2013年06月29日

『小説 平清盛』

 大河ドラマ『平清盛』が終わって半年たつのに今頃読んだ。作者が高橋直樹、『源氏の流儀ー源義朝伝』を書いたのと同じ人。この人、平家側からも書いているんだーと思って読んだ次第。
 大きく4つの章に分かれていて、義朝が登場するのは第一章のみ。ここでの義朝は父・為義と対立していることを清盛にも隠さない激しい気性の武士だが、自らの関東なまりを恥じていて、息子の頼朝は殿上に出しても恥ずかしくないように育てたいと思っている。『源氏の流儀ー源義朝伝』と同じく、ここでも義朝は美男。清盛の目を通して描かれる分、はっきりと外見の印象が描かれている。引用すれば、
 見事な武者ぶりだった。
 清盛へ向けられた義朝の眼ざしは、目鼻立ちが整っているせいか、かえって凄味が増して見える。
という感じ。後になって頼朝の名を聞いた時にも
 ―-恰好よかったな、左馬頭(義朝)は。武将として華のあった義朝を、羨ましく感じたものだった。
と回想する。
 
 第二章以降は、武士としての弓矢を捨てて国の政に関わる地位に上っていく清盛の姿と並行して、反平氏勢力が現れ、力をつけていく様子が描かれる。ここには義経や弁慶は登場しない。大河ドラマでは最期まで清盛のそばにいた盛国も描かれない。平時忠が清盛の相談役でもあり知恵もある人物としてずっと付き添っている。
 人物をしぼったことでわかりやすくなっているが、清盛の命で南都の寺社を焼き払うくだりは、かなり凄惨な場面含め大きな見せ場になっている。ただしこの戦いの場には清盛はいないので(重衡が中心)、ここを大々的に描くと、清盛中心の話から離れていってしまうかな、とも感じる。
『源氏の流儀ー源義朝伝』でもそうだったが、後半になると頼朝がクローズアップされてくる。ここでの頼朝は威厳に満ちた姿を見せながら、内心で「源氏はそうでなければ生きていけぬのだ」と呟いている。こういう頼朝のハッタリというか演技して見せるところは、大河ドラマでも描いてくれたら面白かったのになあ、と思った。  

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2013年06月27日

『田園に死す』

以下の文章では映画『田園に死す』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 寺山修司の映画を見たのは初めて。
 なぜ見たか、というのにはもちろん『ホテル・マジェスティック』の予習で調べた時の「澤田教一と寺山修司は同級生」ということにも関係している。ここでは津軽弁がどう扱われているのかも気になった。津軽弁に関して言えば「語は標準語でイントネーションは津軽」という使い方が多かった。
 画面上ではまず、作者の過去の自分らしき少年とその母親の白塗りメイクに驚く。それはやがて「子供の頃の風景でも描こうとすると厚化粧になってしまう」というナレーションが入るので、そういう意味なのだなと了解する。話の半ばまでは「回想もの」なのかなという形で進む。やがてそれを描いている現在の「私」が登場する。そして現在の「私」は20年前の「私」に出会い、母を殺すように言うのだが、20年前の「私」には果たせない。現在の「私」が果たそうとして家に行くと、母は「腹すいたか。今すぐごはんにすっからな」と言い、二人がごはんを食べているところで終わる…
 カラー画面は鮮烈で、時に操作されていて、風景が一面緑色だったりする(緑の夕焼け!)。時空を越えて二人の「私」が出会うのもそんなに奇抜な感じはしない。
 家になじめずに逃げ出そうと思っている本家の嫁、父親のわからない子を産んだ女、「母一人子一人」を強調する「私」と暮らしている母。そういう強烈な女たちへの憧れでもあり憎しみでもあるような映画。
「時」は家の中にひとつだけ、柱時計によって示されるものだけがあればいいと考え、「そんなところに時間を閉じ込めて持ち出すなんて、とんでもない」と腕時計を買うことを許さない母。その「時」に関する考え方には妙な説得力があった。
 全然さわやかじゃない青春ものとして興味深かったけれど、何度も見たいタイプの作品ではない。
 寺山の短歌がところどころに挿入されていた。印象に残ったものを一首、引用しておく。
 かくれんぼ鬼のままにて老いたれば誰をさがしにくる村祭  

