2015年05月21日
本『幻肢』
以下の文章では、『幻肢』の内容に触れています。ご了承ください。
引き続き、島田荘司さんの作品を読んだ。
事故や病気で手足を失った人は、たとえば腕がなくてもまだ爪先に痛みを感じる。それが幻肢。腕からの情報が伝わらなくても、脳はそう思い込む。
医学生の雅人は、幻肢が起こる原因について、こんなことを言っていた。「手足を失ったら絶望して、精神障害を起こす人もいるかもしれない。それを防ぐために、脳はなくなった手足の幽霊を見せるんじゃないだろうか」「とすると、手足と同じくらい大切な人を失った時にも、脳はその人の幻を見せるんじゃないだろうか」
雅人と付き合っていた遥は事故に遭って、記憶の一部を失う。どうやら雅人はその事故で死んだらしい。
TMSという、脳を磁気刺激する治療を受けるうちに、遥の目の前に雅人が現れる。遥にしか見えない。
最後近くになって真相が明かされるところとか、やはりミステリーっぽいと言えばそうなのだが、主人公が女性になると、その女性の容姿の描写はないのだな、と思った。
愛する者が死んだ際に、人格破壊を防ぐために脳が幽霊を見せる、という考えは興味深い。
もちろん、全くのでたらめを書いているわけではなく、現代では脳のどの部分がどういう働きをしているかがだんだん解明されてきているから、そういう説明もされている。
大筋もだが、医学は薬に頼り過ぎていないか、断食をすると自己治癒力が上がって治る病気もある、ソメイヨシノはクローン桜だ、など作者の批判的な目を感じさせる小ネタも面白い。
女主人公に寄り添って読む、というよりは、島田ブシを楽しむような気持ちで読んだ。
引き続き、島田荘司さんの作品を読んだ。
事故や病気で手足を失った人は、たとえば腕がなくてもまだ爪先に痛みを感じる。それが幻肢。腕からの情報が伝わらなくても、脳はそう思い込む。
医学生の雅人は、幻肢が起こる原因について、こんなことを言っていた。「手足を失ったら絶望して、精神障害を起こす人もいるかもしれない。それを防ぐために、脳はなくなった手足の幽霊を見せるんじゃないだろうか」「とすると、手足と同じくらい大切な人を失った時にも、脳はその人の幻を見せるんじゃないだろうか」
雅人と付き合っていた遥は事故に遭って、記憶の一部を失う。どうやら雅人はその事故で死んだらしい。
TMSという、脳を磁気刺激する治療を受けるうちに、遥の目の前に雅人が現れる。遥にしか見えない。
最後近くになって真相が明かされるところとか、やはりミステリーっぽいと言えばそうなのだが、主人公が女性になると、その女性の容姿の描写はないのだな、と思った。
愛する者が死んだ際に、人格破壊を防ぐために脳が幽霊を見せる、という考えは興味深い。
もちろん、全くのでたらめを書いているわけではなく、現代では脳のどの部分がどういう働きをしているかがだんだん解明されてきているから、そういう説明もされている。
大筋もだが、医学は薬に頼り過ぎていないか、断食をすると自己治癒力が上がって治る病気もある、ソメイヨシノはクローン桜だ、など作者の批判的な目を感じさせる小ネタも面白い。
女主人公に寄り添って読む、というよりは、島田ブシを楽しむような気持ちで読んだ。
2015年05月20日
本『写楽 閉じた国の幻』
以下の文章では、『写楽 閉じた国の幻』の内容に触れています。
ご了承ください。
玉木宏くんが御手洗潔を演じる、と聞いてから、島田荘司さんの「御手洗潔シリーズ」は、かなり読んだ。島田さんには他にもシリーズものがあり、多作な人だが、御手洗モノを読むまで、私は島田作品を読んだことがないと思っていた……が、あった。昔、『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』を読んだのだ。漱石という実在の人物がホームズという架空の人物に出会う。というわけで、島田さんの作品はどこまで事実か、いや、そもそも小説に関してそんなことを言うのが無粋なのかもしれないが、これも「どこまで真実?」と思うような話だった。
もっとも、写楽についての真実なんてよほどの証拠が出てこない限り、わからないだろうが。
これも一種の謎解きだ。現代の、浮世絵研究をしてきて一冊だけ著書のある佐藤という男が「写楽とは何者か」を解明しようとする話と、江戸時代の真相を描く話が並行して描かれる。佐藤を手助けする女性の片桐が混血の美女だというのが島田作品らしいといえば、らしい(御手洗シリーズに登場するレオナも混血の美女だ)。
作者自身があと書きに書いているように、現代編の話は完結していないし、話の発端になった作者不明の肉筆画は誰のものなのかという推理も披露されていない。が、この話はこれで成立しているし、面白い。
「誰が作者か」を推測していく方法を教えてくれるし(たとえば、写楽の絵は、歌麿と耳の描き方が似ている)、似ている点を比べようとすると、比較する作品の多い人になっていくから「写楽の正体はは北斎か歌麿」という説が多くなる。
