2015年04月21日

素晴らしき日曜日

 以下の文章では、映画『素晴らしき日曜日』の内容に触れています。ご了承ください。


 古い映画(これは1947年作)を見る面白さの一つに、今との違いを見る、ということがある。
 ここでは、ポスターや看板の横書きの文字に左から書かれたものと、右から書かれたものが混在している。また、男女の言葉遣いで「今は言わないな」と思ったものがあった。女性の「おあがんなさい」「~なっちまったわねぇ」、男性の「~なんだぜ」という言い方は、現在ではほぼ遣わないだろう。
 休日とはいえ、スーツにコート、女性もきっちりコートを着ているのも「カジュアルファッション」というものが存在しなかった頃を思わせる。もっともこの二人はお金がないのだから、くたびれてはいても仕事に行く時と同じような服装でデートするのも当然かもしれない(おっと、ここでは「デート」ではなく「ランデブー」という語が遣われていた)。
 そう、「お金のない二人」というのがポイント。正確に言うと、男が15円、女が20円持っている。二人合わせて35円で過ごそうというわけだ。
 どこへ行くか。まず行ったのは住宅展示場。この手は現在でも使えそうだ。そこで会った別の二人連れに聞いて、貸間を見に行くが、条件が悪くて断念。それから野球をしている子どもたちに男が入れてもらって打ったはいいが、饅頭屋に飛び込んで、当たって潰れたのを買わされる。男がこないだ会った元戦友がキャバレーをやっているんだと話し、女が見学させてもらってよ、と言うが、追い払われる。線路脇に座って女の作ってきたおにぎりを食べていると、浮浪児が現れる。女はおにぎりを一つやるが、暗い気持ちになる。気を取り直して動物園に行くと、キリン、猿、ラクダなどはいるが、ライオンの檻には代わりに豚が入っている。雨に降られ、雨宿りをした所で見つけたポスターに、ちょうど今から間に合う音楽会(シューベルトの『未完成』)がB席10円とあるのを見て、行列に並ぶが売り切れる。15円で売るダフ屋に男が喧嘩を売って殴られる。男は下宿に戻り、女もついてくる。男は女を抱きたいが、女はそれは……というやり取り。晴れてきて再び出かけ喫茶店に入るが、お金が足りなくて男はコートを置いてくる。
 長々と書いたが、少しウキウキした楽しい気分になると、それを打ち消されるような、上がり下がりが続くのだ。
 焼け跡で「二人でベーカリーをやろう」と夢を語った後、誰もいない屋外音楽堂で、男が指揮者の真似をするところがクライマックス。音楽会に行けなかったので、ここで『未完成』を聴かせる、というのだ。
「本当に聴こえるかな」「きっと聴こえるわ」というやり取りの後に、女がこちらに向かって「拍手を贈ってください」と呼びかけるのが面白い。そして、音楽が鳴り始める……
 アップダウンの繰り返しの後に、オーケストラのいない所に音楽が鳴り響く。それは映画でしかできないマジックだ。貧しい恋人たちを幸せにするためにこそ映画のマジックは使われるべきだ、と言いたいのかなと思った。  

Posted by mc1479 at 12:58Comments(0)TrackBack(0)

2015年04月17日

『マジック・イン・ムーンライト』感想

 以下の文章では、映画『マジック・イン・ムーンライト』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 可愛い話だ。ウディ・アレンの映画にしては、珍しく題名もロマンチック。もちろん、アレンは大ベテランだし、主演のコリン・ファースだってそうなのだが、軽くて楽しいコメディ。

