2016年01月24日

「動物園の王子」を読んで

 以下の文章では、小説「動物園の王子」(中沢けい)の内容に触れています。ご了承ください。

 五〇代らしい女性三人(かつての高校の演劇部仲間)が、唯一職業としての俳優になった先輩の舞台を久しぶりに三人で見に行った後、その先輩が急に亡くなったこともあって、何度か会うようになる。
 と言っても、三人が会って話している場面よりも、一人ひとりの生活ぶりを描く部分のほうが長い。
 読みやすい小説だが、言葉の使い方にはこだわっている。言葉によって彼女たちの世代が見えるようでもある。
 旦那に「センチになるな」と言われて、センチなんて単語を聞くのは久しぶりと思ったり。
 五〇代になってからの時間は「みんなで作ったお釣りの時間」「ひらひらしないともったいない」と言ったり。
 三人の女性は常にユキさん、サッチン、チョウ子さんと書かれ、フルネームはついにわからない。それはこの三人がいつまでもどこか演劇部三人娘だった頃から変わっていないことを示しているのかもしれない。
 子どもたち世代とは微妙に考えの表し方がズレる。自分の健康状態もそろそろ心配にもなってくる。そんな中でも「夏の日暮れみたいなもの」、まだまだこれから、という考え方を示しているのは気持ちがいい。  

Posted by mc1479 at 12:25Comments(0)TrackBack(0)

2016年01月24日

渋谷

 以下の文章では、映画「渋谷」の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 渋谷。
 そういう題名の映画だ。放映されるのを知って、見ようと思ったのは、監督の西谷真一が、ドラマ「あさが来た」のメイン演出家だから。もちろん、あのドラマとは全く違った映画だろうと知った上で、見た。
 フリーのカメラマン(ライターも兼ねているのか?)が雑誌の取材で、渋谷という町を象徴するような女の子を探し、写真を撮り、話を聞こうとする。駅前で気になった子がいて追うと、風俗店に入っていった。カメラマンは客として彼女に話を聞こうとするが、一度目は失敗。二度目は自分の身の上話をまずすることで、彼女からの話も聞けた……
 実際には、もう少し別の出会いもあるのだが、メインの彼女の話に限れば、彼女は家に帰る決心をする。そういう救いのあるところが「あさが来た」に似ていなくもない。
 ただし、渋谷の町を感覚的に切り取ろうとするかのようなカメラの動き方は、朝ドラのセットの中での安定した画面とは全く異なるものだ。そして実は、家に帰る決意をした女の子よりも、途中でカメラマンが出会う「青森から出て来て帰りたくなくて毎晩泊めてくれる人を探している女の子」のような危うい存在の方が多くいるのではないかという気もする。
 私にとっては何度も見返したいような映画ではなかったが、これを見ると逆に朝ドラというのが、いかに計算されたセtリフとカメラアングルによって作られているのかがよくわかった。  

Posted by mc1479 at 12:14Comments(0)TrackBack(0)

2016年01月06日

坊っちゃん(テレビドラマ)

 以下の文章では、2016年1月3日に放映されたドラマ「坊っちゃん」の内容に触れています。ご了承ください。


 配役を聞いた時、この人が坊ちゃんを演じるのか、と思った。坊ちゃんと言うと単純明快なイメージがあるが、この人にはもう少し影のある印象があったので。

 赤シャツ、野だいこはぴったり。山嵐、うらなりはそう来たか、という感じ。特に赤シャツの及川光博は上手だと思う。この作品のユーモアはほぼ彼に拠っている。

 「坊っちゃん」の物語を現代の視聴者に見せる時に、脚本家が一番考えるのは教頭である赤シャツを殴るという坊っちゃんの行為をどう見せるか、マドンナをどう扱うか、ということではないだろうか。
 原作では会話の中にしか出てこないマドンナ。しかし、画面を華やかにするために登場させたい。となると、箱入り娘では困るわけだ。今回のドラマでは、マドンナはカフェで働いている。だからこそ、憧れの美女であり、話しかけることもできるし、マドンナ自身がそうしたいと思えば、うらなり君と会うこともできる。
 そして、坊っちゃんが赤シャツを殴るのは、芸者といる彼を待ち構えて殴るのではなく、あくまでも教育上で、学校の対面だけを保とうとする彼に反発するという形になっている。そして、生徒たちも、それに共感する。
 
 脚本の橋部敦子は、時に細かいところにこだわりを見せる人だが、ここでは赤シャツが気に入って学校の廊下に掛けている西洋絵画の額をしょっちゅう坊っちゃんが傾け、赤シャツがそれを戻す、という繰り返しを描いている。絵には、やや抽象化された樹木のようなものが斜めに描かれており、つまり樹木を真っ直ぐにしようとすると絵の額を斜めにするしかない。
 赤シャツは外枠をまっすぐにし、坊っちゃんは中(にあるもの)をまっすぐにしようとするわけだ。
 しかし、坊っちゃんが額を傾け、赤シャツがそれを直し、また坊っちゃんが……という繰り返しを見ていると、坊ちゃんにもやや神経質なこだわりがあるようにも見えてくる。
 
 冒頭に近いシーンで、坊っちゃんが(自分の卒業した学校の)校長から「教師にならないか」と勧められるところがある。向かい合った二人を真横からとらえるカメラが、すーっと右に左に行き来する。こういう映像、たしかテレビドラマ「鹿男あをによし」の同じような場面(主人公が、教員になって奈良に赴任するように勧められる)でも使われていた。今回の「坊っちゃん」と「鹿男あをによし」の監督は同じ、鈴木雅之なのだ。
 そう思って見てみると、今回の坊っちゃんが少し神経質そうに見えるのも、すでに鹿男というフィルターを通ってきた坊っちゃんだからなのかな、という気もする。
 もちろん万城目学の小説「鹿男あをによし」の話の大枠は「坊っちゃん」をなぞっていて、読む側もドラマを見る側もそれを知って楽しんでいた人も多かったと思う。そして今回は既に「鹿男」を見てきた目で見る、「今」の坊っちゃんというわけだ。

 そう思えば、それほど単純明快でもなさそうな、豪胆なだけでもなさそうな坊っちゃんにも納得がいく。
 なお、下宿のおばさんが「鹿男」の下宿のおばさんと同じ鷲尾真知子によって演じられており、同じ下宿の住人として作家志望の男を又吉直樹が演じているという遊びもある。  

Posted by mc1479 at 09:17Comments(0)TrackBack(0)
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