2016年07月22日

蕭々館日録

 以下の文章では、本「蕭々館日録」の内容に触れています。ご了承ください。

 本郷弥生町の、作家・蕭々の住まい、蕭々館。妻と、娘の麗子がいる。蕭々の趣味で、麗子は岸田劉生の描く麗子像にそっくりの格好をしている。蕭々館には、作家仲間がよく集まって談義をする。
 芥川龍之介をモデルにした九鬼さん、小島政二郎をモデルにした児島さん、菊池寛をモデルにした蒲池さん。それに編集者。蕭々さんは、いや、そこに集う誰もが九鬼さんの才能にはかなわないと思っていて、そして九鬼さんが死の影をまとっていることを知っている。彼をなんとか「生きる」方にひっぱりたいのだが、それは誰にもできない。麗子にもできない。
 どの章も九鬼さんへの愛情が感じられる。麗子は五歳の幼女だから、九鬼さんも平気で抱きしめたりするが、麗子自身は子どもが甘える気持ち、というよりは対等の女性が異性を心配するような気持ちで接している。
 麗子は九鬼さんのことをわかっている。
「花と、花の匂いとは元々別のものなのです。九鬼さんが追いかけたり、追いかけられたりしたのは、花の匂いであって、花の幸福ではなかったのです。」というのは、九鬼さんがどういう女性に巡り合っても穏やかな生活を得られない原因を言い当てている。
 麗子の唯一の近所の友達として登場するのが「頭が重すぎる」賢い男の子、比呂志くん(もちろん、実際の芥川の息子の比呂志くんとは別)。比呂志くんは麗子と一緒に蕭々館の集まりの場にときどき居合わせて、大人たちより鋭い意見を述べたりする。この比呂志くんは年齢が少し合わないが、三島由紀夫がモデル?とも言われている。
 九鬼さん、児島さん、蒲池さんについては作者自身が誰がモデルかをはっきり書いているのだが、比呂志くんについては作者の言及はない。何しろ子どもだから、賢いのはわかるが、その発言には初々しいというか、どこか物足りないようなところもある。そのあたりも、麗子の思ったことという形で書かれている。
「〈知識)というものは、たとえば百万あるうちから一つ取り出すから輝いて見えるのであって、比呂志くんのように百の知識の中からだと、底が見えてしまって辛いのだ。」
 麗子にとって同じ年頃の唯一の友達だし、決して悪く思っているわけではない。しかし麗子が恋しているとしたら相手は九鬼さんであって、比呂志くんではない。
 麗子は九鬼さんに抱かれたり、一緒にじっと書斎にこもっていたり、九鬼さんのそばでその肌を感じ香りを感じることにはどきどきするが、比呂志くんはそういう対象ではない。
 頭の重すぎるのを少し軽くしてあげようとは思うし、同情することはある。けれども九鬼さんに対するような、せつないような苦しいような思いは、ない。
 いや、ここに出てくる人物すべてが九鬼さんにそのような思いを抱いているように見える。そして誰もが九鬼さんの死を恐れつつ、誰もそれに対しては何もできない。「大正」という時代の象徴であった九鬼さんがその時代を追うように去っていくのを誰も止めることはできなかった。
 かといって、これが絶望的に暗い話かというと、そんなことはない。
 蕭々館でのやり取りは軽快に描かれているし、九鬼さんがいなくなったあと、麗子は麗子像に似た格好をやめて、普通の女の子らしい格好になる。
 死にゆくしかなかった九鬼さんはたいそう美しく描かれ、その意味でこれは芥川龍之介へのラブレターではないかと思う。  

Posted by mc1479 at 12:58Comments(0)TrackBack(0)

2016年07月08日

I am Ichihashi

 以下の文章では、映画『I am Ichihashi』 の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 女性を殺害し埋めて、逃げた男がいた。整形手術まで受けて、二年以上逃げ続け、とうとう逮捕された。市橋という男。

 2013年に映画化された時は、ミニシアターで公開されたが、それほど大きな話題になったという記憶はない。最近、テレビ放映されたのは監督・主演のディーン・フジオカが有名になったからだろう。
 あまり同情する余地のないような男の話を監督・主演するのは大変だろう。逃げ続ける彼の心情に寄り添っていかなければならないだろうが、彼を犯罪に走らせた理由が特に描かれるわけではない。
 そこで登場させたのが、逃亡中の市橋に会って取材するインタビュアーだったのだろう。彼は警官ではないから、市橋を逮捕はしない。しかしその口調は次第に彼を責めるようになっていく。二人のやり取りの場面に、市橋の逃亡生活の様子が挟みこまれる。
 逃げ続ける市橋に対して「それでいいのか」と責めるインタビュアーを配することで、この同情しにくい男の話を客観的に描こうとしたように見える。
 そうは言っても、内容が内容なので、やはり「面白い」と言って見ていられる映画ではない。インタビュアーは実は市橋持自身(彼の分身)だったのか?と思わせる仕掛けは「なるほど」とは思うのだが…  