 最近は「現代のニューヨーク」を舞台にすることにはこだわらなくなったアレン。今回の舞台は、1920年代の南フランス。上流の屋敷が舞台だから、男はジャケット、女はドレスかワンピース。画面はとても美しい。
 マジックには必ずタネがある、と超能力など信じない英国人マジシャンのスタンリー。「金持ちの夫人が霊能力者を名乗る女性に騙されているから、彼女がニセ者だと暴いてやってくれないか」という友人の依頼を受け、その屋敷に滞在することに。友人もマジシャンなのだが、「僕には見抜けなかった」と言うのだ。現れた霊能力者ソフィは魅力的な女性。しかもスタンリーのことを次々に言い当てる……
 ロマンティック・コメディの定番というか、彼女を怪しんでいたスタンリーは、どんどんソフィに惹かれていく。彼女には本当に超能力があるのか?
 アレン映画のほとんどがそうであるように、主人公の男性はどこかアレンに似ている。頭が良くて皮肉屋でよくしゃべる。教養のない人には、こうするといい、ああするといい、とあれこれ教えたがる。
 合理的には割り切れない何か――それが恋の魔法、ということになるのだろうけれど、それはいくら毒舌であってもスタンリー役コリン・ファースが魅力的で、ソフィを演じるエマ・ストーンも可愛いから成り立つこと。
 ちょっと『マイ・フェア・レディ』を思わせる要素も取り入れつつ、きれいにまとめている。「夢のような話」と言っても、たとえば『カイロの紫のバラ』に見られたような苦さはほとんどなく、だから可愛い話だと思ったのだ。
 コリン・ファースが50歳を過ぎてから、こんなロマンチックな役をやるとは思わなかった。もっとも、この内容なら、10年くらい前のヒュー・グラントにやってほしかったなぁと思わなくもないけれど。  

Posted by mc1479 at 13:30Comments(0)TrackBack(0)

2015年04月13日

『悲しみよこんにちは』

 以下の文章では、映画『悲しみよこんにちは』の内容・結末に触れています。ご了承ください。


 サガンの小説を読んだことはあるが、映画は見たことがなかった。NHKのBSで放映されたので、見た。
 今見ると、「きちんと作られた昔の映画」という感じがする。
 その「きちんと作られた」感を与えるのは、女優さんと演じるキャラに合わせてぴったりに作られたドレスだったり、寝起きでもきれいな女優さんだったり、要所に散りばめられたしゃれたセリフだったりするのだが。
 現在のパリの夜が白黒で、去年の夏のリビエラでの出来事がカラーで描かれる回想形式だということも、初めて知った。
 セシルを演じるジーン・セバーグの美しさにまず惹かれる。もちろん、セシルはただの美少女ではない。実の父と名前で呼び合い、父が恋愛を楽しんでいるうちはそれに賛成しているけれど、結婚(再婚)となると動揺し、ましてやその相手が自分にまで説教めいたことを言い始めると反発する。
 フランス映画では、実の娘が父に憧れるというパターンは見たことがある。すぐに思い浮かぶのは実際の父娘だったシャルロットとセルジュ・ゲンズブールだろう。ただ、『悲しみよこんにちは』は1958年作のアメリカ映画である。そういう時代のせいもあるのか、父娘の間にはそれほど危ない雰囲気は漂わせない。
 娘の反発は、むしろ、遊びも恋愛もギャンブルも「軽い」ものであるべきだと思っていた二人の世界に「結婚」というシリアスで重いものを持ち込もうとした父を懲らしめたい、というくらいの軽いものだったようにも見える。
 おそらく、ちょっとしたイタズラくらいの気持ちから引き起こされたことに、父の婚約者アンヌは、まともに反応する。
 アンヌが死んだ後、残された父娘はどうするのか。現在のパリの場面で見る限り、二人は相変わらず「軽い」生活を続けていくしかないように見える。そしてそれがこの映画の作り手が二人に与えた罰のようにも見える。
 ただし、その罰のような生活は、おそらく映画封切り当時の日本人には羨ましく見えるくらいのものだっただろう。今でもそうかもしれない。そのことが、この映画の印象を曖昧なものにしているようにも感じられる。  

Posted by mc1479 at 06:26Comments(0)TrackBack(0)
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