2016年03月25日
「リリーのすべて」
以下の文章では、」映画「リリーのすべて」の内容(ほぼ結末も)に触れています。ご了承ください。
実在した人物だという。世界で初めて「男性から女性になる手術」を受けた人物の話。
難しい題材だ。興味本位では描けないし、勇気を賞賛するだけでは足りない。この映画はあくまでも主人公とその妻の心情により添っていくことで、こういう人生もある、と伝えようとしている。
1920年代。デンマークの風景画家アイナー・ヴェイナーは、そこそこ認められた画家。妻のゲルダは肖像画を描く。モデルが来なくて困った時に、ゲルダはアイナーに代わりを頼む。ストッキングを履き、ドレスを身に当てたと時、アイナーは自分の中に女性が居ることに気づく。
それ以来、女の服をまとったリリーになる時と、アイナーである時が混じるようになるが、やがてリリーこそが本来の自分の姿だと思うようになる。
交際し、結婚したのはゲルダのほうが積極的だったらしい。とはいえ、二人は傍目には熱愛中の夫婦だったのだ。
ゲルダの苦悩は、どれほどだったろう。
アイナーに女装をさせたのはゲルダなのだ。そのことで、彼の中の「リリー」を目覚めさせたことを、後悔したに違いない。精神的な治療も役に立たないと知ると、本来の自分つまり女性の身体になる手術を受ける決意をする夫。その夫を受け入れる妻。妻を慰めるのは、夫の幼い頃の親友だったという男。
この三人、もっとドロドロした関係になりそうなところを、こうなってしまったことを受け入れるのが愛、というようなスタンスで描いていく。
もちろん、世間には、アイナー=リリーのような人を異常と見なす人もいて、そのことも描かれる。女性の身体を得るために命まで賭ける必要があるのか、というのも部外者の感想だろう。リリーにとっては、それこそが人生だったのだから。
どうしても妻目線になってしまうので、つらい感じがするが、ゲルダがそれを受け入れていることで、筋の通った、りんとした人生に見えてくる。
実在した人物だという。世界で初めて「男性から女性になる手術」を受けた人物の話。
難しい題材だ。興味本位では描けないし、勇気を賞賛するだけでは足りない。この映画はあくまでも主人公とその妻の心情により添っていくことで、こういう人生もある、と伝えようとしている。
1920年代。デンマークの風景画家アイナー・ヴェイナーは、そこそこ認められた画家。妻のゲルダは肖像画を描く。モデルが来なくて困った時に、ゲルダはアイナーに代わりを頼む。ストッキングを履き、ドレスを身に当てたと時、アイナーは自分の中に女性が居ることに気づく。
それ以来、女の服をまとったリリーになる時と、アイナーである時が混じるようになるが、やがてリリーこそが本来の自分の姿だと思うようになる。
交際し、結婚したのはゲルダのほうが積極的だったらしい。とはいえ、二人は傍目には熱愛中の夫婦だったのだ。
ゲルダの苦悩は、どれほどだったろう。
アイナーに女装をさせたのはゲルダなのだ。そのことで、彼の中の「リリー」を目覚めさせたことを、後悔したに違いない。精神的な治療も役に立たないと知ると、本来の自分つまり女性の身体になる手術を受ける決意をする夫。その夫を受け入れる妻。妻を慰めるのは、夫の幼い頃の親友だったという男。
この三人、もっとドロドロした関係になりそうなところを、こうなってしまったことを受け入れるのが愛、というようなスタンスで描いていく。
もちろん、世間には、アイナー=リリーのような人を異常と見なす人もいて、そのことも描かれる。女性の身体を得るために命まで賭ける必要があるのか、というのも部外者の感想だろう。リリーにとっては、それこそが人生だったのだから。
どうしても妻目線になってしまうので、つらい感じがするが、ゲルダがそれを受け入れていることで、筋の通った、りんとした人生に見えてくる。
2016年03月22日
「ファイナルガール」
以下の文章では、藤野可織の本「ファイナルガール」に収録されている作品の内容や結末に触れています。ご了承ください。
この人の書く話は、どこか気色悪い。「爪と目」などではそれが体の内側に入ってきそうな気色悪さだったのだが、ここに収められた話は、どこかユーモラスな感じもする。
ストーカーに好かれる、とか、あるはずのないドアから屋上に出て戻れなくなる、とか、予定もなかったのに歯医者へ行って親知らずを抜くはめになる、とか・・・・・・当人にとっては災難なのだが。
ユーモア、というよりブラックユーモアを一番感じたのは「狼」。
幼い頃、父と母が狼をやっつけて守ってくれた。「俺」はそれ以来、手に入れなければならないものをうっかり手に入れ損なったきがして今度狼に出会う時に備える。体を鍛え、体力をつける。就職した会社で知り合った女性と一緒に暮らすことになり、引っ越したその日に、狼がやってくる。
「俺」が動けすにいる間に、彼女が狼をやっつける。
これがユーモラスに感じられるのは、語り手が「俺」で、彼女がさっさと狼をやっつけてしまうからかもしれない。表題作の「ファイナルガール」でも、連続殺人機に何度も出くわす主人公が女性だから面白いのかもしれない。狼を前に動けなくなるのが女性で、闘って生き延びるのが男性だったら、面白みはずいぶん減るかもしれない。
そこに作者の企みがあるのかもしれないが、その企みを深く考えなくても、面白く読めることは確か。
