2013年05月10日

シンベリン

 シェイクスピアの劇には、タイトルロールが主役の場合と、そんなに出てこない場合があって『シンベリン』は後者。ブリテン王シンベリン(吉田鋼太郎)より、その娘つまり姫であるイモジェン(大竹しのぶ)、そしてイモジェンと結婚するが追放されてしまうポステュマス(阿部寛)のほうが出番が多い。私は舞台で見たわけではなく、NHK(BS)で放映されたのを見たのだが、その前解説では、主役はポステュマスということになっていた。
 しかしたとえば、この劇に出ている誰かのファンだとしたら、誰のファンであったとしても「もっと多く出てきてほしい」と思うような劇だ。誰も出ずっぱりではない。もし、王妃を演じた鳳蘭のファンだったら、あれほど華々しく悪い王妃の雰囲気を振りまいておきながら、あんなにあっさり消えてしまうなんて(その死の場面は登場せず、セリフで報告されるだけだ)あんまりだ、と思うのではないだろうか。

 上演されることの少ない、失敗作とさえ言われるこれをどう見せるか。とりあえず、ヨーロッパを相手にするには(これはイギリスでも上演された)日本的な小道具というのは今も有効なのだろう。ローマの場面では、男たちがキモノを着て談笑していた。
 そして、現代を象徴するようなものも出すといい。ラストシーンは、福島ですっかり有名になったあの一本松そっくりの木の前で演じられる。劇の上では、ブリテンとローマの戦いの後である。あの松を出すことによって悲惨さ(多くのものが失われたこと)を示したいのか、まだ悲惨さは終わっていないことを示したいのか?

 内容としては、他のシェイクスピア作品にも登場する要素がここにも多く登場する。女性の貞淑さを試す男たち(奥さんは裏切ったとだます男と、だまされる男)、亡くしたと思っていた子どもとめぐり合う父、死んだようになる薬、男装するヒロイン…いろいろあるが、しかしどれも中心ではない感じがする。
 たとえば『十二夜』では、男装したヒロインが女性に愛されてしまうという混乱があったけれど、そういう面白さはない。
 イモジェンは俺がいただいた、と嘘をつくヤーキモー(窪塚洋介)も『オセロ』のイヤーゴーほどの悪党ではないし、戦いに身を投じるポステュマスも心理は説明されているのだが、スカっと強いヒーローにはなってくれない。

 何が中心かわからない。いや、これは何も中心とせずに作られている劇なのか。それなら、そのままに特に何を中心に置くこともなく、見せようと意図したのだろうか。
 演出家のインタビュー等は読んでいないから、そんな意図があったのかどうかは知らない。しかしハッピーエンディングのはずなのに何か空虚感の漂うラストなのは、一本松のせいだけではないような気がする。  

Posted by mc1479 at 18:59Comments(0)TrackBack(0)
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