2013年03月06日

長い予習②

 私にとって、澤田教一への興味(あるいは『ホテル マジェスティック』が澤田をどう描くかの興味)は、
第一に なぜ彼が命がけで命がけでベトナムにこだわり続けたか、ということ。
第二に、サタ夫人との関係。

第一について知るためにも『ライカでグッドバイ』をやっと読んでみた。図書館になかったので手に入れるのに時間がかかったのだ。
 澤田と共に過ごしたことのあるジャーナリストたちを各地に訪ね、澤田という人間を描き出そうとした労作。一箇所、表現上の間違いと思われる点があるが(「毎日足を棒にふるだけだった」という表現。これは「足が棒になった」か「(一日を)棒にふった」かだろう)、揚げ足を取るのが目的ではない。
 著者はこの後も同じ手法でルポルタージュを書いているが、これが最初の本ということもあって、著者自身の勢いや気負いが澤田のそれと重なり合って、いい効果を上げている。
 この本によれば澤田がベトナムへ向かった理由は「決定的な一枚をモノにして、世界的な写真家になりたい」ということだ。
 もちろん、人が行動を起こす時、理由は一つに限らない。最初のバイト先だった小島写真店の店主・小島一郎(写真集を一冊残している)の影響。米軍基地内の写真店に勤めた経験。入社したUPI(通信社)でのアメリカ人との給料の差。それらも澤田をベトナムへ導いた要素だろう。

 しかし彼は決定的な一枚を撮って、国際的な名誉を手にした後も、ベトナムにこだわった。それはなぜか。

『ライカでグッドバイ』では澤田が写真集を出すことにこだわっていたと書かれている。澤田が撮影したのは南ベトナムだが、一冊の本にするなら北ベトナムも撮りたい。ラオス、カンボジアも入れたい。そういう希望があった(結局、一冊の写真集も出せないまま彼は世を去ったわけだが)。東京でのデスクワークに戻れば給料も下がってしまう、という実際的な理由もあったらしい。
 また、これははっきりと書かれているわけではないが、ベトナムにとりつかれていたのかもしれない。取材に応じた記者たちが「ベトナム戦争にはどうしようもないほどの魔力があった」「戦争っていうのは、本当にひきつけられるんですよ」「ベトナム戦争というのは、ある意味で一度味わうと中毒を起こさせるものでしたね」などと語っているからだ。
 あるいは澤田が小島一郎から受け継いだ態度(ひとつの被写体にのめり込み、自分の命を賭けて撮り続ける構え方)や、フリーメイスンの考え方(澤田はその会員だった)が彼をベトナムから離さなかったのか。そのあたりがどう描かれるのかを楽しみにしたい。

 第二の点に関しては、サタ夫人は存命なのだし、勝手な解釈はできないと思うが、1956年当時の日本で11歳年上の仕事上の先輩でもある女性と結婚した澤田という男性はある意味ですごいと思うのだ。
現在の目でたとえば1960年ごろにつくられた映画などを見ると本筋よりもそのあまりにも男性社会な背景にあきれてしまうことがあるのだが、サタ夫人の澤田への愛情が単なる献身や自己犠牲として描かれたりしないように望む。

 別種の「予習」も一つした。『ホテル マジェスティック』は脚本・樫田正剛、演出・星田良子。両人の関わった作品を一つも見たことがなかったので、樫田脚本の単発ドラマ『チープ・フライト』を見た。

 難点だと思った点。過去や事情を知るのに「立ち聞き」が多い。もちろん作劇上、有効な手段だとは思うのだが、何回か出てくると「この人はいつも立ち聞きするのか~?」と思ってしまう。
 期待できる点。方言を話す登場人物が魅力的だった。『ホテル マジェスティック』では澤田夫妻が津軽弁で話すと報道されているので、これは期待。
 長所にも短所にもなりそうな点。
 登場人物がそれぞれ「過去」を抱えていて、それが「ひとことで言い表せるような過去」である点。
 テレビドラマにおいてはわかりやすくていいと思う。劇場で見て「ひとことでわかりやすく説明される過去」に納得できるか、どうか。もしくは、演劇の場合はもう少し違った描き方をするのか。そこにも興味がある。

 ナマの舞台を見るのは楽しみだ。
 しかし周りの事情が、または自分の心身の状態がどうしても許さなくて見られない人もいると思う。
 見ることのできる自分の状況に感謝しつつ、行ってきます。  

Posted by mc1479 at 10:17Comments(0)TrackBack(0)

