2014年04月29日

『レイルウェイ 運命の旅路』

 以下の文章では、映画『レイルウェイ 運命の旅路』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 1980年、鉄道マニアのエリックは列車で出会った女性と結婚する。熟年結婚だから(女は再婚)、それぞれ過去がある。結婚してから妻は、夫が戦時中の体験に今も苦しんでいることを知る。
 1942年にシンガポールが陥落した時、イギリス軍のエリックたちは日本軍の捕虜になり、鉄道作りの労働をさせられた。ラジオを組み立てこっそり聞いていたのがばれ、主犯と見なされたエリックは「これで中国と連絡をとっていただろう」と詰問される。受信だけで発信はできないと言っても、あらかじめ作り上げられた「こいつはスパイだ」という枠にはめこみたい彼らは、エリックを拷問した。
 エリックが忘れられず憎んでいるのは、通訳のナガセ。通訳と名乗りつつ、エリックの食糧を取り上げ、拷問に加担した。
 そしてエリックは戦友の一人からナガセが今もシンガポールにいて「戦争博物館」の管理人兼案内人をしていることを知る……
 
 エリック役コリン・ファースと妻役ニコール・キッドマンの愛の話かと思って見ていると、クライマックスは、再会したエリックとナガセの場面。コリン・ファース対真田広之というのも緊迫感のある対決だ。
 エリックはナガセを殺すくらいの気持ちで戦争博物館に行くのだが、結果的にはナガセを赦すことになる。
 言葉に曖昧さを許さず、追究するエリックはいかにも欧米人的に見える。ナガセが「事件」というのを「虐待だ」、「あんなに多く死んだとは」と言うと「殺したんだ」、「我々」と言うと「私だ」と訂正を迫る。
 ナガセは通訳として必要とされたために、戦後すぐ線路沿いに埋められた死体を掘り出し特定する作業の手伝いをしたのだという。あまりに多くの死体を見て、巡礼したいと思った、とナガセは語る。今も巡礼のつもりでこの戦争博物館の案内をしているのだ、と。
 ナガセの言い分を、エリックは信じたのだろうか? むしろ、祈りを捧げている義父を殺せない場面のハムレットに近い心境ではなかったのだろうか。
 相手が今、悪いことをしていない以上――本当かどうかはともかく「巡礼」をしているのだという以上――基本的にはキリスト教徒である人間には、それは殺しにくいだろう。そういう意味でエリックはナガセを赦したのではないかと私は思った。
 エリックとナガセの間には手紙のやり取りが始まり、交流は死ぬまで続いた、と字幕で示される。実話に基づいたストーリー。  

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2014年04月22日

『アデル、ブルーは熱い色』

 以下の文章では、映画『アデル、ブルーは熱い色』の内容に触れています。ご了承ください。

 女性どうしのラブシーンが話題になった映画。それ以外のシーンにはセリフがあふれているので、セリフのないラブシーンが余計に目立って見える。
 アデルとエマという女性が登場するが、主人公はあくまでアデル。彼女の高校時代から10年近くにわたる物語。
 カメラを長い時間回しっぱなしにして撮影したこともあったそうで、そういうやり方がいつも良いというわけではないだろうけれど、本当にアデルという女性の人生のある時期を一緒にたどっているような気がすることも確か。
 男の子とデートしても「これが恋なの?」と思っていたアデルは、画学生のエマに惹かれる。エマは家族にも同性愛者であることを打ち明けており、画家を目指す。アデルは幼稚園の先生になり、働き始めるとエマと同居するが、自分の家族には隠している。
 エマのパーティに集まる人たちは皆、芸術に対して意見を持っていて、アデルは料理作りの腕を褒められるしかない。彼女がひとりで料理も皿洗いもしているのを見て「この二人、別れるな」と思った。
 実際はアデルが同僚の男と浮気をして(その場面は描かれないが)破局が訪れる。
 とにかく言葉が多い。
「悲劇は必然であり、逃れることができない」と『アンティゴネ』を分析する教員。
 アデルという名はギリシャ語の「正義」に因っているのだと言うアデル。
 サルトルによって(超越的な原理によらず自己決定できる)自分が同性愛者であることを認めることができた、と話すエマ。
 アデルが子供たちと学んでいた詩も印象的。
 ゾウの鼻はなぜ長い ピスタチオを拾うため かがまなくていい
 キリンの首はなぜ長い 星をとるため 飛ばなくていい
 詩人はなぜいろいろ書く 言葉で表すため わからなくていい
 
