2013年04月29日

月曜日のユカ

 この文章では『月曜日のユカ』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 今、『月曜日のユカ』(1964年、中平康監督)が語られるとしたら、加賀まり子の代表作として、だろうか。確かにこの映画の彼女=ユカはかわいい。
「男を喜ばせること」に熱心な女の子。彼女を囲っているパパがいて(パパには無論、通常の妻子がいる。古い言い方をすれば、ユカはおめかけさん)、若い恋人もいる。若い恋人のほうは本気でユカに求婚するのだが、ユカはそうなると二人で住むためにお金がいるわね、などと考える。
 舞台は横浜。パパは、そこに出入りする外国船と取引をしていて、ユカに手伝ってくれ(要するに船長と寝てくれ)と頼む。ユカは引き受けるが、船長がユカの意に反して唇にキスしたため、すっかり落ち込む。その気分を直すかのようにパパをダンスに誘い、誤って海に落ちたパパを見捨てて、ユカは去る。

 ユカは天然ちゃんなのか、常識はずれなのか、よくわからない。パパが実際の娘に人形を買ってやって嬉しそうな顔をしているのを見て、自分も人形を買ってもらい、パパに喜んでもらおうとする。「それは実の娘に買ってやるから嬉しいんだよ」と若い恋人に言われても、ユカにはピンときていないようだ。パパと会う時の自分の立場を把握していない面もあるのだが、それが計算ずくに見えないところが、男から見るとカワイイのかもしれない。
 
 娼婦(娼婦と名乗っていなくても、やっていることは娼婦だろう)なのに、妙なこだわりがある。人の気持ちを察する能力には少々欠けるようだが、身体の魅力がそれを上回る。 娼婦に対する憧れ、みたいなものが男に、というか映画の作り手の多くにはあると思う。実際そんな人はいるのかい、と突っ込みたくなるような聖なる娼婦、というやつ。娼婦だけど心はキレイ、というわけだ。ユカもそうなのだろう。
 女優としては、そういう役を演じるのはどうなのか。
 多少現実離れした衣装も化粧も、娼婦ならOKになるだろう。そうすると外見をゴージャスに見せて、しかも心はきれいな女、を演じるとなれば女優にとっては楽しいことかもしれない。しかもこの話では、ユカは最後に意外な形でパパからの自立(?)を示して見せるのだから。
 でも実際的に考えてみれば、パパを失ったユカに、いい未来が待っているとは思えない。生活をしてゆくお金は? 住むところは? 
 だから『月曜日のユカ』は私には奇妙な夢物語に映る。こんな女がいてほしい、という男の夢と、思い切った行動によって男から自立したつもりのカン違い女の夢。しかもその夢は今も絶えず繰り返されているような気がする(たとえば『蛇にピアス』は『月曜日のユカ』から、そんな遠いところにある話だとは、私には思えない)。

   

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2013年04月25日

テルマエ・ロマエ

 これも映画館では見なかったので、TV放映されたので、見た。昨年のGWは映画館で映画を見なかったな、と思い起こす。『テルマエ・ロマエ』はもし自分が家族連れで(子供を含む)見るという仮定なら見るような映画だ。
 武内英樹監督作というと『のだめカンタービレ』が強烈なので、どうしてもそれとの関連を考えてしまう。『のだめカンタービレ』に始まった「日本映画のハリウッド化」は『テルマエ・ロマエ』で完成したんだな、という気がした。どういうことかというと、昔のハリウッド映画は舞台が中国だろうとインドだろうと、ハリウッド俳優がインド人や中国人を演じていた。そして英語をしゃべっていた。『テルマエ・ロマエ』を見ると、それを思い出す。

『のだめカンタービレ』のスペシャルドラマがヨーロッパで撮影された時、言葉の問題、つまりそこで話されるセリフは何語にするか、に関しては悩んだ末に「みんな日本語」になったと聞く。正解だと思う。テレビドラマで字幕ばかりだったら、チャンネルを替えられる。それで『のだめカンタービレ』はマングースに「ここからは日本語でお送りします」というような解説を言わせて、日本語にした。映画版『のだめ』でもそれを受け継いで、出てくる人はフランス人だろうがロシア人だろうが、セリフはみんな日本語。

『テルマエ・ロマエ』ではさらに進んで、ヒロインが古代ローマに行って二言三言はラテン語をしゃべるが、その後自然に日本語の会話に切り替わる。もはやマングースによる「お断り」は、ない。さらに、ローマ人を演じているのも日本人俳優である。『のだめカンタービレ』では外国人の役は外国人が演じていたが、主役は日本人だった。『テルマエ・ロマエ』のように主役が外国人となると、候補を探すのが大変という理由もあるだろう。じゃあローマ人も日本人が演じればいい! まさに昔のハリウッド映画と同じだ。それをやってしまったのは、なかなかすごい。