2013年03月01日

長い予習①

『ホテル マジェスティック~戦場カメラマン澤田教一 その人生と愛~』を見に行くので、予習をしている。同じ劇を何回も見るのは初めて。正確に言うと、同じ劇を2度見たことはあるが、今回はそれ以上の回数を見るので。せっかく見るのなら、自分なりに澤田教一やベトナムの報道について少しは知ってから見たいと思ったのだ。

 澤田教一は1936年、青森の生まれ。ベトナムで取材したのは1964年~1968年。1970年にカンボジアで殺害された。
 
 現在、澤田自身の書いた文章で読むことのできるのは『コレクション 戦争と文学2 ベトナム戦争」に収められた「17度線の激戦地を行く(初出はサンデー毎日1967年6月18日号)だけではないだろうか。石川文洋、開高健、小田実…多数の文章が収められている中で、澤田の文章はわずか12ページと最も短い。当たり前だが、そこには「私は自ら選んでベトナムへきた。自己追求のつもりであった。戦場で人生を知ろうと思った」(石川文洋)という動機の説明もなく、「゛アジアの戦争の実態を見とどけたい゛という言葉をサイゴンで何度となく口のなかでつぶやいたためにいまこんなジャングルのはずれの汗くさい兵舎で寝ている」(開高健)というぼやきもない。
 ヘリコプターで移動し、いきなり戦場に着く。目の前で兵が撃たれる。あまりにも攻撃が激しくなると頭を上げることもできず撮影ができないので、地面にあお向けに寝転ぶ。夏空は青く澄んでいる。
 負傷兵を連れ戻すのを助けたり、知っている中佐と再会したり。それらがあくまでも淡々と書かれる。
 短い文章だが、終わりの部分は印象的だ。
   
  この夜も、死者が1人出た。だが兵隊たちは、「1人だけですんだ」という。早朝から、空からの援護爆撃をうけ たH中隊は、再びアンスアン村の探索に出発した。
  村は跡かたもないまでに、完全に破壊されていた。コンクリート製の防空壕のまわりに、自動小銃用のカラの弾が、数個落ちているだけだった。

 シンプルで美しい文章だと思う。

 動乱の渦中で直接に取材し、そこに国際的な関係がからみ合い、それが日本に影響を及ぼしかねない、という点でベトナムは日本のジャーナリズムにとって初めての経験だった、と日野啓三は書いている(『ベトナム報道』)。もちろん「かつて十二月八日にも八月十五日にも、歴史の水面の木の葉のように何もわからずみ翻弄されつくした」と言い、「いまはちがうぞ」と呟いた1929年生まれの日野啓三より少し年下の澤田には、「あの時とは違うぞ」という気負いはあまりなかったと思う。

 日野によれば、日本人であることはベトナムの取材で有利に働くこともあったらしい。西洋人は長らくベトナム人を見下してきたし(だからベトナム人は心を開かない)、韓国や中国には自国の軍がベトナムに出兵するかもしれないという事情がある。そうでない日本人には、取材のしやすい面もあったようだ。

 澤田教一はそもそも、高い志を抱いてベトナムへ行ったわけではない。
 後に澤田の遺体を引き取りにいくことになる、テレビカメラマンの平敷安常は『キャパになれなかったカメラマン--ベトナム戦争の語り部たち』の中で、実際に交流のあった多くのカメラマンについて書いている。

  澤田は岡村昭彦に会ったとき「何しにベトナムへ行きた いのか」と訊ねられて「写真展に出せる写真を写したい」 と答えて、岡村を驚かせ、嘆かせた。

 岡村はもっとも早くからベトナムに行っていたカメラマンだった。岡村にしてみれば「フォト・ジャーナリストとしてもっと高い目的、例えば戦争を弾劾する、平和に貢献するとか、ヒューマンな写真を写しに行きたい、という優等生の答えを期待していたのかもしれない」と平敷は書く。

 なお、私は混ぜて使ってしまっているが、平敷によれば、カメラを持って写して糧を得ている人を「カメラマン」、すでに名をなし、素晴らしい写真を撮る人を「フォトグラファー」、もう一段上の人を「フォト・ジャーナリスト」と呼ぶそうだ。

 実際に澤田に会った人の書いたものとして、平敷の文章は貴重だ。「黙々とどんな危ない戦場にも行き、コツコツと取材を積み重ね、大事な瞬間を逃さずにモノにしている」澤田に、平敷は尊敬の念を抱いていたが、無口な澤田はとっつきにくかったとも書いている。後に親しくなった時には、澤田自身がどんなにサタ夫人を尊敬しているかという話も聞いたそうだ。  

Posted by mc1479 at 08:47Comments(0)TrackBack(0)
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