 この映画は「恋愛」とういうものを、わからなくてもいいが、いろいろと描いて見せた、ということなのだろうか。  

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2014年04月15日

『ピグマリオン』(プレミアムステージ)

 ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』は、ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の原作になったことでも知られる。もとの戯曲自体の上演がどれくらいあるのかは知らないが、昨年上演されたものをTVで放映していたので(録画して)見た。新国立劇場、日本語での上演(翻訳は小田島恒志)、イライザ役は石原さとみ、ヒギンズ教授は平岳大。
 以下の文章では、『ピグマリオン』の内容・結末に触れています。ご了承ください。


『マイ・フェア・レディ』でもおなじみの、コヴェントガーデン辺り。花売り娘イライザのひどい発音を聞き、「僕なら半年でこの娘を公爵夫人のようにして見せる」と、友人ピカリングに言うヒギンズ。ロンドンのコクニー訛りをどう訳してあるのかと思ったが、もとの通り、H音が抜ける特徴を活かして「花」が「あな」に聞こえたり。あとは全体を乱暴な感じにして(「私」と言わずに「あちし」と言っている)、どこの方言でもないが耳障りな話し方、を作っている。
 冗談のつもりだったヒギンズの家に「レッスン」を頼みにイライザがやって来て、特訓が始まる。映画『マイ・フェア・レディ』でもそうだったが、イライザが初めてヒギンズやピカリング以外の人と話す場面は面白い。映画のような競馬場という華やかな場所ではないが、ヒギンズの母の家で、訪問客と会話する。話題は天候のことと健康のことだけだったはずなのに、インフルエンザの話が出ると「私の叔母もインフルエンザで死んだってことになっています」「帽子をちょろまかした奴が叔母をやっちまったってことですわ」等と話して、これが若い客には「現代的な話題」として受ける。この辺りが一番笑える場面。
 さらに後の舞踏会ではイライザは完璧なレディぶりを見せるが、その直後にヒギンズの所から離れるのも知っての通り。
『マイ・フェア・レディ』の解説にもよく書いてあったように、『マイ・フェア・レディ』ではヒギンズのもとへイライザが帰ってきて一応のハッピーエンディングになるが、『ピグマリオン』は、そうはならない。だからこそ終わりに近い部分の二人の言い争いの場面は大事だと思うのだが、そこまでに比べて今ひとつだ。
 石原さとみは汚い花売り娘からレディになっていく変化ぶりは上手い。どちらの姿でも可愛い。しかしラストでヒギンズに抗議し、主張するところは叫びすぎのような気がする。
 ここではヒギンズもイライザも言っていることが噛み合わず、堂々巡りをしているようなものなので、難しいとは思うのだが、イライザの中に生まれた自立の決意がだんだん固まっていくようには見えにくいのだ。
 原作戯曲がそうだからか? 演出にもよるだろう。現代の目から見れば、イライザの自立を女性の自立として賞賛することもできるはずだ。でも、そういう演出ではない。見る人に判断を委ねる、というのであれば、「そうですか」としか言いようがないのだが、消化しきれていない印象を与える。石原さとみの変化っぷりを楽しみたいファンには満足できると思うが……

