2014年01月31日

『東京家族』

 テレビ放映されたものを見た。山田洋次監督が、小津安二郎監督の『東京物語』にオマージュとして捧げた作品だと聞いていたから。
 以下の文章では、映画『東京家族』の内容に触れています。ご了承ください。

 話の筋はほぼそのままで、瀬戸内海の島に住む父母が、東京の息子・娘のところを訪ねる。しかし現代の話だから「戦死した次男」という設定はなく、定職に就いていない次男が登場する。
 現代に置かれてみると、『東京物語』を見た時は「昔の話だから」と納得していたものが、不自然に見えてくる。息子や娘もそれぞれに忙しいから「横浜のホテルに泊まってもらおう」と2泊3日の予定で送り出したのに、1泊で帰ってきてしまう場面。娘に「今夜はここで寄り合いがあるから」と断られ、旧友の家に泊めてもらおうとする父。母は次男のところへ行くのだが・・・
 横浜での予定を切り上げて帰ってくる時、いくら何でも現代なら娘のところへ一言「1泊で帰っていいか」と電話くらいするのではないか。旧友のもとへも電話するのではないかと思う(母は携帯電話を持っているのだし)。
 もちろん、父がそれくらい自分の友を信用している、ちょっと愚かな人間だということを描きたかったのかもしれない。旧友と居酒屋で飲んで話す場面はもちろん小津の映画にもあったが、山田版では、大声で話す二人は明らかに迷惑がられている。
 ここでの父は、あくまでも人とのつながりを信じる人間で、しかも自分に都合のいいつながりを求める人間でもある。妻が亡くなっても自分の住み慣れた故郷なら隣人が助けてくれると疑わず、次男の恋人には「嫁になってくれるなら嬉しい」と言う。
 しかし父自身が周囲の人々に奉仕するような場面は映画内では描かれていないので、自分に都合のいい時だけ、つながりをあてにする人物に見えてしまうのだ。
 だから、このラストを素直に「あたたかい絆に希望を託して終わる」と受け取るのは、どうも難しい。  

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2014年01月22日

DVDで『クリスマス・イヴ』を見た

 以下の文章では映画『クリスマス・イヴ』の内容に触れています。ご了承ください。

 かなり前の映画だが、玉木宏が出ているのは知っていて、レンタル落ちDVDで安いからいいか、と買った。

 B級ホラーというやつ。作り手側が「記憶の曖昧さを…」等と話していたが、そういう味わいのあるものではないと思う。
 ホラーとしても、何だか…という感じ。その、記憶の曖昧さがどうとか、を描くためなのか、同じ場面が違うふうに描写されてまた出てきたりするので、「なんだ、全部ウソで、実は全員生きているのじゃないの?」と思ったりもする。ホラーの目的が怖がらせることなら、そう思わせてしまってはダメだろう。
 玉木くんは最初に殺される役なので、冒頭15分を見れば、ほぼ出番は終わる。その後、開いた口に包丁を突き立てられた死体姿で登場。ヒロインが、その包丁を引き抜くと、口から白い牛乳が溢れ出す。見ようによってはエロティックだ。というか、この場面だけが「ほぉお~」と思った場面だった。
   

Posted by mc1479 at 15:33Comments(0)TrackBack(0)

