2016年12月25日

ヒッチコック/トリュフォー

 以下の文章では、映画『ヒッチコック/トリュフォー』の内容に触れています。ご了承ください。


 1962年にトリュフォーがヒッチコックに手紙を送り、やがでユニバーサルスタジオで実現した、トリュフォーによる、ヒッチコックへの長時間インタビュー。それは『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』という本になり、日本でも出版された。この映画はインタビューの音源を使いつつ、他の監督(もちろんヒッチコックに大いに関心あり)へのインタビューも加えた映画だ。監督たちの話に沿って、ヒッチコックの作品の一部が引用される。
 10人の監督が登場するが(中に黒沢清もいる)、この監督はヒッチコックの作品をこう観ているのか、とわかったり、私には未見のヒッチコック初期作品も挿入されたりするなど、見ていて飽きない。
 デビッド・フィンチャーが『めまい』を「変態の映画。美しい変態」と言ったり、マーティン・スコセッシが『鳥』のある場面を「神の視点から見ている」としたり。多くの映画監督のお気に入りは『サイコ』のようだ。しかし、監督たちはそれがきちんと秩序ある世界だということも、もちろん理解している。ヒッチコックはスタジオでもロケでも、スター達も使いながら、自分で統制した。ある場合はそういう演出では演技しにくいと言うスターもいたが、それでも演技しろ、と言ったという。また、時間を思いのままに操れるのが映画の楽しみだということも自覚していた。
 これほど長く深くヒッチコックと話したトリュフォーの「ヒッチコック的」と言われる『暗くなるまでこの恋を』や『黒衣の花嫁』がトリュフォーの作品の中ではさほど評価が高くないのは、かえってヒッチコック作品は誰にも真似のできなかったものだということを証明しているのかもしれない。
 トリュフォーは、撮影中にうまくいかないとセリフを変えることもあるとこの中で話しているが、ヒッチコックはそれに対して反対しないまでも、驚いたような反応を示している。そのあたりが二人の大きな違いだったのかもしれない。
 しかし、このロングインタビューののち、トリュフォーはほぼ一年に一作ずつ映画を撮っていったが、ヒッチコックはわずか三作しか撮れなかった。時代が、ヒッチコックには合わなくなっていったのか。
 それに関して言うなら、52歳で亡くなったトリュフォーのほうが時代に乗れていたのかもしれない。彼の晩年は、日本でもミニシアターが増えて話題作をさかんに上映していた頃で、メジャーに公開されなくても、公開される場があった。トリュフォーの晩年に作品はそういう場で公開されることも多かった(たとえば『緑色の部屋』は岩波ホール、『隣の女』はシネマスクエアとうきゅう)。
 もともと、トリュフォーにはどこか「個人的」な映画をも撮りたいという希望があったのではないだろうか。そういう映画にはミニシアターはぴったりだった。
 一方、ヒッチコックはあくまでも多くの観客を目当てにしていたのだろう。この中で「映画館の2000人の観客」を想定している、と話すところがある。200人ではなく、2000人をいっぺんに惹きつけドキドキさせるものがヒッチコックの考える映画だったのだ。
 現在、ミニシアターはどんどん消えていき、映画は巨大ヒットを狙うものが多く登場している。それらは確かに、ヒッチコックよりも多くの観客を目指しているのだろう。ただし、ヒッチコックの映画にあったような、多くの観客を惹きつけながらも「変態」な映画はなかなか出てこないように思う。そういうところが彼の凄さだったのかと改めて感じた。  