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2013年06月19日

映画『華麗なるギャツビー』を見て

 1974年版『華麗なるギャツビー』を私は見ている。ジャック・クレイトン監督、ロバート・レッドフォードのギャツビーとミア・ファローのデイジー。
 今回の監督はバズ・ラーマン。レオナルド・ディカプリオのギャツビ―と、キャリー・マリガンのデイジー。
 74年版を知っている者としては、今回のは見てがっかりするか、それとも「これもいい」となるのか、心配していたが結果は後者。ディカプリオの少年のようでもあり老成しているようでもある容貌はギャツビーにはまっている。ギャツビーという人物はロマンティックでありながら何をしてきたのかわからない不気味さを持っているわけだが、レッドフォードのギャツビーはロマンティックさが勝っていて、ディカプリオのギャツビーは不気味さが勝っている感じがする。にも関わらず、今回のギャツビーは感情移入しやすい。
 74年版のクレイトン監督は突き放した描き方をしていて、俳優たちも抑えた演技をしていた。そのせいもあってギャツビーの内面を覗くのは難しかったが、今回の映画はギャツビーの過去も映像として挿入されるし、全体としてわかりやすい。
 ニックが原作や74年版より重みを増して、ギャツビーとのことを執筆しているという設定になっている。デイジーがギャツビーの屋敷を訪ねる場面でもニックはそこにいるし、ギャツビーが色とりどりのシャツをばらまいてその乱舞の中でデイジーが泣き出す有名な場面でも、ニックもそれを目撃して、デイジーの内心を代わりに語ったりする。それらによってギャツビーとデイジーの心情はわかりやすくなった。
 その代り、それ以外の人物は小さくされたり省略されたりしている。原作にも74年版にもあった、ニックとジョーダンの恋は描かれないし、トムの愛人マートルは74年版のカレン・ブラックの下品な生命力には及ばないと思うし、ギャツビーの父親は登場しない。
 それだけ登場人物が表面的になっているとも言えるが、人工的・表面的な豪華さがこの物語にぴったりだとも言える。バズ・ラーマンといえば豪華な見せ物的映像を提供する人というイメージがあるが、ここではその豪華さと、それが終わる時の空虚さを感じさせることに成功していて、ギャツビーの物語に普遍性を持たせている。  

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2013年06月17日

映画『マリーゴールドホテルで会いましょう』を見て

以下の文章ではこの映画の内容に触れています。ご了承ください。

 インドのリゾートホテル(シニア向き・長期滞在型)にやってきたイギリスの男女7人。ホテルは高級とは言えず、若いオーナーはそれでも悪びれず愛想だけはよく、帰る費用もない彼らは、それぞれにインドでの暮らしを模索する。
 亡き夫の借金のため家を売ったイヴリンは仕事を見つける。イギリスにいた頃からひびが入り始めていたダグラスとジーン夫妻の仲はいよいよこじれ始める。ダグラスはイヴリンに同情し、ジーンはグレアムに魅力を感じる。しかしグレアムは自分はゲイだと言い、昔住んでいたインドへ来たのはもう一度「彼」に会いたいからだと告白する。マッジとノーマンははっきり言って色恋が目当て。一番差別的な発言をするミュリエルは以前は大きなお屋敷の家政婦だった。
 ここに描かれたのは一種の理想の老後だろうか?
 年をとっても積極的に自分とは異なるものに触れ、なじみ、関わっていく。もちろんそのためには、ある程度のお金は必要だ。彼らは大金持ちではないが、貧乏人とは言えない。
 最後近くに「色恋は永遠よ」というセリフがあった。そうなのか、と思う。そうなのか、は「そうなのか前向きだなあ」という意味であり、「そうなのか大変だなあ」という意味でもある。60代(だと思う)から、また恋を始めるのか。彼らには同性どうしで喋っているほうが気楽、とか趣味に生きる、という選択はないかのようだ。
 そんな中で唯一死を迎えるのが同性愛者のグレアムなのは意味深な感じもする。一方、グレアムの死は理想的にも見える。昔の彼を探し出して会った後、亡くなったグレアムを彼はインド式に葬る。
 ホテルが閉鎖されるかも、という危機を越えて留まることにしたメンバーは、今後も恋を追求するのだろうか?
 もちろんシニア世代を主役にした場合、前向きなラストにするのがいいという要請(?)があるのかもしれず、終わり方を心地よくするためにも、それは必要なことかもしれない。そして実際、満足感は与えてくれる。それでも、生きる限り、そうしなければならないというのが彼らの文化でありこの作品のテーマなら、それはそれで大変だろうな、と思うのだ。  

