2013年11月28日

『ハンナ・アーレント』

 以下の文章では、映画『ハンナ・アーレント』の内容に触れています。ご了承ください。

 久々に、こういう映画を見た。映像表現としてはもっと別の方法もあったのでは、と思う点もあるが、強い意志を感じさせる作品。
 ハンナ・アーレントはかつて住んでいたフランスで第二次世界大戦中にユダヤ人であるという理由で収容され、脱出してアメリカへ来た。映画の描く1960年の時点では、哲学者として大学で教えている。

 ナチス戦犯のアイヒマンが裁かれる裁判を、イスラエルに彼女が見に行く(ニューヨーカー誌にレポート掲載の契約をして行く)のが前半。
 後半は、そのレポートによって引き起こされた騒ぎ。1点に絞って言うと、ハンナはアイヒマンを「命令に従っただけの役人、凡庸な人」と書く。その意味では悪魔でもなんでもない。アイヒマンには、根源的な悪などない。
 しかし、世間はそれが気に入らない。ナチスを意志的な、絶対的な悪にしておきたいのだ。アーレントは決して「アイヒマンに罪はない」と言っているわけではないのに「命令に従っただけ」という見方に、納得しない読者は怒る。
 むろん、ニューヨーカー誌は非難を予想していた。しかしここでは、同誌の編集部を称賛しているわけではない。アーレントが劇的な勝利を収めるわけでもない。大学の教壇に立ち続け、思索を続ける彼女を映して、映画は終わる。単純に言えば思想表明の自由を描いた映画と言えるのだろうか。たぶんハリウッドでは作り得ない映画だと思う。  

Posted by mc1479 at 14:57Comments(0)TrackBack(0)

2013年11月24日

『すべては君に逢えたから』ノベライズを読んでみた

 気になる映画だと、ノベライズも読む。ノベライズは原作と違って、脚本を基にして書かれているものだから、ふつうは映画と大きな違いはない。私自身、ノベライズの役割は映画の印象を定着させ、また思い起こさせてくれるもの、と考えているようなところがあるから、多くのことを望んでいるわけでもない。
 
 でもやはり、読んで「面白い」と感じるノベライズはある。どういう場合に面白さを感じるかというと、脚本と違う部分について、であることが多い。ノベライズはほぼ脚本を文章にしたようなものなのに、違うとは? たとえば脚本が途中で変更された場合、ノベライズは脚本の原型に基づいて書かれていると「あ、こういうエピソードがあったのに削られたのか」とわかる。どうして削られたのか推測するのも楽しい。
 もうひとつは、ノベライズした書き手の解釈が入っている場合。「それは違うだろ!」と突っ込みたくなる場合もあるが、「なるほどそういう捉え方もあるのか」と思うこともある。書き手の解釈がまったく入らないノベライズというのも、薄味なものだ。
『すべては君に逢えたから』のノベライズは、かなり薄味だった。
 丁寧に読んでいくと、指摘したくなる表現もある。「万感の思いを込めて」は「万感を込めて」でいいだろう。遠距離恋愛のエピソードで、ほとんど「携帯」と書かれているのに、2箇所だけ「携帯電話」になっているのは、なぜ?
 この書き手は「~ように(ような)」という言い回しを使うことが多いのだが、「勝ち誇ったように言った」や「甘酸っぱいような気持ち」はいいとして、「がっかりしたように」や「驚いたように」はその状況から見て、実際がっかりしたり、驚いたりしているのだろう。「ように」は必要か?と思ってしまう。
 決して勝手な解釈をしばいという点では誠実な書き手なのかもしれないが、もう少し登場人物の心理に踏み込んで独自の解釈をつけ加えてくれた方が面白いのになぁ、と思った。  

Posted by mc1479 at 10:14Comments(0)TrackBack(0)

2013年11月17日

『愛と誠』(2012)