しかし、なぜ10か月で消えて、その後誰も「自分が写楽だ」と明かさなかったのか。それは明かせない人物が描いたからだ。明かせない人物が描いた絵を、版画にできるよう別の人物に「しきうつし」させ(だから「写す楽しみ」で「写楽」という名にする)、大々的に刷って売り出した蔦屋こそが冒険者だった。威張った役者には反発を感じ、誰の絵だろうと良いものは良いと判断し、大胆に勝負に出る蔦屋。
そういう蔦屋の人物像と、あり得ないようなことを周りから証拠を固めてゆく過程は、確かに推理小説に似ていた。
ご了承ください。
玉木宏くんが御手洗潔を演じる、と聞いてから、島田荘司さんの「御手洗潔シリーズ」は、かなり読んだ。島田さんには他にもシリーズものがあり、多作な人だが、御手洗モノを読むまで、私は島田作品を読んだことがないと思っていた……が、あった。昔、『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』を読んだのだ。漱石という実在の人物がホームズという架空の人物に出会う。というわけで、島田さんの作品はどこまで事実か、いや、そもそも小説に関してそんなことを言うのが無粋なのかもしれないが、これも「どこまで真実?」と思うような話だった。
もっとも、写楽についての真実なんてよほどの証拠が出てこない限り、わからないだろうが。
これも一種の謎解きだ。現代の、浮世絵研究をしてきて一冊だけ著書のある佐藤という男が「写楽とは何者か」を解明しようとする話と、江戸時代の真相を描く話が並行して描かれる。佐藤を手助けする女性の片桐が混血の美女だというのが島田作品らしいといえば、らしい(御手洗シリーズに登場するレオナも混血の美女だ)。
作者自身があと書きに書いているように、現代編の話は完結していないし、話の発端になった作者不明の肉筆画は誰のものなのかという推理も披露されていない。が、この話はこれで成立しているし、面白い。
「誰が作者か」を推測していく方法を教えてくれるし(たとえば、写楽の絵は、歌麿と耳の描き方が似ている)、似ている点を比べようとすると、比較する作品の多い人になっていくから「写楽の正体はは北斎か歌麿」という説が多くなる。
しかし、なぜ10か月で消えて、その後誰も「自分が写楽だ」と明かさなかったのか。それは明かせない人物が描いたからだ。明かせない人物が描いた絵を、版画にできるよう別の人物に「しきうつし」させ(だから「写す楽しみ」で「写楽」という名にする)、大々的に刷って売り出した蔦屋こそが冒険者だった。威張った役者には反発を感じ、誰の絵だろうと良いものは良いと判断し、大胆に勝負に出る蔦屋。
そういう蔦屋の人物像と、あり得ないようなことを周りから証拠を固めてゆく過程は、確かに推理小説に似ていた。
2015年05月02日
『パレードへようこそ』
以下の文章では、映画『パレードへようこそ』の内容に触れています。ご了承ください。
話の舞台になっているのは、1984年のイギリス。炭鉱労働者のストライキが長引いている頃。
ゲイ・パレードに参加していたマークは、炭鉱夫ストのニュースをテレビで見て「彼らの敵はサッチャーと警官。僕らと同じだ。応援しよう」と、「炭鉱労働者を応援するレズビアンとゲイのグループ」を9人で結成。集めたお金を送ろうとしても、炭鉱労働者組合からは、グループ名を言っただけで断られる。それなら、と直接ウェールズのディライス炭鉱に電話をかけ、お金を送る。
多額の支援金にお礼を言おうとロンドンへ出てきたディライスの労働者代表のダイは、彼らがレズビアンとゲイのグループだと知って驚くが、偏見なく、彼らの集まる店でお礼を言う。
ディライスに招かれたマークたちは、驚かれながらも交流を深めていく。もちろん、偏見を持つ人もいる。しかしダンスや音楽を通じて彼らに親しみを感じる人もいる。
「不当に扱われている者どうしが連帯する」と言葉にすると気恥ずかしくなるような話が、笑いを交えて展開される。ゲイであることをカミングアウトする男性、エイズのこと等も取り入れながら。
そつが無さ過ぎる、と言いたいくらいだが、ゲイたちのパレードに炭鉱夫たちが大挙して参加するクライマックスは感動的。
話の舞台になっているのは、1984年のイギリス。炭鉱労働者のストライキが長引いている頃。
ゲイ・パレードに参加していたマークは、炭鉱夫ストのニュースをテレビで見て「彼らの敵はサッチャーと警官。僕らと同じだ。応援しよう」と、「炭鉱労働者を応援するレズビアンとゲイのグループ」を9人で結成。集めたお金を送ろうとしても、炭鉱労働者組合からは、グループ名を言っただけで断られる。それなら、と直接ウェールズのディライス炭鉱に電話をかけ、お金を送る。
多額の支援金にお礼を言おうとロンドンへ出てきたディライスの労働者代表のダイは、彼らがレズビアンとゲイのグループだと知って驚くが、偏見なく、彼らの集まる店でお礼を言う。
ディライスに招かれたマークたちは、驚かれながらも交流を深めていく。もちろん、偏見を持つ人もいる。しかしダンスや音楽を通じて彼らに親しみを感じる人もいる。
「不当に扱われている者どうしが連帯する」と言葉にすると気恥ずかしくなるような話が、笑いを交えて展開される。ゲイであることをカミングアウトする男性、エイズのこと等も取り入れながら。
そつが無さ過ぎる、と言いたいくらいだが、ゲイたちのパレードに炭鉱夫たちが大挙して参加するクライマックスは感動的。