2017年12月28日

鬼畜

 以下の文章では、12月24日に放映されたドラマ「鬼畜」の内容に触れています。ご了承ください。


 松本清張の短編が原作。映画版も、過去のドラマ版も見たことがなく、今回、玉木宏主演でドラマ化されると聞いてから原作を読んだ。
 原作はごくあっさりと、突き放すように描かれている。主人公・宗吉以外の心情は描かれず、宗吉のそれもごく断定的で簡潔に描かれるだけだ。つまり、それは脚本がいくらでも隙間を埋めることのできる原作でもある、ということになる。
 妻役が常盤貴子で愛人役が木村多江である以上、ふたりの対照的な様子や対立を見せたくなるのは当然だろう。事実、ここでもそのケンカには気合が入っている。原作だと宗吉の家を訪れて子供たちを押しつけた後は出てこない愛人は、その後もう一度促されて宗吉宅を訪ね、妻と大ゲンカをする。宗吉はおろおろするばかり。
 正直、この「おろおろする玉木宏」を見せたかったのでは、と思うくらいその様子はハマっているのだが、それだけでは鬼畜にならない。子供を殺そうとするから鬼畜なのだ。しかし現在では実の子を殺す親がいる(そういう事件が報道される)から、殺すのをためらう宗吉はむしろ「人間的」に見えてしまうかもしれない。
 ドラマの設定は昭和51年になっているが、なぜその年代にしたのかがよくわからない。原作通り昭和30年年代のほうが「貧乏だった時を経てようやく少し余裕の持てた男がついつい妾さんを囲ってしまった」という設定に説得力があったのでは? その時代のほうがまだ「二号さんを持つ男」に何となく(男同士の間では)「あいつも余裕が出てきた」と思う雰囲気があったような気がするからだ。また、自分の妻に子ができないので他の女を求めた、というにしても昭和30年代のほうが説得力があったように思う。昭和30年代にするとロケ地を探すのが大変だから、昭和も後のほうにしたのかもしれないが…
 実は原作を読んだ時、もっとも印象に残ったのは、2歳の次男が死んだ時、まったく証拠はないのだが宗吉は妻が殺したのではないかと疑う、その時に妻が珍しく積極的に宗吉を求めてくるという描写だった。愛人が子供たちを押しつけていってから、きっと妻との間にそういうことは絶えていたに違いない。いや、もっと前からなかったのかもしれない。しかし妻が(証拠はないにしても)共犯意識からそういうふうにしてきて、宗吉もそれに興奮してしまうというのは、ありそうなことだと思った。だからその場面が無いのはちょっと不満。ただ、宗吉が置い込まれていく様子と妻の、引くに引けない思いつめた感じはよく出ていた。
 なんで子供たちがあんなに宗吉を慕うのだろうという感想があったが、きっと子供にはこの人がいないと困る(何しろ子供というのは保証人とか保護者とかが必要)ということがわかっていて、大人三人を別々に見れば宗吉が一番マシ、と判断したのかもしれない。
 ロケ風景は美しく、父子が海辺を歩く遠景は「砂の器」へのオマージュかとも思わせる。和泉監督はたっぷり時間をかけて玉木くんの表情を捉えてくれる。
 設定的には、妻はほぼ家の中にいる。小さな印刷所で、仕事場と住居が一緒というのは、そこに密着する度合いも高くなるのかもしれない。外回りは宗吉がやっているというのは原作からの設定だ(だから外に女もできたわけだが)。それにしても、このドラマでは妻が買い物に出るシーンもないようだ。一度婦警が訪ねてきた時に出たのかと思ったら、すぐ戻ってきた。ケンカの後、愛人が出て行った時も、追いかけてさらに追いやるようなことはしない。とりあえず家から出ていけばいい、という感じだ。愛人をつくったとばれた宗吉に「出ていけ」と怒る場面もあった。子供たちにしても必ず死んでくれなくても、ここからいなくなればそれでいい、と思っているようだ。だから最終的に妻が逮捕される前に毒を飲んでしまうのも、ここを出るよりこの家で死ぬことを選んだようにすら見えてしまう。それほどまでに彼女が執着した家。それは宗吉と自分だけの城、他の誰をも容れることのできない場所だったのかもしれない、すると、彼女の怒りが宗吉よりもそこに邪魔者として入り込んできた子供たちに向けられるのも、わかるような気がする。  

Posted by mc1479 at 13:53Comments(0)TrackBack(0)
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