 作品内容的にも『のだめカンタービレ』との共通点は見てとれる。『のだめ』では音楽こそがもっとも大切で、恋もいさかいも、それにからんで動く。『テルマエ・ロマエ』では風呂こそが最上の文化で、歴史も命もそれに関わる。クラシックファンでなくても『のだめ』が楽しめ、古代ローマの歴史に詳しくなくても『テルマエ・ロマエ』が楽しめる点も似ている。人間として共感でき、笑わせておいて、せつなくさせる。

 そうやって見てくると『女信長』は武内作品としては、どう位置づけられるのだろう? 
 気持ちよく見られる作品というのは、主人公が基本的には善人で品があって、共感できる人であると私は思う(もちろん、そうでなくても好きな作品はあるが)。『女信長』の主人公はそういう要素に欠ける。
 私は武内演出のTVドラマをずっと見てきたわけではないし、今後どうなっていくかの予想もできない。が、できれば、殺人もセックスも描かなくても面白い作品が作れる、という才能を生かしていってほしいと思う。  

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2013年04月21日

日本の夜と霧

『日本の夜と霧』(1960年、大島渚監督)も私にとっては「題名を聞いたことあるが、見たことのない映画」の一つだった。しかも内容について、というより公開4日目で上映打ち切りになった、という話題のほうを多く聞いていた。
 
 安保闘争を通じて知り合った野沢と玲子の結婚式に乗り込んできた男たちが、消息を絶った、あるいは自殺したもと仲間たちのことを語り始める…
 結婚式で、新郎・新婦を含めた登場人物の過去を暴き合うのは確かに異様な事態かもしれない。現実には、1960年にだって、そうそう起こることではなかっただろう。
 それなら、これをひとつの仕掛けと見れば? 各人の過去にさかのぼるための装置と考えれば、面白い。
 批判し、決め付け合うようなやり取りは、日常生活を描いたドラマではなかなか見られないもので迫力がある。しかもこの映画は1シーンが長い。セリフを噛んで言い直しても、そのままシーンは続いていく。そのことが奇妙なリアリティを生む。私たちは常にそんなにスムーズに話しているわけではないのだから。
 
 この映画で主張する人々は、ごく限られた世代の人々だ。激しい闘争の経験がある野沢と、話し合いによる平和的実現を目指す玲子は違う世代に属しており、玲子たち(この中では若い世代)の主張は描かれない。
 闘争が良かった、という懐古ではない。自分たちの活動は何だったんだ、という疑念が色濃く、それはうんと抽象拡大化すれば、どんな人にも身に覚えがある、と言って言いすぎなら少なくとも「わかる」感覚だろう。自殺した高尾は「いったい俺という人間は今まで何をしてきたんだ、これから何をしようというんだ」と呟くが、そういう思いなら、思想に関係なく「わかる」と感じる人は多いのではないだろうか。

 今の目から見れば、女性の描き方のほうが気になる。「君にも人格があったのか」と揶揄されるのが、女性の中で一番出演場面の多い美佐子。
 男たちが見張りをやれば美佐子はおにぎりを届け、男たちのひとりは美佐子と肉体関係を持つと、自分の言うことを聞かせようとする。もちろんそれは「男たちはしょせんこの程度だった」という皮肉なのかもしれないが…
 議論の末にとりあえずまとめ上げて前向きにいきましょうよ、とならないところが映画としてはいいと思う。皆で協力して、少しでも良くしていきましょうよ、というのに私たちは慣れてきている。もちろん、それは間違いではない。でもたまにはこういう、殺し合いでも破壊でもないけれど絶対にまとまらない結末をぽんと見せられると、一種の力強さを感じる。  

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2013年04月13日

ホテル マジェスティック 感想④

今回で『ホテル マジェスティック』の感想は最後の予定です。

『ホテル マジェスティック』を見て「巧い」とか時には「ベタだ」と思いながらも毎回私は心を揺さぶられていた。それはなぜだろうと考えると、この劇が表面上は楽しい笑いを見せたりしながらも、喪失感を濃く漂わせているからではないかと思う。
 時のうつろいと共に何かを失っていく感じ。それは多くの人にとって身に覚えのあるものだからこそ、心を揺さぶられるのではないだろうか。
 