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2013年06月15日

『孤高のメス』からの雑感

 成島出監督の『孤高のメス』を放映していたので、見た。成島監督作品を見るのは4作め、年代もバラバラ。映画館で見たのは『山本五十六』だけで、『ミッソナイト・イーグル』はDVDで、『八日目の蝉』とこれはケーブルTVで見た。
 成島作品はいつも「丁寧さ」を感じさせる。特に、日常生活の積み重ねを描くときにそれを感じる。この『孤高のメス』で言うと、語り手の看護士が子供を保育園に迎えに行く場面や、つばめの巣を見守る場面。語られる側の医者が、手術時に演歌のカセットテープを流すのを好む場面。
 主人公は腕のいい医者で美しい手術をするという設定だから、手術場面を見ていても気持ち悪いことはなかった。丁寧に描かれていくから、この医者に好感を持ち、応援したくなるのだが、ここには脳死者からの肝臓移植という深刻な問題を含むことも描かれている。
 しかしこの映画の巧いところは、あくまでも一医者の挑戦としてその手術の成功を祈るように描くという形にしていることだと思う。これで「だから脳死者からの移植を進めよう」などという方向へ行ったら、とんでもないと反対する人も多いだろうが、そうしないで留めているところが巧い。身近に迫った死に対してどうするか、という誰の身にも起こりそうなこととして描いているからいいのだ。

 あらためて、成島監督は日常を描くのが上手なのだ、と思って振り返ると、『山本五十六』だって五十六の家庭生活を描いた部分が印象的だったし、『ミッドナイト・イーグル』はアクションとしてはダメだと思うが、登場人物どうしのやり取りを描いた場面には面白いものがあった。おそらく成島監督は「国家とは…」とか「医療とは…」というような大きな物語を語るよりは、個人にまつわる小さな物語を語る時にその良さを最大限に発揮するのではないだろうか? だから小さな物語を行き来する『八日目の蝉』の評価が高いのではないか…と思ったりした。  

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2013年06月07日

おいしそうな小説

 たまたま最近読んだ2冊が、食べるシーンの印象的なものだった。
 
川上弘美『おめでとう』。
12の短編が入っている。生の蛸を食べさせる小さな飲み屋で「蛸をむつむつ噛んだ。」この「むつむつ」というのが印象に残った『いまだ覚めず』。
 別れた男と5年以上たって再会、男からもらったイチゴミルク(キャンディ)を食べる「私」のとまどい(『夜の子供』)。
 ふだん昼間しか会えない(不倫の)仲である二人が、一度だけ男の弟の部屋で食べる鍋料理(『冬一日』)。
 でもこの短編集で一番印象に残ったのは、実際に食べる場面よりも次のような比喩だった。

  私たちは、ゆうべのちらし寿司を朝の光の中で眺めているような気分で、互いの名を呼びあった。         (『夜の子供』)

 もう一冊は、『この暁のぬるさ』鹿島田真希  正確に言うと、表題作ではなく、『酔いどれ四季』のほう。
 ボーイズラブ小説を書いている38歳、太っている、オタク小説家の横田あやめ。連載中に悩むと、担当の、よくできた編集者・カオル君がおいしいものを食べさせてくれる。
 春は、焼酎バーで、ゴマ豆腐や鯛の刺身。
 夏は四川料理店で、酢豚、えびのチリソース、麻婆豆腐。
 秋はホテルの庭園にある天ぷら屋。
 冬はワインバーで、生ハムとオリーブ、ブルーチーズと牛肉のカルパッチョ、フォアグラのソテー。
 実際はそこで語られる二人の会話がメインで、それが
   