2014年01月17日

『マイヤーリング』

 以下の文章では、映画『マイヤーリング』の内容に触れています。ご了承ください。

 映画館で上映されたが、テレビ作品である。オードリー・ヘプバーン主演、1957年にNBCで一度放映されたきり、一週間限定公開!というので見に行った。
 マイヤーリング(地名)と聞いただけで、ぴんとくる人もいるのかもしれない。オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子ルドルフと男爵家の令嬢マリーは愛し合うが…というところまで見て、「ああ、あの話ね」と思い当たった。『うたかたの恋』というタイトルで、カトリーヌ・ドヌーヴとオマー・シャリフが演じていたもの(それより前の映画もあったらしい)。実話に基づく物語だ。
 ルドルフの母エリザベートは後に暗殺されるし、エリザベートのいとこは、かの有名なルードウィヒだし、このあたりの人々の話は有名なのだ。
 この作品では、ルドルフ(メル・ファーラー)のいらいら感や、けっこう女性とも遊んでいたらしい描写はされているが、対するマリーはいかにも純情な少女。
 舞踏会に現れたマリーを見て「あれが皇太子の…」と噂する年配の女性たちは辛辣に「美しいわ」「17歳よ。17歳なら誰だって美しいわ」と言うのだが、その内容までは聞こえていないマリーは「年取った人ってイヤね」と呟く。このマリーのセリフは、ルドルフが彼女を道連れにするきっかけにもなったような気がする。
 今、この作品を見るのはもちろん、アンティークを見るような目になる。画面はまぁまぁだが、音声が割れる。3幕に分かれていて、それぞれの最初に「オードリー・ヘプバーン、メル・ファーラー主演、アナトール・リトバク監督『マイヤーリング』第〇幕」とナレーションが入る。テレビ放映された時には、幕間にCMが入っていたのだろうか。そういうのも「味」だと思い、楽しむ気分で見るのなら、それでいい。
 さて、マイヤーリングは二人の死んだ場所である。真相は不明だが、ここではルドルフが眠っているマリーを撃ち、自分を撃つ。翌朝ちゃんと目覚めるつもりで眠りに就いたマリーには残酷なことだが、当時のオードリーを見て、「少女のままで死なせたい」と作り手たちが思ったのだとしたら、わからなくもない。それくらい、彼女は美しく撮られていた。  

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2014年01月10日

『鈴木先生』

 連続ドラマは見ていない。映画になったものが放映されたのを見た。以下の文章では、この映画の内容に触れています。ご了承ください。

 冒頭、面白い!と思った。この映画の前段に当たるドラマは見ていないから、個々の生徒にどういう経歴があるのかは知らないけれど、そうか、鈴木先生って妄想男子がそのまま先生になったような人なのか?と勝手に解釈。
 いわゆる熱血教師ではなく、生徒たちに「立場に応じて演じることも大切」と教える鈴木先生には、好感が持てる。
 前半の、生徒会選挙をめぐるそれぞれの考えや文化祭に向けての準備は結構リアルに描かれている。鈴木先生が喫煙者で今や追いやられる立場になりつつあるというのも、公園の喫煙所にやってくる引きこもりがちの男たちとの接点を作っている。
 男たちは、鈴木先生の勤める中学の卒業生で、やがてその一人が学校に乗り込んで事件を起こすのだが…
 生徒会選挙が体育館で行われる時に教室に入り込み、そこに残っていた生徒を脅す。という設定には無理がないか? 東京の公立中学の生徒会選挙が一般的にどのように行われるのかは知らないが、体育館へ集合させ、選挙を始める前に(不正防止のためにも)欠席者以外の全員が揃うまで待たないのか?
 そういう細かい部分が気になる。
 この事件に関してはリアリズムで描こうとしていませんから、と言われたら、そうかもしれない。たとえば日本のドラマで警官がやたら発砲し始めたらそこから先はファンタジー、と考えたほうがいいように、この映画も部外者が校内に入り込んだ時点からはファンタジーと捉えるべきなのかも。
 そういえば、この事件の内容も男子の妄想しそうなことではある。自分の好きな女子をこういう状況に追い詰めてみたい、とか、それでもその女子はあくまでも清く気丈であってほしい、とか、追い詰められた時に自分を頼りにしてほしい、救ってみたい、とか……。隙を見て犯人(という言い方で良いのかな)を取り押さえる男性教員はちゃんといるのに、鈴木先生のほうに駆けつける教員が一人もいないのも、事件は実は鈴木先生の妄想だったから?と思ったが、そういうオチではなかった。
 何か惜しい。生徒会選挙での無効票や公園の喫煙所とからめながら「グレーゾーンを残すことの大切さ」を言う辺りは良いと思ったのに、クライマックスの事件はまったく「グレーゾーンを残すこと」で解決に導かれるようにはなっていないからだ。「グレーゾーンを奪ってしまうと、こんな事件を起こすんだよ」という描き方にしてしまっては、「じゃあ、グレーゾーンを好む人は最初から取り締まったほうがいい」と考える人が増えるのではないか。むしろ、グレーゾーンを消すことを目的にする人たちが事件を起こすという展開のほうが、そこまでの流れに沿っている気がするのだが…
 そのあたりがなんだか裏切られたような気がして、ちょっと後味が良くないのは残念。  