この人の書く話は、どこか気色悪い。「爪と目」などではそれが体の内側に入ってきそうな気色悪さだったのだが、ここに収められた話は、どこかユーモラスな感じもする。
ストーカーに好かれる、とか、あるはずのないドアから屋上に出て戻れなくなる、とか、予定もなかったのに歯医者へ行って親知らずを抜くはめになる、とか・・・・・・当人にとっては災難なのだが。
ユーモア、というよりブラックユーモアを一番感じたのは「狼」。
幼い頃、父と母が狼をやっつけて守ってくれた。「俺」はそれ以来、手に入れなければならないものをうっかり手に入れ損なったきがして今度狼に出会う時に備える。体を鍛え、体力をつける。就職した会社で知り合った女性と一緒に暮らすことになり、引っ越したその日に、狼がやってくる。
「俺」が動けすにいる間に、彼女が狼をやっつける。
これがユーモラスに感じられるのは、語り手が「俺」で、彼女がさっさと狼をやっつけてしまうからかもしれない。表題作の「ファイナルガール」でも、連続殺人機に何度も出くわす主人公が女性だから面白いのかもしれない。狼を前に動けなくなるのが女性で、闘って生き延びるのが男性だったら、面白みはずいぶん減るかもしれない。
そこに作者の企みがあるのかもしれないが、その企みを深く考えなくても、面白く読めることは確か。
2016年03月01日
キャロル
以下の文章では、映画『キャロル』の内容・結末に触れています。ご了承ください。
これは、女性のための映画だ。描かれるのは女どうしの愛だが、興味本位ではない。ひと目見て惹かれ、一緒に食事をして、旅に出て……と深まっていく愛が自然に描かれる。
1950年代。キャロルは人妻で娘が一人。きちんと整えられた髪、タイトスカートにハイヒール、赤い唇。ケイト・ブランシェットにはそういうクラシカルなファッションがよく似合う。実は、もうすぐ離婚する予定のキャロル。
彼女がクリスマスプレゼントを買いにきたデパートで働いていたテレーズ(写真家志望)。テレーズがキャロルの忘れ物を届けたことから、二人の交際が始まる。
離婚協議中のキャロルは、最初どうしても娘の養育権を欲しがっている。少し夫を避けて旅に出るのだが、テレーズが同行することになる。夫は探偵に尾行させて、キャロルが同性と不適切な関係にあることを証拠に、養育権を奪おうとする。
女性どうしの愛が女性の自立と重ねて描かれることは、今までにもあったと思う。直接にキャロルとの愛が原因になったわけではないが、テレーズは写真家としての腕も活かせる職場で働き始める。
キャロルはどうか。娘を自分のもとに置くことにこだわるのなら、心理療法を受けて、自分は「正常」になったと主張しなくてはならない。キャロルが娘をかわいがる様子見ているだけに、そうなるのかなと思う。それだけ「母性」をいろいろなことの理由、切り札にする展開を私たちは今まで(他作品で)見てきている。
しかし、そうはならない。それがこの映画の重要なポイントだ。キャロルは自分の性的指向を否定せず、娘を引き取ることを諦め、面会権だけを求める。
自分で自分を否定することはできない。キャロルは、しばらく会わずにいたテレーズと再会し、誘い、テレーズもそれに応える。
仕事の時間は別として、二人の指向する世界には男性は入って来ない(キャロルの子どもが娘であることにも意味があるのかもしれない)。それが、この映画を女性のためのもの、と感じた理由だ。
これは、女性のための映画だ。描かれるのは女どうしの愛だが、興味本位ではない。ひと目見て惹かれ、一緒に食事をして、旅に出て……と深まっていく愛が自然に描かれる。
1950年代。キャロルは人妻で娘が一人。きちんと整えられた髪、タイトスカートにハイヒール、赤い唇。ケイト・ブランシェットにはそういうクラシカルなファッションがよく似合う。実は、もうすぐ離婚する予定のキャロル。
彼女がクリスマスプレゼントを買いにきたデパートで働いていたテレーズ(写真家志望)。テレーズがキャロルの忘れ物を届けたことから、二人の交際が始まる。
離婚協議中のキャロルは、最初どうしても娘の養育権を欲しがっている。少し夫を避けて旅に出るのだが、テレーズが同行することになる。夫は探偵に尾行させて、キャロルが同性と不適切な関係にあることを証拠に、養育権を奪おうとする。
女性どうしの愛が女性の自立と重ねて描かれることは、今までにもあったと思う。直接にキャロルとの愛が原因になったわけではないが、テレーズは写真家としての腕も活かせる職場で働き始める。
キャロルはどうか。娘を自分のもとに置くことにこだわるのなら、心理療法を受けて、自分は「正常」になったと主張しなくてはならない。キャロルが娘をかわいがる様子見ているだけに、そうなるのかなと思う。それだけ「母性」をいろいろなことの理由、切り札にする展開を私たちは今まで(他作品で)見てきている。
しかし、そうはならない。それがこの映画の重要なポイントだ。キャロルは自分の性的指向を否定せず、娘を引き取ることを諦め、面会権だけを求める。
自分で自分を否定することはできない。キャロルは、しばらく会わずにいたテレーズと再会し、誘い、テレーズもそれに応える。
仕事の時間は別として、二人の指向する世界には男性は入って来ない(キャロルの子どもが娘であることにも意味があるのかもしれない)。それが、この映画を女性のためのもの、と感じた理由だ。