 物語が進むにつれて「喪失感」をはっきりと感じさせるのは湯川と平良だろう。愛する人を日本に残し、グリーンカードを取得するためにベトナムに来た湯川。戦争が泥沼化し、グリーンカードはいつになったらもらえるかわからない。待たせてきた恋人は、とうとう別の人と結婚してしまう。
「ベトナムに平和を!」と叫び、ジャーナリストが正しい報道をすればそれが実現すると思っていたのに、事態は悪くなる一方で、理想を、というより理想に至る道を見失っていく平良。
 この二人が擬装とはいえ婚約に至るのは驚きの展開だったが、もしかすると二人はその喪失感の深さゆえに共鳴できるところがあったのかもしれない、と解釈すると、納得できるような気もする。

 劇を見ている観客が最大の喪失感を味わうのは、もちろん澤田が死んでしまう場面だろう。澤田自身も喪失感を抱えていた。澤田が失ったもの=それは、単純に写真を撮ることの喜び。少なくとも劇の冒頭では、無邪気に春の景色を撮る澤田はそれを持っていた。しかしベトナムへ来て、戦争を伝え、戦争を終わらせるため写真を撮るようになった澤田には、もうそんな単純な喜びはない。立派な賞をいただいてからは、なおさらだ。澤田の「日本には戦争がありません。僕は何が撮れるのでしょう」というつぶやきは、彼のそういう喪失感を表した言葉だった。
 しかし澤田は少なくとも戦争以外のものを撮ること、単純に撮りたいものを撮る喜びを取り戻そうとしていたはずだ。ラストのモノローグで言うように、日本へ帰って幸せな家族の笑顔を撮りたいと願っていたはずだ。そのように考えていた矢先に彼の命が奪われることで、見ている側の喪失感はいっそう深くなる。彼は、取り戻そうとしていたものを二度と取り戻すことができなかったのだと思い、その悲痛さがしみる。澤田が語る澤田の父もまた、戦争に行って失った何かを取り戻せなかった人だった。そして、澤田も、単純な「撮る喜び」を取り戻せないまま、死んだ。

 だから最後のモノローグで澤田が語りかける時、語りかけられる側(つまり観客)は、彼が果たせなかったものを託されたように感じる。何かを失ったまま亡くなった人たちに代わって、その喪失を埋めてあげたいと思う。
 そういう点において、やっぱりこの劇は巧いのだ。誰もが何か失ったものを思いつつ、今生きている自分にはまだ何か取り戻せるものがあるはずだ、あるいは失わないように守れるものがあるはずだ、という気にさせるところが。  

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2013年04月07日

ホテル マジェスティック 感想③

これが玉木宏 初舞台・初主演として良くできていると思う要素。

1 成長・変化する役である。
 役者なら誰だってそれは得意でしょう、と言われるかもしれない。
 が、玉木宏は成長して変化した姿をそれこそ劇的に、見える形で示してくれる。
 とりわけそれがよくわかるのは、第1幕。1場は、カメラ好きの素朴な青年。 2場になるとサイゴンへやってきたものの右も左もわからぬ新人カメラマン。3場でジャングルへ。ここでカメラマン澤田教一は自分の人生を決定づけてしまうことにもなる写真を撮る。そしてその後になる4場では登場した瞬間に既にベテランカメラマンの雰囲気。サングラスをかけて「戻りました」とホテルのロビーに入ってくる姿は、サイゴンへ来た時にびくびくしていた青年とは別人のよう。そういう変化を見られるという点で、まずおいしい。

2 苦悩する姿が見られる。
 自分が好きな俳優が苦悩する姿を見るのが好きな人は多いのではないだろうか。単純に言えばそれは見せ場だから。苦悩する姿に見る側は惹きつけられる。感情移入しやすい場面でもあり、見ている側にはその激しさに支配されたいいう思いもある。あるいは見ながら「気の毒に、でもその悩む姿がセクシー」と感じていたりする。
『ホテル マジェスティック』における澤田は第1幕では肉体的に苦しみ(緊張のあまり、胃痙攣を起こす)第2幕では、精神的な苦悩を口にする。自分がカメラをスコップで戦っている、と言う場面である。
 その苦悩の表現、声、涙に見る側は激しく惹きつけられる。

3 死ぬ。
 悲劇が人を惹きつけるのは、日常生活ではあり得ない死に方が存在するからではないだろうか。理想のためや愛のために死ぬなんて日々の生活では、まずない。
 実在の澤田の死とは違って、ここでの澤田は平和を希求する象徴のような死を遂げる。演技とわかっていてもそれはショッキングなものだ。おまけにその直前に、客席に降りてきた澤田は通路を走る。そういうことがあるのはこの場面だけで、躍動する身体を見せられた直後に、それが動かなくなるからこそショックも大きい。