Posted by mc1479 at 11:47Comments(0)TrackBack(0)

2014年01月06日

『桜ほうさら』(ドラマ)感想

(ドラマ)と入れたのは、宮部みゆきさんの原作の感想ではないということです。ドラマの内容に触れ、セリフを引用しておりますので、ご了承ください。

 600ページもある原作をどうやって88分のドラマにするんだ? と思ったが、主人公・笙之介が自分の父を陥れた者を探すという大筋の謎解きを中心にしたものだった。だから、原作にあったゆっくりと進む笙之介の江戸での暮らしぶりや、一見関わりなさそうに見えたことが関わってくる面白さを愛した人には、物足りないことだろう。しかし、ひとつのドラマとしては上手くまとまっていたと思う。
 謎解きとからめて、長屋暮らしの人々も、美しい風景も点描される。精度の高いカメラで撮影したそうなので、「いい画を作ろう」というスタッフの熱気が伝わってくる。
 もちろん時間が短い分、単純化された人物もあって、書店の主人が妻を亡くしたいきさつや、笙之介の母が三度目の結婚で格下の家に嫁いだことを悔しく思っていたことなどは描かれていない。
 強烈な悪の匂いも薄められた。原作では、改心などしないように見える笙之介の兄・勝之介も、ここでは「生き方を変えるかもしれない」と思わせるし、金さえ貰えば悪事にも関わる代書屋・押込御免郎も気のいい奴にも見える。原作では490ページになってやっと登場する御免郎は、ドラマでは早くから笙之介にまとわりつき、笙之介との間に仲間意識のようなものさえ漂わせるのだ。そして、兄や御免郎をそのように動かすのは笙之介の力であるように描かれてもいる。

 結果から言えば、藩の跡目争いのためにニセの遺言状を作ろうとする者が、ニセ文書作りの腕試しとしてやってみたことに、笙之介の父は巻き込まれた、捨て駒だったわけだ。そして、兄・勝之介も押込御免郎もいざとなれば切り捨てられる存在である。
 そういう仕組みに対して、原作の笙之介は諦めに似た気持ちを抱いている。兄に殺されかけた後、実際に死んだことにして別の人生を歩むことを受け入れる。
 ドラマの笙之介は少し違う。
 代書屋でありニセ文書作りの生き証人である御免郎が始末されてしまうことを原作の笙之介は「落としどころ」として受け入れるが、ドラマの笙之介は抵抗する。
「人は、決して虫けらのように殺されるべきではないんだ!」
 原作にはない、ドラマの笙之介の叫び。
 現にある体制を保つことを第一に考えるなら、原作のような始末のつけ方を受け入れる方がリアルだろう。しかし、ドラマの作り手たちはそうはしなかった。
 御免郎は、藩の家老の悪事をお上に知られぬように片づけられた。つまり秘密を守るために始末されたのだ。そのことに抵抗する笙之介。
 秘密を守るために、とんでもないことが実行される――と言うと、何かを思い浮かべないだろうか?

 もちろん、このドラマの脚本が書かれた時には、まだ特定秘密保護法は成立していなかったかもしれない。それに、法律ではいくらなんでも秘密を守るために殺されることはないのだから、そんなものを思い浮かべるのはこじつけだと言われるかもしれない。
 しかし、原作にないセリフには脚本家の意図が込められているはずだし、見る側にもそれぞれの受け取り方があっていいはずだ。
 だから私は、これを天保の昔のリアルより、未来へのメッセージとして受け取りたい。このセリフを言う時の笙之介がもっとも力強かったことを心に留めておきたい。
   

Posted by mc1479 at 13:26Comments(0)TrackBack(0)
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