2013年05月26日

映画『モネ・ゲーム』を見て

 1966年の映画『泥棒貴族』のリメイクだそうだが、そちらを見ていないので、普通の新作映画として楽しんだ。と言っても、マイケル・ホフマン監督作品は、いつもどこか古典的な感じがする。奇をてらわない演出が、そういう感じを与えるのだろうか。
 
 美術鑑定士ハリー役はコリン・ファース。ファースには、あまり喜怒哀楽を表に出さないイメージがある。もちろん彼だって大口を開けて笑ったり、怒鳴ったりする役も演じてきたはずなのだが、感情を抑制する英国紳士のイメージがあって、それが今回のような役にはハマっている。
 たとえば彼がズボンなしでホテル内をうろうろすることになるくだりは、もっといくらでも大げさな表情や動作で笑いをとろうとすることはできただろうけれど、そうはしないところがファースであり、ホフマン演出なのだ。
 そしてラストまで来ると「あ、そういうことだったの」とわかるわけだが、その時になって、ファースのはっきりとは読みにくい表情が実に効果的だったのだな、と気づく。

 もうひとつ、この映画には日本人が登場するのだが、それがバカにされた描き方をされていないことには好感が持てた。西洋の映画に登場する日本人は、何か勘違いしているイタイ人、というのが多いような気がするが、ここではニコニコして日本人同士で揃って行動するとか、一見典型的(?)な日本人の描き方なのかと思って見ていると、それだけでないことがわかってちょっとニヤリとする。そういう楽しみもある映画。
 ファースのことばかりに触れてしまったが、もちろんキャメロン・ディアスもアラン・リックマンも楽しい。
 原題はGambit. 最初の計画、チェスの捨て駒、という意味があるそうで、ラストまで見るとその題名になるほど、と思う。  

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2013年05月23日

マダムと女房

 NHKのBSで放映されたものを見た。80年以上前の映画。タイトルを見て「あ、横書きでも右から書くんだ」と思うが慣れないので読みにくい。解説では日本初のトーキー映画ということが強調されていた。画面外から聞こえるチンドン屋の音、映像の中のめざまし時計や足踏みミシン。そういった日常的な音を聞かせる一方で、中盤では楽器演奏や歌もちゃんと入っている。「トーキー」を十分意識しているといえるだろう。
「トーキー映画」としての興味はそれくらいにして、タイトルにこだわってみたい。「と」という助詞でつながれているからには、「マダム」と「女房」は別のものなのだろう。主人公の男は脚本家。引っ越してきたら隣の家の音楽がうるさい。「そのジャズ演奏を止めてくれないか」と言いに行ったはずが歓待され、お酒で気持ちよくなり、戻ってくると執筆がはかどる。

 主人公の男には名前があるが、キャスト表では女たちは「その女房」「隣のマダム」で、名前を持たない(ちなみに男の娘には「テル子」と名前がついている)。
 もっと興味深いのは「女房」と「マダム」の違いだろう。
 女房は、夫が隣から戻った時にヤキモチを焼く。
「あのモダンガールと仲良く遊んでもらったの?」
「馬鹿、隣のマダムじゃないか」
「近頃のマダムなんて危ないわ」
「マダムで悪けりゃ隣の女房だ。洋服を着ていただけだよ」
「それに近頃のエロでしょ。エロ100パーセントでしょ」
 男は「洋服を着ていただけ」と言うが、実はこの違いが大きいらしい。日本髪で着物姿の女房は夫や子供の面倒を見、かわいらしくヤキモチを焼き、「あなた、私にも洋服買ってちょうだい」と言うが、しばらくたってからの一家で散歩しているラストシーンでも、女房は着物を着ている。
 マダムと違って女房は決して洋服を着ないのだ。一方、酒を飲んで歌うマダムは、男を楽しませ、仕事をはかどらせてくれる。

 映画の中ではそこまではっきりとは言っていないが、男にとってこういう2種類の女がいてこそ、仕事もでき、生活もしていけるのだと言いたいのなら、その主張は以降何十年にもわたって、男の勝手な言い訳として続いてきたような気がする。  

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2013年05月21日

DVD『平清盛 総集編』

『平清盛 総集編』はテレビ放映された時に見たし、DVDを買ったのは特典映像のインタビューやオールアップ集が目当てなのだけれど、毎週放映されていた大河ドラマとは別の作品として、この総集編も気に入っている。
 もちろん50回のドラマを3回にまとめるのだから消えてしまった役もあり、少し出てきただけでその後どうなったかわからない人物も増えた。しかし、清盛を中心にまとめるという方針なので、わかりやすい。
 清盛を中心にしてまとめる、ということは武士たちを中心にしてまとめる、ということだ。保元の乱に至るまでにかなり描かれた貴族たちの争いは簡単に済まされる。朝廷の登場人物にも個性の強いキャラクターはたくさんいたから、そのファンにとっては総集編は物足りないだろうが、源平の対立ははっきり浮かび上がる。

