2015年03月29日

『残念な夫。』感想 その②

 以下の文章では、連続テレビドラマ『残念な夫。』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 玉木宏くんのファンにとって昨年10月から半年間続いた、嬉しくも忙しい時期がひとまず終了した。

 1月から3月まで10回放映された『残念な夫。』
 題名からもわかるように、ここで玉木くんが演じた陽一は、カッコイイ男ではない。だが仕事はできる、お人好し、周りからも好かれるという長所はある。
「子どもが泣いていても自分であやさず、妻を呼ぶ」「ウンチのオムツは替えられない」といった残念さから始まって、会社の同僚の女性に好かれたのが災い、浮気疑惑に、部下に金を貸したことも重なって、一気に離婚の危機に陥る。陽一以外にも、娘の育児を全くしなかったために妻に見離されている細井、一見完璧な夫だが実は妻に暴力をふるっていた須藤という残念な夫たちが登場する。
 結末から言うと、それぞれの夫たちは少し変わろうと努力し、また妻のほうも変わっていくのだが、陽一以外の夫たちの残念さは、回を重ねるごとに少しずつ重みを増していく感じだった。
 最初は本当に陽一とその妻の知里、二人の子どもである赤ちゃんの華ちゃん、それに陽一の母と知里の父がしょちゅう乱入していたので、「このドタバタのままで最後まで行けるんだろうか」と気がかりにもなった。
 実際のところ、常に前面に「笑い」を押し出しながら、全体のストーリーを進めるのは大変だと思う。『残念な夫。』も、最終回では「笑い」は控えめになっていた。
 脚本は、山﨑宇子と阿相クミコ。山﨑宇子は『結婚しない』の脚本を坂口理子と共同で書いていた人。
 実は今回、一番心配だったのはこの脚本だったのだが、ストーリーの大きな流れには矛盾がなかったのでホッとした。常に二人の名が出ていた『結婚しない』と違って、今回は第5話、7話、9話が阿相脚本で、他の回は山﨑脚本。もちろん、基本の設定は合わせた上で書いているのだろうが、なぜか阿相脚本の時の陽一のほうがよりアホっぽい気がした。
 出演者の演技は自然で、コメディが上手だった。玉木くんはあれでも6割くらいに抑えていた「らしいが、それで正解。10割にしたら、やり過ぎ。倉科カナさんがこんなにコメディ演技が上手だというのも初めて認識した。ちょっともったいなかったのは、陽一の部下役の林遣都くん。田中圭くんがあれだけしか出てこない(知里の元カレの役)のにも驚いたが、そういう意味では贅沢な使い方だったとも言える。
 このドラマに「妻のことをわかっていない夫について、世間の関心を引き寄せたい」という目的があったのだとしたら、そこまで話題にならなかったという点では失敗だろう。「子育てコメディ」という時点で、見る人は限られる。恋愛に夢見る人は多くても、子育てに夢見る人はそう多くはないだろう。あえてそれをやったチャレンジ精神を認めるか、視聴率が上がらなかったからダメと切り捨てるか、で評価は変わってくると思う。
 ただ、私にとっては、玉木くんの持つ「安心感」を再認識するドラマになった。もちろん、俳優さんは見る側に不穏や不安を与えることも仕事のうちかもしれないけれど、たとえ、ハッピーエンディングでなかったとしても、玉木くんなら見事に着地を決めてくれるだろうという期待と、それに応える力。最後まで、安心して見続けることができるというのも、俳優さんの実力のうちではないだろうか。  

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2015年03月26日

『残念な夫。』感想

 以下の文章では、テレビの連続ドラマ『残念な夫。』の内容・結末に触れています。ご了承ください。


 男性が、謙遜のつもりなのか本音なのか、「男なんて、しょせん女のてのひらの上で踊らされているようなものですよ」というニュアンスのことを言う時がある。『残念な夫。』終盤の離婚騒ぎを見ていて、そういうことだったのか、陽一、結局、妻の知里のてのひらの上で踊らされていた?とふと思った。もう一度、本当に「父親」になる気があるのか?と確認されていたんじゃないのかと。
 というのは浮気(?)がバレてから離婚調停までの知里は、とても感情的になっているように描かれているけれど、裏ではそうではなかったのではないかと思えるフシがあるからだ。
 第一回の調停の時、知里は調停委員に「これが送られてきたんです」と浮気相手から送られてきた陽一の写真(だと思う。画面には映らない)を見せる。当たり前だが陽一の相手は、陽一のスマホにそれを送ったのだ。陽一がスマホを自宅に置き忘れ(どこへ行ったかと探していたのだが、出勤時刻になって、仕方なくそのまま出た)その後、娘の華ちゃんがそれをいじっているのを知里が見つけるという展開だった。知里がそのまま陽一のスマホを取り上げたとは考えにくいので、わざわざ自分のスマホに転送して保存しておいたということなのだろう。証拠として? ずいぶん用意周到ではないか。
 また、最終話になって、知里が実家に帰る前に、浮気相手に会っていたことがわかるのだが、そこでは感情的になることなく、冷静に話している。そもそも会うためには、やっぱり陽一のスマホから連絡先を控えておいたのだろう。これも用意周到。
 だから、あの調停とその前における知里の感情的な話し方は、もしかして陽一にもっと考え直してほしかったからで、心から離婚を望んでいたわけではないのでは?
 もう少し理屈をこねるなら、離婚を決意していたのなら、なぜすぐに働き口くを探そうとしなかったのだろうという疑問もある。
 現・夫からの再プロポーズ。お礼の言葉。もちろん、知里のほうからもそれは言うわけだけれど、やっぱり夫にそう言わせたくて、そこまでの行動をしていたんじゃないのか?という気もする……
 もちろん、このエンディングを否定するわけではない。後味のいい終わり方でよかったと思う。  