 以下の文章では、映画『愛と誠』の内容に触れています。ご了承ください。

 原作は、かつてかなり有名だったマンガ。お嬢様・愛と不良・誠の物語――と言いたいところだけど、2012年版のこの映画は、独特。
 誠がいよいよケンカを始めるか、という場面でいきなり歌いだすのだ。以後、ミュージカル調シーンは主要登場人物1人に1回ずつ公平に割り当てられ、『あのすばらしい愛をもう一度』『夢は夜開く』『空に太陽のあるかぎり』『また会う日まで』といったかつてのヒット曲が、歌われる。
 ミュージカル映画の嫌いな人は、よく「突然歌いだすなんて、バカバカしくてあり得ない」と言うわけだが、ミュージカル映画好きにとってはそのバカバカしくてあり得ないところこそが面白いのであって、そういう点ではこの映画はけっこう面白い。ただ、本当に歌の上手な人が歌い上げているわけではないので、「3番まで歌ってくれなくてもいいんだけど…」という気分になることも確か。
 映画公開時には、純愛ものという宣伝の仕方だったと思うのだが、トンデモミュージカル映画、と売ったほうがよかったのではないか?
 と言っても、もしそのように宣伝されていたら自分は映画館で見ただろうか、というと話は別。誠を演じる妻夫木聡が30歳過ぎで、愛を演じる武井咲が18歳、というのにどうしても違和感があったから。作り手側の「男はいつまでもバカをやっててもいいけれど、女は若くなくちゃ」という意識がほの見えるような気がして。
 いっそ、男も女も30歳以上の人ばかりが「昭和を懐かしんで作る」劇中劇としての『愛と誠』だったら、封切時に「見てみようかな」と思ったかもしれないけれど…そんなの絶対ヒットしませんね。  

Posted by mc1479 at 12:18Comments(0)TrackBack(0)

2013年11月08日

『のぼうの城』

 以下の文章では、映画『のぼうの城』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 かなりヒットした映画だと聞いているが、見ていなかったので、放映された機会に見た。
 ふつう、主役はストレートで、道化は脇役が多いと思うのだが、ここでは主役が「のぼう(「でくのぼう」の「でく」を取った)」と呼ばれる道化なのだ。父の死を受けて城主、戦いのときは総大将になる。
 主人が道化だと、仕える者たちは大変だろう。しかもその道化が、どこまで計算の上なのか、よくわからない。怒りに任せて戦いを宣告したように見えるが、実は人の使い方をよく知っている。どういう時に自分がどういう役割を果たせばいいかも知っている。多少、ずるい。
 ずるいと思うのは、敵側がこちらの城を囲むように作り上げた土手を見て「水責めがある」と知りながら、城下の農民にあらかじめ教えたりはしないこと(もちろん、水責めになったとき城には入れてやるが)。そして結果的に、田を水浸しにされた農民の怒りを利用していること。このずるさを臣下たちはどこまでわかっているのだろう? いや、わからないふりをしていた方がいいのか(結果よければすべてよし、というわけだ)。
 アンサンブルという点から見るなら、のぼう様を演じる野村萬斎が見せ場を独占していて、しかも彼だけ明らかに演技のスタイルが違う。違うのだが、それはこういう特殊な主人公だから違っても構わないのだ、という見方もあるだろう。
 映画全体として見れば、いかにも時代劇らしい戦いもあり、主要人物が死なないという安心感もあり、最後のナレーションで彼らのその後を示すことで、きちんと終わった感じも与えている。何よりも、はるかに強い敵に対して、知恵と力を合わせて戦う、という構図を好む人は多いのではないだろうか。
 というわけで、ヒットした理由は自分なりにわかった気がするし、見終わった後は「ごちそうさま」と言いたいような映画なのだが、何かもうひと味(スパイス)が欲しい、と思うのは贅沢だろうか。  

Posted by mc1479 at 16:44Comments(0)TrackBack(0)

2013年11月05日

『キツツキと雨』

 以下の文章では、映画『キツツキと雨』の内容に触れています。ご了承ください。

 役所広司と小栗旬が共演していて、ちょっと話題にもなったのは知っていたので見たのだが、私には、このテンポはなじめなかった。これの三分の二くらいの時間に縮めてもらえば、ありがたいかも…もっとも、このテンポがリアリズムを生んでいるのだ、と言われれば、そんな気もする。
 映画作りに全く興味がなかったのに巻き込まれる内に惹かれてゆく林業に携わる男と、若くして映画監督なのに、そのことに自信が持てないでいる監督。映画作りの時だけ交わった二人の人生は、やがてまた離れてしまうのだけれど――それを象徴するようなラストは美しいけれども――でも、何なの?と言いたくもなる。
 しょせん作り事である映画に本気になって参加する不思議な楽しさを描きたかったのか、人は経験によって育ってゆくことを見せたかったのか、それとも見る人それぞれが何か読み取ってもらえば結構ですという放置型なのか。どう捉えるかあぐねている内に終わってしまったような。
 クスっと笑えるのは確か。役所がゾンビの動作をしたり、ラッシュを見る時に体育座りしていたのが正座して前のめりになっていったり。その「クスっ」で満足するべきなのかな?  

Posted by mc1479 at 13:32Comments(0)TrackBack(0)
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