 経験は何も語らない。ただ、美食と美酒によってなにものかが憑依するのだ。こうして私たちはシャーマンのように言説を紡ぎ出す。いつまでも。
 
という最後につながっているのだが、こってりした料理を食べるオタク作家がリアルに思い浮かべられた。
 
   

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2013年06月05日

マクベス

 NHKのBSで放映されたのを見た、野村萬斎構成・演出・主演の『マクベス』。劇の中継前に入っているインタビューの言葉を借りるなら、「大胆に狂言や能の手法を取り入れて日本化」したマクベス。マクベスとマクベス夫人以外は、3人の男性によってすべてが演じられる。つまり、魔女、バンクォー、王、使いの者など。出演者は計5人というわけ。
 人数を少なくしたマクベスというのは昔、大学生の演じたそれでも見たことがある。その時は3人の魔女は一人でまとめて演じていた。
 だから萬斎版の『マクベス』の見ものは、少人数化というよりも、様式化なのだろう。殺陣のシーンでマクベスが見せる動きにそれは最もよく表れている。魔女その他を演じる3人も、場面に応じてダンスのような動きを見せる。
 キモノ風の衣装も、図案化された模様の描かれた布(ある時は幕になり、ベッドの天蓋のようにもなる)、もっと大きなせりあがってくる布(木々の模様が描かれたそれがバーナムの森を表す)も、極めて日本的に見える。

 マクベス夫人だけが、様式的な動きを見せない。たとえば、夢遊病のシーンなど、そういう演出もできたと思うのになぜ?
 勝手に理由を推測してみると、彼女だけが「女」であるから?
 女には「型」や「様式」は、ない。女はリアルな生身だから…もしかしたら萬斎さん、そう思っているのでしょうか?  

Posted by mc1479 at 09:57Comments(0)TrackBack(0)

2013年06月02日

映画『イノセント・ガーデン』を見て

以下の文章では映画の内容に触れています。ご了承下さい。
 
 この日本題名を見ると「庭」が最も重要な場所になるのかと思うけれど、原題はStoker.つきまとうストーカーではなくて、女主人公を含む一家の姓なのだが、Stokeには「火を起こす、(怒りを)かきたてる」という意味もあるそうだ。
 18歳になったインディア(ミア・ワシコウスカ)に届けられた鍵。それまでの誕生日にはずっと靴が届けられていたのに。何の鍵?と思う間もなく、彼女の最愛の父が事故死。その葬儀の日から滞在するようになった叔父のチャーリー(マシュー・グード)。母(ニコール・キッドマン)はチャーリーに惹かれているようでもあり、そしてインディも、となると三角関係の話を中心に進むのか?と思うが、長年勤めていた家政婦が消え、母に話をしに来た大叔母も消える。どう見ても怪しいのは叔父なので、叔父の正体とインディの変貌が見ものになる。

 飽きさせないが、どこか想像と違った。
 インディは鋭い感覚の持ち主という設定になっている。初めの方に、彼女がゆで卵をテーブルに押し付けながらゆっくり殻にひびを入れ、みじゃみじゃいう音を聞かせる場面があるのだが、そういう細かい不快さみたいなものをもっと見せてほしかった。ショッキングな事件を重ねるよりも、彼女自身の感覚が彼女だけに見せてしまうもの、感じさせてしまうものを通して、いっそすべてが彼女の妄想かもしれない、というような描き方がされていれば、その方が好みだった。
 ピアノ演奏のシーンは官能的だが、あえて息遣いの音を入れなくても十分官能は伝わったような気がする。インディのような少女なら、手紙の扱いはもっと丁寧にするような気がする。というように細かいところで私の望む描写とは少し食い違う。面白くないわけではない。しかし感性に訴えるような作品に、自分の好みを反映させて見てしまうと作り手とのずれが感じられてしまうということだろう。
  

Posted by mc1479 at 14:04Comments(0)TrackBack(0)
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