、女VS女、の映画だったのか。
 主人公は宮沢りえ、同僚の女性が小林聡美。  

Posted by mc1479 at 12:23Comments(0)TrackBack(0)

2016年08月10日

『利休にたずねよ』

 以下の文章では、映画『利休にたずねよ』の内容に触れています。ご了承ください。


 こういう言い方は失礼だとは思うが、時代劇は画面と音楽が美しくて役者がある程度揃っていれば、見られるものだと思う。
 特に、歴史上の有名人物なら、「今度は誰がどんなふうに演じるか」という楽しみもあるだろう。ここでは、信長を演じるのは伊勢谷友介で、秀吉を演じるのは大森南朋。伊勢谷信長はクールで、あまり狂的な感じはしない。大森秀吉は権力志向のちょっと単純な人に見えるが、利休の側から描くと、秀吉はこんなふうになるのかも。
 もちろん中心は利休なのだが、その初恋も含め、そんなに寄り添って共感できる人物ではない。
 が、初めに書いたように美しく仕立てられているので、楽しんで見ていられるのだ。  

Posted by mc1479 at 08:47Comments(0)TrackBack(0)

2016年08月09日

『切腹』

 以下の文章では、1962年の映画『切腹』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 1962年の白黒映画だが、構成が面白かった。
 いかにも貧しげな浪人が、武家屋敷にやってきて、ここで切腹させてほしいと言う。最近では食い詰めた武士がそう言って、実際にここで死なれたら困ると考える主人からいくばくかの金をせしめることがあるらしい。三ヶ月前にもそう言ってきた男がいて、金目当てだろうと思い、あえて切腹をさせてやりましたと思い出す。その時積極的に切腹を推し進めた三人は、きょうは休んでいる。
 準備が整えられたところで、男の口から、三ヶ月前に切腹したのは自分の娘の婿だと明かされる。幼い子が病いで、なんとか金が欲しかったのだ。その後、娘もその子も亡くなり、自分は死ぬばかりだ。ただし、婿が「一両日待ってくれ」と言ったのに強引に切腹させた三人の髷は切り落とした。男は存分に戦ったあと、自分の腹に刀を突き立てる。
 今の感覚からすると、もうちょっと展開がスピーディなほうがいいな、と思うのだが、切腹や殺陣のシーンがリアル。今の(特にテレビドラマの)殺陣は血の流れないものが多いが、血は噴き出すし、飛び散る。
 好き嫌いはともかくとして、それを受け入れる時代があったのだと思う。  

Posted by mc1479 at 12:42Comments(0)TrackBack(0)
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