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2015年03月23日

『妻への家路』

 以下の文章では、映画『妻への家路』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

「文化大革命に引き裂かれて20年、再会した妻は夫の記憶を失くしていた。」というのがチラシに書いてあった言葉だが、これは正確ではない。20年ずっと離れっ放しではなく、途中で一度、夫は逃げ出してきたのだ。しかし扉をたたく音を聞いて、妻は鍵を開けなかった。夫は明日、駅で待つから、とメモを残すが、当時の教育を真面目に受けていた娘は、それを密告する。妻は駅に行くが、目の前で夫は連れ去られる。
 さて夫が正式に解放されて帰ってくると、妻は「二度とあの人を締め出したりしないように」と鍵をかけずに暮らしている。娘のことは許せず追い出して、娘は勤め先の寮にいる。そして、帰ってきた夫のことを夫だと認識しない。
 そこから夫の苦心が始まる。まず、妻が自分の出した「5日に帰る」という手紙を信じていることを知り、5日に駅にやってくる。今着いたばかりのようにして妻の前に現れるが、妻はやはり夫のことをわからない。
 そこで夫としてではなく、妻を手助けする。「夫が帰ってくるまでにピアノの調律をしたい」と聞くと、調律のにわか勉強をしてそれをやる。そうしてピアノでたぶん懐かしい曲か何かを弾く。ピアノを弾く夫の背に妻は近づく。しかし、夫が振り返るとやはりダメ。
 書いても出せなかった手紙がまとまって荷物として届く。目が悪くなって読みづらいという妻に、夫はそれを読んでやる。その手紙の中に自分の願いをすべり込ませて、娘を許してやるように言うと、それには妻は素直に従う。しかし夫はこのままでは自分は「手紙を読む人」になってしまうと焦る。そこから一歩踏み込もうとすると、激しく拒絶される。
 いい関係が結ばれたのかと思うと、またダメで……ということの繰り返しが描かれた後、一気に歳月が過ぎたラスト。夫は妻と一緒に「待つ人」になっている。夫の側からしたらもどかしくてたまらないかもしれないが、素直に受け入れられる結末だった。妻を愛し続けているのなら、たぶんこういう結末しかないのだろう。
   

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2015年03月23日

『はじまりのうた』

 以下の文章では、映画『はじまりのうた』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 最近またテレビで『ONCE ダブリンの街角で』を見て、素朴でいいよねと思ったこともあって、同じ監督の新作であるこれを見に行った。今度はダブリンではなく、ニューヨークが舞台。その街のあちこちでロケをしているという点では、前作以上に「街が主役」の映画なのかもしれない。
 ただし、ここには『ONCE』を見た時のような、意外な拾い物をしたような喜びはあまりない。男と女が音楽を介して心を通わせながら恋人どうしにはならずにそれぞれの道を行く、というのは『ONCE』の時には新鮮な感じがしたが、今回は「そうなるのだろうな」と予想できてしまうからだ。
 名前と顔を知られた俳優さんが出ているから、「もしかしてこの人たちは、ほんとうにこういう生活を送っているのかも」と思わせる力も弱い。主人公のグレタがギターを弾き歌う場面では、どうしても「キーラ・ナイトレイがギターを弾き歌っている」と見てしまうからだ。ただし、ニューヨークの街のあちこちで演奏して録音する場面では、「なるほどニューヨークでなら、こんなこともできるのかもしれないなぁ」と思わされた。こちらが漠然と持っているニューヨークのイメージ――雑然としていて自由で――にハマるからだろう。
 そこがこの映画の一番の見所だ、と言ってしまえばそうかもしれない。そして主人公たちが、現代では特に有名レコード会社に頼ったりしなくても、自分たちの音楽を世に出せることを示して見せるのも小気味良い。もっともそれだって、今までの人間関係に頼ってはいるのだが。  

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2015年03月10日

『天才探偵ミタライ 傘を折る女』感想

 まず、前の記事のタイトルが変で、すみませんでした。正しくは「~化で気になること」でした。なお、今回も取り上げますが、ドラマの正式タイトルはもっと長いです。省略しておりますが、すみません。
 そして当然、今回はドラマの内容・結末に触れております。ご了承ください。


