2018年10月18日

止められるか、俺たちを

 以下の文章では、映画『止められるか、俺たちを』の内容・結末に触れています。ご了承ください。


 監督が白石和や(「や」」の字が出ない、すみません)で、門脇麦と井浦新が出ているなんて、期待大。と思って見に行ったが、私にはちょっと肩すかし、みたいな映画だった。

 若松孝二の映画は、彼にとっての晩年の作、というくらいのしか見ていない。ちょうど井浦新が出始めたころからの作品だ。したがって、ここで描かれる60年代末~70年代にかけての彼の、過激というか伝説的というか(まあ、その言い方自体が後から聞いたことなのだが)作品の実際は知らない。誰もが手軽に映画、というか動画を撮れる時代になった今、重い機材を運び、調達しなければならない資金のことを考えつつ、映画を撮り続けるのはどういうことだったのか。正直言って実感はわかないし、この映画を見ても十分に伝わってきたとも思えない。もちろん金を稼ぐためにピンク映画を撮る、という描写はある。しかしそれなら金をいかに集めてその結果、出したいものをどう出すか、ということにもっと絞ってみたら面白かったような気もする。
 説明はできないが熱いものを抱えた連中が集まっていた、というのはわかる。その中でなんとか自分の道を見つけて生きていけるもの、そうでないもの。結末から見れば、門脇麦演じる吉積めぐみは「そうでないもの」になるわけだ。若松監督をすごいと思い、助監督になったが、自分で撮りたいものがあるわけでもない。不意に訪れた「監督をしてみる」という体験も不発に終わる。それは何が何でもやりたいこと、表現したいことが見つけられなかった彼女の責任なのか?
 それだけではないと思う。男女のこと。時代が押しつける男女の役割。彼女自身がどこまでそれに自覚的だったのか。
 インタビュアーが彼女に「女性がピンク映画の助監督っていうのは・・・」と言うシーンがあるが、彼女自身におそらく「女だから」という引け目がある。男どもが酔っぱらって立小便をする場面が二回出てくるが、二度目の時には彼女は「私も」と言って立ち上がるが、女ともだちに止められる。一方で、その女ともだちと二人きりで深夜のプールで泳ぐ場面では、その女ともだちに「女だけだからいいのよ」というセリフがある。
 男女のどうしようもない差や、おそらく当時の男たちが意識していなかった差別に注目して描いてほしかった気もする。性と政治が切り離せない時代だったのだとしたら、「政治に関心がない」彼女が「性」のほうに積極的になる理由もあったのかもしれない。当時は、コンビニがそこらにあって手軽にゴムを買えるわけでもなかったろうし、フリーセックスを唱える男は避妊なんて意識していなかったのかもしれない。お気軽なものだ。で、女のほうが妊娠した挙句死ぬなんて、まるで『妊娠小説』で揶揄されたような、男にとって都合のいい、可愛そうな女そのものではないか。少なくとも私にはそう見える。
 若松監督の映画作りの様子、若松プロに集まった人たち、何かを変えるべきだと感じていた日々。それらがにぎやかに描かれてはいるが、どうしてもカタログ的に見える。


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