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2016年12月17日

ロマンチックウィルス

 以下の文章では『ロマンチックウィルス』(島村麻里・集英社新書〉の内容に触れています。ご了承ください。

 著者の名前も初めて聞いたし、こういう本が出ていることも今まで知らなかったのだが、世間的には「いい年をした」女性の熱中ぶりを書いているということで、興味を持った。
 出版されたのは二〇〇七年。ここで取り上げられているのは主に「韓流」、中でもペ・ヨンジュンに熱狂した人を対象に考察している。
 それまでファン活動などしたことがなかった、もしくはうんと若い頃にはあったけれどずいぶん遠ざかっていた・・・・・・という人たちが大量にファンになる。ファンとしては「ビギナー」なので熱中の度合いが高い。お宝が増える、よく出かける、〈たとえば韓国語の)勉強をする、仲間が増える・・・・・・
 そういう人たちは「こんな自分が好き」「まだ、自分にもこんな部分があったんだ」と自己愛に浸っている面もある。
 ある程度まで、元気になる、生きがいができる、など良い面が多いが、人の迷惑も考えずに自分の趣味を押し付けようとしたり、仲間うちでトラブルになる、など行き過ぎると弊害もある。
 また、日本(東南アジア)では、結婚していても「女性ひとりでのお出かけ」が認められているという基盤があってこそ、この熱中も起こるのだというのは面白い指摘だ。欧米のように「出かけるならペアが基本(夫婦なら夫婦揃って出かける)」という文化の強いところでは、なかなか既婚の女性ファンが大量に集まって熱狂する、という場は生まれにくいのだとか。
 もうひとつ、いわゆる「アイドルにきゃきゃあ言う」ようなことからは卒業した、と見られている中高年女性に(当時の)日本は鑑賞に耐えるようなテレビドラマなどをうまく提供できていなかった、そこに上手にはまったのが韓国ドラマではないかという考察も面白い。
 現在は少し状況が変わってきているのかもしれないが、韓国ドラマの人気が高まったことで、作り手側が意識的に高い年齢層に向けた作品を発し始めたのなら、それはいいことだろう。まあ、実際には経済力を持っている人たちを「おばはん」と呼んで排除できなくなったという商業的な理由がるわけだが、どんな理由でも、今までほぼ無視されてきた世代が重視されるようになったのなら、それはいい。
 結論的には、著者はロマンチックウィルスに感染することも上手に生かしていこう、という立場。元気になれるし、仲間も作れる。もちろん、ひとりで楽しんだっていい。長い老後にもいい刺激というわけだ。
 でも、そうまとめられてしまうと、何か物足りない気もする。著者自身、韓流ではないがかなりのファン歴があるそうで、読み物としてはきっとそれを書いてもらったほうが面白い。とは言っても、新書であるからには、こういうまとめにんるのだろう。  

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2016年12月17日

ドラマ『キャリア』

 以下の文章では、連続ドラマ『キャリア』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

『キャリア』良かった。
始まった時も、もちろんいいと思っていたのだけれど、最一回はテンポの良さで、見せ切ったところがあった。もう今は、どんな事件を描こうと「どこかで見たことがある」と言われるだろうから、それらを組み合わせて描く、ということになるのだと思う。第一回は序盤がバスジャック、その後落書き犯と逃走犯の話がからむ。結びつかないと思っていたものが結びつく「なあるほどと言いたくなる快感があるわけだ。あとは主人公の北町署署長・遠山金志郎のキャラクター設定。まっとうな正義感ある警官。と言っても「署長」なのだから、本来は出歩いたりせず、署内の管轄・指導をするべきなのだろう・・・・・・というのは、このドラマのセリフからもわかる。
 ただ、この署長は現場に出たくて仕方がない。
「僕は、市民に警察の力を信じてほしいし、市民の力も信じたいんです」と語る。
 そう、この語り口も独特で、常に丁寧な「ですます調」を崩さない。第四回で誘拐犯に話すときでも、そうなのだ。
 しかし、このほわ~んとした裏に何かもっとありそうだ、というのは金志郎を玉木宏が演じている以上、視聴者は思うのではないか。ただのほんわりさんでは、ないだろう。どうしても『IMAT』の日向先生を思い出してしまうからかもしれない。緊急時にたとえば人質や犯人をも含めて治療する医者、でありながら、闇を抱えていた日向先生。
『キャリア』で言えば、第一回で、逃走犯と遭遇した時、振り向きざまに犯人が突き出したナイフを素手で握ってしまう場面がある。もちろんそうされれば犯人は武器が使えないし、揉み合った末に逃げ出すのだが、素手で刃を握ってしまうところに何かただならぬ気配がある。
 しかし第二回以降、ほぼそういう危うさを想像させるところは秘められてきた。冤罪をかぶりそうな人にはあくまで味方をし、どんな人も暴力にさらされたりすることのないよう気を遣う。
 スイーツを携えて北町署にやってくる警視監・長下部さんの存在や、ヨガ教室での風景も、このドラマのほんわかした部分を受け持っていた。
 ほんわかした部分と、スリリングな部分のバランス。それがドラマの妙味だったと言ってもいい。神回とも言われる第八回ではそのバランスが絶妙で、ファンを熱狂させた。
 さて、第九回に来て、ストーカー、あわや殺人?という事件を描きつつ、過去の金志郎の父の死についても疑問が現れ、急展開を見せる。したがって、ほんわりした部分が少なくなってしまったが、どう決着をつけるのか、金志郎はやはり普通でないものを背負ってしまった、どこか歪んだ人だったのか、そのあたりがどう描かれるのか、ということに焦点が絞られてきた。
 結果から言えば、最終回の前半で少し自分を見失ってしまった金志郎だが、そこはこれまで彼が関わってきた刑事課の部下たちが支えてくれる。父を殺した犯人との対峙。よくある展開でここで犯人は死ぬのかと思ったら、そうはならないところが新鮮だった。
 犯人は挑発する。ここで俺を殺せば、警察の隠蔽工作はばれない。お前も父の敵が討てるだろう。しかし、金志郎は、そういう憎しみの連鎖は選ばない。さらに、犯人に自殺もさせない。
 生きて罪を償わせる、という。そして当時の隠蔽工作をした上司たちを告発するのは、実はその時自分も関わっていた長下部さん。
 警察署長も周りの人に支えられていることがよくわかる展開にしていた。
 特筆すべきはこのドラマ、一度もドラマ中で殺人が起こらなかったことだろう。もちろん、前提として金志郎の父は殺されているので、その回想シーンは出てくる。ただ、それはこのドラマの始まる前の物語だから、ドラマ内の事件では誰も殺されなかった。
 殺人事件の犯人である男にも生きさせる。生きろ、という選択。それがこのドラマの一番強い主張だったと思う。