 さて、ドラマを見て。まず気にかかっていた点から言うと、バスジャック事件は上手に処理されていた。1人だけ逃げた乗客は自分を正当化し言いふらし、自分のスナックの客にも自慢していた。しかし、彼女が逃げたことで怒った犯人は、乗客の1人を殺す。逃げた女は「私が知らせたから犠牲が1人で済んだ」と主張するが、「彼女が逃げたから1人が殺された」と考えるバスの運転手は、殺された客の娘に、バス内で起こったことを話す。ただ、原作では1人犠牲者だけが名前を明らかにされてプライバシーを踏みにじられたことへの怒りがもっとあったと思う(犯人も少年だったため、名前は公表されなかった)。そういう面ももっと出せば、社会批判の趣も出たのに。
 殺される側に非難される点があり、殺す側への同情を誘うというのは、ドラマではよくある手法だろう。もちろん原作にもそういうところはあるのだが、ドラマではいっそう強調されている。殺人犯となった女性の着ていた白いワンピースが、まるで彼女の罪のなさを象徴するものとして用いられているようにも見えてくる。
 ミステリーマニアから見れば、細かい点での不満はあるかもしれないが、謎解きは原作通りだし、その謎で話を引っ張っていく力もあった。
 ストーリー以外で注目されるのは人物像だろう。そもそもこんなに長く映像化されなかったのは、御手洗潔という人物を表現するのが難しいという理由もあったわけだから。30年以上にわたって書き継がれてきたため、御手洗の性格も変化し、複雑になっているが、基本的に(能力が高いため)上から目線でものを言うし、変人と思われやすい。実生活上では、同居している石岡和己にほぼ依存している。
 いきなり変人として登場すると、特にテレビでは嫌われるかもしれないし、『傘を折る女』の原作では御手洗はさほど変なところは見せない、ということもあって、ソフトではあるが原作の御手洗らしさは映像化されていたと思う。
 石岡が、御手洗の興味を惹きそうな話をしても、初めは本を読んだままでいること。初対面の女性刑事をじろじろ見て、彼女の最近の状況を言い当てる場面。昼食をどうするか石岡に聞かれて「君の作る和食がいい」と御手洗が答え、石岡が出版社との打ち合わせがあるので今日はちょっと無理だと答えると「じゃあ、もういい」と食べずに済ませるところ。特にこの昼食に関するやり取りは、御手洗が実生活でいかに石岡に頼っているかということや、熱中すると食事をとらなくなるということを表していて巧い。
 たぶん「天才御手洗にしては、謎解きに時間がかかり過ぎ」という不満を抱く人もいるだろうが、御手洗の中では解決されていても、直接犯人と会って話をするために時間を稼いでいたという説明もできる。そういうことも合わせて上手にドラマにしてあった。
 事件の舞台を御手洗の住む近くにしたのは、その地域の刑事たちを含め、シリーズ化を狙っているからだと思う。あのカッコイイタイトルが一度きりで終わるのは残念なので、是非続きをお願いしたい。


   

Posted by mc1479 at 13:40Comments(2)TrackBack(0)

2015年03月05日

『傘を折る女』ドラマ化出来になること

 以下の文章では、2015年3月7日放映予定のドラマ『傘を折る女』について筆者が「ここはどうなるのかな?」と思うことを書いています。白紙でドラマをご覧になりたい方はお読みにならないでください。


 原作では ラジオで聞いた話・後には刑事から聞いた現場の様子から推理が進む。つまり探偵は、現場には行っていない。予告を見る限り、ドラマではそうではなく探偵たちも現場に行くらしい。ということは「離れたところにいて真実を言い当てる」という天才的なワザを見せる話ではなくなるわけだ。そのへんをどうしてあるのか。
 原作では犯行の場所は名古屋近郊。これも変更されているのだろうか。

 93年を舞台にした原作だが、ドラマの舞台は「現代」になっている様子。それで不自然にならないようにうまく変更してあるのか。

 原作を読んだ時から少し疑問だったのは、バスジャックされたバスの運転手が途中で1人だけ降りた乗客の名前を知っていたこと。なぜ
? 1 よほど何度も利用したことのある客で顔なじみだった。
  2 この乗客は客商売なので、運転手さんにも「近くに来たら寄ってね」と店の名前と自分の名前の入った名刺を渡していた。
 これくらいしか私には考えられないのだが。

 そしてバスの運転手から聞いた名前をもとに新聞記者がその乗客の素性を探って記事にする。展開から考えると、探偵側もその記事を読んでいて、バスジャックの時に何が起こったか知っているということになるのだろう。
 小説の中にはその記事は具体的には書かれていないので、これはドラマではどういう記事だったのか説明されるのか?
 またたぶん新聞記者というよりは週刊誌の記者になりそうな気がするが、どうなのか。

 とりあえず、そんなあたりがどう上手に処理されて不自然でないものになるのか を見てみたいと思う。  

Posted by mc1479 at 07:18Comments(0)TrackBack(0)
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