 余計な一言。某探偵さんに言ってほしいようなセリフが出てきた。
「そんな所にうずくまって、癇癪持ちの鳩みたいにわめくんじゃない!」  

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2014年04月11日

マイケル・J・フォックス ショウ

 マイケル・J・フォックス。懐かしい!と思って第1・2回を見た。
 以下の文章では「マイケル・J・フォックス ショウ」の内容に触れています。ご了承ください。

 マイケルのドラマは『ファミリータイズ』はほとんど見ていたし、『スピン・シティ』も途中まで見ていた。彼のパーキンソン病が悪化してからは新作のニュースは聞かなくなっていたと思うけれど、50歳を越えて、久々のTVドラマ。
 主人公の名は、マイク・ヘンリー。元人気キャスターで、パーキンソン病で引退。今は主夫業。子供は3人。という、ほとんどマイケル自身のような役。親友に求められて復帰するというのが第1話。
 アメリカの30分もののコメディって短い間にいろいろなことが詰め込まれている。大学を中退してきた長男、高校生の長女、まだ幼い次男。その次男の世話をしばしば引き受けているらしい、マイクの妹。妻は教員だ。そういう人物紹介の合い間に、復帰までの様子や、復帰後最初の仕事が描かれる。もちろん、ギャグを挟みながら。
 マイクがまだ「復帰する」と決めていないのに、親友が勝手に作ったプロモーション映像を見せられた時、スローモーションが使われていて最低だ、と怒るマイク。
「スローモーションは死んだか起訴された時だ」というセリフに笑った。私も「ここだ! この場面を見ろ」と言わんばかりに使われるスローモーションは好きではないので。
 それから、マイクが「どうして『親戚に同じ病気の人がいる』って話しかけたがるんだ? 依存性だったら『同じ依存症の人が身内にいるの』って言わないのに」とぼやくのも面白かった。
 なかなか「家族揃っての朝食」がとれなかったのが実現した時、マイクがスクランブル・エッグを妻の皿に取り分けてやろうとする。病気のせいで手が震える。周りがハラハラして見ていると、妻が
「じらさないでよ。みんなお腹ぺこぺこなの」と、さっさとマイクからスプーンを取り上げて、皿に入れる。そうだよね、そういうふうに笑ってしまえばいいんだよね、と思わせる。
 妻はよくできた人で、実は復帰の話も、彼女から親友に頼んだものだとわかる。
 昔からセルフ・パロディをやってきたマイケルだけど、病気も笑いの種にしようという姿勢は偉い。
   

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2014年04月09日

『大統領の料理人』

 久しぶりに「おはよう! ミリオン座」で見た。「おはよう! ミリオン座」は少し前にミリオン座で上映した映画の再映。平日の朝1回だが、1000円でコーヒー一杯が付く。この4月からも値上がりしなかったのが嬉しい。
 以下の文章では、映画『大統領の料理人』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 主演はカトリーヌ・フロ。この人、ものすごい美人というのではないけれど「真面目に生きている普通の人」をきちんと演じることができるのが強みだと思う。
 今回は、大統領が友人や親戚を呼んだりして食べる昼食の担当を任される女性料理人。メインの大きな厨房は別にあって、そこは全く男の職場なのだが、彼女には「おふくろの味を作ってほしい」と頼まれる。当然、苦労もあるが、助手はなかなかの働き者で、大統領も彼女の「家庭料理」を気に入る。
 順調なようだが、エリゼ宮にも時代の波は押し寄せる。それは、低カロリー指向と経費削減。低カロリー・低脂肪指向は大統領の身体(健康)を考えての医者からの指導なので仕方がないのだが、それまでの彼女の献立を見ていると肉料理やパイが得意なようだから、つらいだろう。そして最高の材料を使おうとしてきた彼女には、経費削減はもっとつらい。
 結局、彼女は去ることになるのだが、実はこの映画、南極の基地で料理人として働く彼女の姿の合い間に、かつて大統領の料理人として働いていた頃の場面が入るという構成になっている。
 はじめのうちはその構成がちょっと煩わしくて、文字通り「大統領の料理人」としての彼女だけを見せてくれてもいいのに、と思っていた。けれども南極を去る日に、ここで働いたのは給料がいいから、そのお金をもとにニュージーランドでトリュフの栽培をするつもり、という彼女の決意を聞いた時、なるほど大統領の料理人として働いたことも、南極料理人として働いたのと同じく、ひとつの過程で、でも彼女はそれぞれの過程を精一杯に工夫して楽しんできたのだ、と気づく。
 そして彼女が、自分を呼ぶ時は名前で呼んで、と要望していたことも思い出す。オルタンスという名前はラテン語のオルテュス、つまり「庭」に由来するものだから、と。そんな彼女がトリュフ栽培のできる「庭」に帰っていくのは当然のことだったのだろう。  

Posted by mc1479 at 08:13Comments(0)TrackBack(0)

2014年04月08日

『ヒミズ』(映画)