  

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2016年12月12日

太宰治の辞書

 以下の文章では、北村薫『太宰治の辞書』の内容に触れています。ご了承ください。

 円紫さんと私シリーズ。北村薫の書いた人気シリーズだ。
『空飛ぶ馬』(1989)は北村のデビュー作で、その後、1990年代に『夜の蝉』『秋の花』『六の宮の姫君』『朝霧』と続き、そこで途絶えていた。
 それがいきなり再び2015年に現れたのが、本作。
 もともt、円紫さんと私シリーズは、最初の作品では大学生だった「私」と、落語の師匠・円紫さんが、日常の中で起こる不思議なことを解決していく、人の死なないミステリーだった。その後、人の死ぬ話も出てきたが、基本は日常生活を離れることはなかった。また、「私」が日本文学を研究する大学生であることから、文学上のミステリーというべきものを探究していく話もあった。それが『六の宮の姫君』だ。その後、「私」は大学を卒業し、出版社に勤めるが、90年代に描かれたのは、そのあたりまでだった。
 さて、今回の『太宰治の辞書』は(タイトルから見当がつくかもしれないが)文学探究のほうの作品である。
 今も本が大好きな「私」が疑問に思ったことを追究する。その「私」は今は結婚してひとり息子を持つ、働く母である。「つれあい」と呼ばれる夫は「私」が休日に仕事以外で出かけるような時にも快諾して手伝ってくれるような、いわゆる理解ある夫だが、それ以上の詳しいこと、つまり容姿や年齢は描かれない。息子についても中学生で野球部所属、という以外にはほとんど説明されていない。
 
 太宰治の辞書、の探究は『女生徒』に出てくる「ロココ料理」の話から始まる。「ロココという言葉を、こないだ辞書で調べてみたら、華麗のみにて内容空疎の装飾様式、と定義されていたので笑っちゃった」とある。
 こんなに「ロココ」の定義を悪く書いてある辞書なんて本当にあるのか。言われてみれば、辞書というのは、善し悪しの判断を感じさせるような定義というのはしないのではないか。
 ところが、では太宰の使っていた辞書はどんなものだろう、となると難しい。この作品で書かれているように、日常で使われていた小型の辞書などは、なかなか残らないからだ。価値ある古書として大切にされたりはしない。
 さまざまな辞書や百科辞典を引いた後に、残された太宰の書斎の机を撮った写真や『回想の太宰治』を読んだりして、ようやく、当時太宰が使っていたのは「掌中新辞典」だろうと見当をつける。側に置いて、外出の時は持ち出したくらいなのだ。小さいに違いない。実際に見た時の印象は「かまぼこ板」、と書いている。
 そしてその掌中新辞典には「ロココという項目はなかった。
 太宰は、心の辞書を引いていたのだ、という結末。
 なあんだ、と思う人もいるだろう。が、もちろん、本をめぐる話は、その過程を楽しむべきなのだろう。
 とは言っても、もう一度、「日常の中のミステリー」を円紫師匠に解き明かしてほしい気持ちは、やっぱり残るのだけれど。  

Posted by mc1479 at 12:31Comments(0)TrackBack(0)
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