Posted by mc1479 at 12:33Comments(0)TrackBack(0)

2016年07月06日

蜷川実花さんの写真集(の玉木くん)

 IN MY ROOM という。蜷川さんの写真集。もともと雑誌に掲載されていたもので、玉木くんの載った号は買っていた。だから買うのよそうか、という気持ちもあったのだが、東京での写真展には行かないし、書店では立ち見できないようにビニールがかけてあったので、買った。
 ひとりあたり4ページ。総勢36人。途中、少し休みをはさんでいるが、連載としては完結している。
 初めて撮る人もいれば、何度目か、何年ぶりかの人もいる。共通点があるとしたら「蜷川さんがカッコイイと思っている男性」なのだろう。もちろん雑誌のことだから、その号が発売される頃にその人に関する何かがリリースされた、という場合が多いと思う。

「私の部屋で」というが、室内の写真ばかりではない。街中だったり水族館だったり。室内だとシャツの前をはだけてくれるサービスもあったり。脱いではいないが、ベッドの上にいたり、ベッドやソファで仰向けでもうつぶせでも寝てるポーズ、の人も。
 全体を通して見ると、最初は本当に「部屋の中」で撮影していたものが、時間と条件の許す範囲で「外」で撮るようになったのかもしれない。
 そういう中で見てきても、玉木くんのどアップは目を引く。顔全体がページに収まらないくらいの。ヒゲもちょろっと生えているのだが、目と唇のインパクト大。特に目。瞳の色の薄いのがよくわかるのもあるし、いわゆる目力に圧倒されそうなものもある。
 背景のわからない、スタジオで撮った写真なのだろうが、玉木くんだけ「ガラス越し」なのは他の人にない特徴。
 玉木くんの手前にガラスがあって、そこに水滴がついている。いや、上から水を流しながら撮影したのかもしれない。手法としては、それほど珍しいものではないのかもしれない。
 しかし、IN MY ROOM というタイトルからして、どちらかというと、くつろいだ、撮る側と撮られる側の隔たりのない共同作業的なものを想像していると、この写真だけは「IN MY ROOM」ではない、と思うのだ。ガラスの向こう。撮る側が部屋の中にいて、撮られる側は外にいるのか。あるいは撮る側が外に居て、たとえばガラス窓越しに、中に居る、撮られる側を見つめているのか。
 この写真を見ると、一介のファンにとっては「その通り」だという気もする。ファンにとっては、彼はいつも何かの向こうに居る人。テレビの画面の向こう。スクリーンの彼方。彼との間には、まさしく隔たりがある。
 しかし、「写真を撮る」という行為自体、すでにレンズ越しに、つまりガラス越しに隔たれた対象を撮るわけだ。いくらくつろいでいるように見えても、部屋に居るように見えても、それは違いない。
 では、「玉木宏を撮る」ということは、特にその「撮る」という行為を意識させる出来事だったのか。だから、あえてガラス越しであることをはっきりわからせる撮り方をしたのか。
 実際、くつろいでいるような、自然に見える表情をしていることも多い他の人と違って、玉木くんはほぼ同じ、こちらを見据えている顔、それだけである。
 遠くを見る目も、憂い顔も、にっこりもしていない。射るようにこちらを見る視線。「サクサクっと撮り終えた」らしいが、ということは、この目線、この顔こそが、撮る側にとって「撮りたい」と思う玉木くんだったのだろう。少しも目を逸らさない、その顔。誘っているというより、挑んでいるような目。
 そういう表情だけを撮って、しかも「これが玉木宏です」と言われれば納得してしまうような。常に「あちら側の人」ではあるが、目を逸らさない。「撮られる」ではなく、あえてこう行く、と向かってきているような目にも見える。
 こう向かいますが、どうですか? どうします? と撮られる側が来て、撮る側が行きましょう、と応じる。撮る側が「あなたを撮って作品にする」と臨んでいるなら、撮られる側も「これでいきますか」と提案しているような。戦い、というと厳しすぎるかもしれないけれど、どこかそういう意味合いすら感じさせるような写真で、そこが好きだ。  

Posted by mc1479 at 12:38Comments(0)TrackBack(0)
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