 園子温監督の映画に惹かれる人は、どこに惹かれるのだろう? そう思いながら見た。もっとも私はTVで見たので「映画は映画館で見なければ『見た』とは言えない」と考える人にとっては初めから「はずれた」見方をしているわけだが。
 以下の文章では映画『ヒミズ』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 原作の設定は知らないが、映画は明らかに大震災のあと。ボートハウスに住む中学生の男の子、住田くん。池の周りには、家を失った人たちがブルーシート等で囲いをして暮らしている。最初のうちは中学に通う場面もあって、そこで「世界にひとつの花になれ」なんて熱いことを言って生徒から失笑を買っている教師に反発したりもする、住田くん。その住田くんを好きな、というかストーカー気味の女の子、茶沢さん。「住田語録」と称して、住田くんの言ったことを紙に書いてベッドの回りに貼っている。住田くんには、ときどき帰ってきて「お前なんかいらなかったんだよ。川で溺れた時に死んでくれればよかったのに」と言っては金をせびっていく父がいる。母は、別の男と家出してしまう。母がいなくなって住田くんは学校へ行くのをやめ、ボートハウスの仕事をする。茶沢さんも何かとその手伝い、というか邪魔をしに来る。茶沢さんも家では、母から「お前なんかいらなかった」と言われていて、この母は首吊り台を作っていて「完成したら死んで」と茶沢さんに言っている。
 住田くんがとうとう父を殺して、他の、世の中の役に立たない奴らも殺してやる、とさまよっている頃、池の周りに住むおじさんが住田くんの父が作った借金を(それを取り立てに来た奴らに住田くんもおじさんも殴られていた)返してくれて、住田くんは拍子抜け、というのでもないけれど、父より他に誰かを殺すことはなく、父殺しのことも茶沢さんに知られる。おじさんを演じているのが渡辺哲で、TVドラマの『事件救命医 IMATの奇跡』の時に「救急隊員を演じた渡辺哲さんの演技力に頼り過ぎ」と言っていた人がいたけれど、それを言うなら、この映画もかなりこの人の演技力に頼っている。肩代わりして借金を返す理由は若い住田くんには未来があるから、と言うのだが、そういうセリフを言ってもこの人なら大丈夫、と任せている感じがする。
 さて、この映画を好きな人はどういうところに惹かれるのだろう? 人を殴る・蹴る、殺す、ものを奪う、というは一種の見せ場になるというかエンターテインメントの要素にもなり得るのは確かだろう。そうでなければ、なぜそういうシーンのある映像作品があふれているんだ? というわけで、それらを「見せ場」として楽しめる人には、そういう場面が多いのはいいかもしれない。男子目線で見れば、茶沢さんが土手を転げ落ちる時、パンティ丸見えをサービスしてくれるのも面白いのかも(『愛のむきだし』で、マリアがキックする時にパンティ丸見えをサービスしてくれたのを思い出した)。茶沢さんの家庭の事情は解決されたとは見えないのに、茶沢さんは住田くんを救いに来てくれる。自首を勧め、待っていると言い、励ましてくれる。最後に、あの空回りしているような教師の言葉が茶沢さんによって繰り返される。そうすると、住田くんはそれを受け入れ、自分でもその言葉を繰り返していく。
 もちろん、これはファンタジーだろう。あんなに熱心な(つもりの)教師が、気にかけている生徒が二日も三日も欠席しているのに、家庭訪問に来ないはずはない(だって自分の熱意を示すいい機会ではないか)。では、この映画を好きな人は、そのファンタジー性を愛するのか。
 それともパンティ丸出しシーンを繰り返し見るのか。廃墟のシーンを眺めて痛みを感じるのか。
 もちろん、「震災後の人々」と「住田くん」は重ね合わせるようにされていて、虐げられ、理不尽なことを強いられ、そして怒りを爆発させたのに収束のさせようもなくて励まされてしまうという展開に皮肉を感じることはできる。繰り返し流されるモーツァルトの『レクイエム』の一節に、この映画は鎮魂歌なのだと読み取ることもできる。そうして映画について何か語りたい人にとって、そういう複数の読みができる映画は重宝だというのもわかる(私だってこんなにつらつらと書いてしまっている)。その辺りに惹かれる理由があるのか、と考えてみた。  

Posted by mc1479 at 08:44Comments(0)TrackBack(0)
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