4 モノローグ
 10分近い、モノローグ。これを任せたのはすごいと思うと同時に、たぶんこれがあるからこそ、玉木目当てで見に来た観客は満足できるのだと確信する。
 言っていることは素朴なのだが、それゆえに最大多数の心に響く。
 そういう場面をつくり出したのは巧い。
 そのモノローグの余韻を残したまま、観客は劇場を後にすることが出来る。  

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2013年04月05日

ホテル マジェスティック 感想②

さて、私の興味だった2点についても、書かなくては。

1 なぜ澤田教一は命がけでベトナムにこだわり続けたか。

 ベトナムの写真を撮り始めてから、しばらくして(いつ、と明確に示されているわけではない)「写真で戦争を伝えなくては」「写真で戦争を終わらせるんだ」という自覚を持つようになったから。

 口にすると「キレイごと」になりそうな理由である。
 この劇では「ベトナムにいつまでたっても平和が来ない。世の中を変えるには武力しかないの?」という平良への反論として登場する。女性カメラマンの平良は、その頃の良識ある人々の考えを体現しているような人物で、その分ひとりの女性としてのリアルさにやや欠ける。それに対して実際の戦場での体験を交えながら語る澤田。その迫力によって納得させている感がある。
 澤田には「戦争から帰ってきたら飲んだくれになった父親」への反発や「日本へ帰ったら何が撮れるのか」という悩みもあるというふうにセリフからは察せられる。、もしかしたら戦争に惹かれ、その写真で得られる大金にこだわっていたかもしれない澤田は、ここでの反論によって「正義の」ジャーナリストたり得ている、とも言える。
 実際は、べトナムにこだわり続けることにはもっと複雑な背景があっただろうと反論されそうでもあるが、その場の迫力によって観客はこの「正しい理由」を受け入れる。

2 サタ夫人との関係

 これはもう、サタさんの澤田教一への愛のかたちが、好きな男のすることなら、「全肯定」なのだった。
 これも舞台ならではの納得のさせ方だと思う。冒頭の場面で「カメラでサタさんを幸せにする」と言い切る澤田の姿があまりにも愛らしいので、サタさん同様、見ている側も「この男がベトナムに居たいって言うのなら仕方ないか」と思ってしまうのだ。言葉で説明するよりも、二人の「離れ難さ」「一心同体ぶり」を見せられてしまう。

 理屈で説明されたら「本当にそうなの?」と思いそうなことも、実際に「見せる」ことによって納得させてしまう。舞台ならではの方法だと思った。
   

Posted by mc1479 at 13:00Comments(0)TrackBack(0)

2013年04月04日

ホテル マジェスティック 感想①

以下の文章では、舞台『ホテル マジェスティック』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 不満は、あると言えば、ある。
 泥沼化する戦争、より刺激的なものを求める読者、戦争中毒…それらはセリフの中で語られることはあっても、それらを追究することなく終わっている。
 自分の抱える矛盾を戦場カメラマンである澤田教一が感じていたことは、日本へ帰ろうというサタに対するセリフ、「僕は怖いです。日本には戦争がありません。僕に何が撮れるのでしょうか?」から察せられるが、結局それが澤田の中でどう処理されたかは明確にはされない。
 ただ、ベトコンに捕まった澤田が帰ってくるエピソードの次にホテルを去る日の場面が来ることから、澤田自身が自分の(それにもちろんサタ夫人の)安全を考えて日本へ帰ることを納得したのかと受け取れる。
 
 ここでは、戦争というシステムの解明はされない。
 澤田が最後のモノローグで素朴に語るように
「戦争は、人格ば変えるんです」
「戦争は、人殺しのゲーム」というのが、ここでの「戦争」の核となるイメージなのだろう。戦争で金儲けする人がいるとか、戦争を望む人がいるのは許しがたいという角度から見るのではなく、戦争は「人」を壊してしまうというその一点において、もっとも憎むべき悪なのだ。それは、大多数の人にとって共感しやすい考えだろう。
 そういう点において、『ホテル マジェスティック』は多くの人の心を揺さぶるようにできている。巧いと思う。
 もっと巧いと思うのは、「玉木宏を見せる」という点において、なのだが。  

Posted by mc1479 at 13:32Comments(0)TrackBack(0)
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