 これだけ短くなると、清盛が忠盛の実子ではないのに平氏を背負っていくことについてあれこれ悩んでいたことはすっ飛ばされる。連続ドラマでは清盛は延々と「自分は何者なのか・何をすべきなのか」について悩んでいて私はそれに共感しにくかった。生きることさえ大変だった時代、忠盛の息子として育てられたのなら生きていることに感謝して、さっさとのし上がることを考えればいいではないか。そういう人物の方が面白いのに、と思っていた。とりあえず総集編だとあまり長いこと悩んでいないので見やすい。
 また、人の死んでいく場面が直接描かれるのが減ったのも私には見やすくなった理由だ。長い時間の流れを描くのだから多くの人が死んでいくのは当然なのだが、毎回のように誰かの死の場面を見せられ嘆きを見続けるのは大変だ。総集編くらいにカットすると、実際の死の場面が映し出されるのは合わせて数名になり、このほうが見ていて気分的に楽でもある。
 そして、バランス。総集編は「第一部 武士の世」「第二部 保元・平治の乱」「第三部 海の都」という構成になっている。おおざっぱに言って第一部が連続ドラマの第1回~第16回、第二部が第17回~第28回、大三部が第29回~第50回に当たる。つまり第29回~第50回はずいぶんコンパクトにまとめられてしまったわけだ。でもこれで正解だと思う。連続ドラマ時には伊豆へ流された源頼朝が再び立ち上がるまでが長くてイライラした。それがスピーディになった。

 だいたい源氏との戦いに勝った平氏がのし上がっていく場面はあまり心地よいものではない。それは財力もあり人員にも恵まれている平氏が勝つのは当然ではないかと思ってしまうから。それゆえのし上がったかと思ったら滅びていくという過程がスピーディに展開される方が私には好みなのだ。

 さらに、総集編ならではの良さはナレーションが井上あさひアナウンサーであること。聞きやすい。連続ドラマ時は源頼朝役の岡田将生だったわけだが、どうも力の入り過ぎたようなところがあって好きにはなれなかった(彼のナレーションは映画の『アントキノイノチ』や『ボクの初恋を君に捧ぐ』の時のほうが上手だったと思う)。
 さらに作り手側も力を注いだであろう清盛・義朝の一騎打ちシーンに連続ドラマ時とは別アングルから撮った映像が入っているのもオタク心を刺激する(いっそのことマルチアングル仕様にしてくれればもっと良かったのに)。
 もちろん連続時の方が良かったと思うこともある(音楽の使い方など)。しかしコンパクトにまとまった源平3代記としてこれはこれで面白い。  

Posted by mc1479 at 15:07Comments(0)TrackBack(0)

2013年05月10日

シンベリン

 シェイクスピアの劇には、タイトルロールが主役の場合と、そんなに出てこない場合があって『シンベリン』は後者。ブリテン王シンベリン(吉田鋼太郎)より、その娘つまり姫であるイモジェン(大竹しのぶ)、そしてイモジェンと結婚するが追放されてしまうポステュマス(阿部寛)のほうが出番が多い。私は舞台で見たわけではなく、NHK(BS)で放映されたのを見たのだが、その前解説では、主役はポステュマスということになっていた。
 しかしたとえば、この劇に出ている誰かのファンだとしたら、誰のファンであったとしても「もっと多く出てきてほしい」と思うような劇だ。誰も出ずっぱりではない。もし、王妃を演じた鳳蘭のファンだったら、あれほど華々しく悪い王妃の雰囲気を振りまいておきながら、あんなにあっさり消えてしまうなんて(その死の場面は登場せず、セリフで報告されるだけだ)あんまりだ、と思うのではないだろうか。

 上演されることの少ない、失敗作とさえ言われるこれをどう見せるか。とりあえず、ヨーロッパを相手にするには(これはイギリスでも上演された)日本的な小道具というのは今も有効なのだろう。ローマの場面では、男たちがキモノを着て談笑していた。
 そして、現代を象徴するようなものも出すといい。ラストシーンは、福島ですっかり有名になったあの一本松そっくりの木の前で演じられる。劇の上では、ブリテンとローマの戦いの後である。あの松を出すことによって悲惨さ(多くのものが失われたこと)を示したいのか、まだ悲惨さは終わっていないことを示したいのか?

 内容としては、他のシェイクスピア作品にも登場する要素がここにも多く登場する。女性の貞淑さを試す男たち(奥さんは裏切ったとだます男と、だまされる男)、亡くしたと思っていた子どもとめぐり合う父、死んだようになる薬、男装するヒロイン…いろいろあるが、しかしどれも中心ではない感じがする。
 たとえば『十二夜』では、男装したヒロインが女性に愛されてしまうという混乱があったけれど、そういう面白さはない。
 イモジェンは俺がいただいた、と嘘をつくヤーキモー(窪塚洋介)も『オセロ』のイヤーゴーほどの悪党ではないし、戦いに身を投じるポステュマスも心理は説明されているのだが、スカっと強いヒーローにはなってくれない。

 何が中心かわからない。いや、これは何も中心とせずに作られている劇なのか。それなら、そのままに特に何を中心に置くこともなく、見せようと意図したのだろうか。
 演出家のインタビュー等は読んでいないから、そんな意図があったのかどうかは知らない。しかしハッピーエンディングのはずなのに何か空虚感の漂うラストなのは、一本松のせいだけではないような気がする。  

Posted by mc1479 at 18:59Comments(0)TrackBack(0)
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