2013年03月01日
長い予習①
『ホテル マジェスティック~戦場カメラマン澤田教一 その人生と愛~』を見に行くので、予習をしている。同じ劇を何回も見るのは初めて。正確に言うと、同じ劇を2度見たことはあるが、今回はそれ以上の回数を見るので。せっかく見るのなら、自分なりに澤田教一やベトナムの報道について少しは知ってから見たいと思ったのだ。
澤田教一は1936年、青森の生まれ。ベトナムで取材したのは1964年~1968年。1970年にカンボジアで殺害された。
現在、澤田自身の書いた文章で読むことのできるのは『コレクション 戦争と文学2 ベトナム戦争」に収められた「17度線の激戦地を行く(初出はサンデー毎日1967年6月18日号)だけではないだろうか。石川文洋、開高健、小田実…多数の文章が収められている中で、澤田の文章はわずか12ページと最も短い。当たり前だが、そこには「私は自ら選んでベトナムへきた。自己追求のつもりであった。戦場で人生を知ろうと思った」(石川文洋)という動機の説明もなく、「゛アジアの戦争の実態を見とどけたい゛という言葉をサイゴンで何度となく口のなかでつぶやいたためにいまこんなジャングルのはずれの汗くさい兵舎で寝ている」(開高健)というぼやきもない。
ヘリコプターで移動し、いきなり戦場に着く。目の前で兵が撃たれる。あまりにも攻撃が激しくなると頭を上げることもできず撮影ができないので、地面にあお向けに寝転ぶ。夏空は青く澄んでいる。
負傷兵を連れ戻すのを助けたり、知っている中佐と再会したり。それらがあくまでも淡々と書かれる。
短い文章だが、終わりの部分は印象的だ。
この夜も、死者が1人出た。だが兵隊たちは、「1人だけですんだ」という。早朝から、空からの援護爆撃をうけ たH中隊は、再びアンスアン村の探索に出発した。
村は跡かたもないまでに、完全に破壊されていた。コンクリート製の防空壕のまわりに、自動小銃用のカラの弾が、数個落ちているだけだった。
シンプルで美しい文章だと思う。
動乱の渦中で直接に取材し、そこに国際的な関係がからみ合い、それが日本に影響を及ぼしかねない、という点でベトナムは日本のジャーナリズムにとって初めての経験だった、と日野啓三は書いている(『ベトナム報道』)。もちろん「かつて十二月八日にも八月十五日にも、歴史の水面の木の葉のように何もわからずみ翻弄されつくした」と言い、「いまはちがうぞ」と呟いた1929年生まれの日野啓三より少し年下の澤田には、「あの時とは違うぞ」という気負いはあまりなかったと思う。
日野によれば、日本人であることはベトナムの取材で有利に働くこともあったらしい。西洋人は長らくベトナム人を見下してきたし(だからベトナム人は心を開かない)、韓国や中国には自国の軍がベトナムに出兵するかもしれないという事情がある。そうでない日本人には、取材のしやすい面もあったようだ。
澤田教一はそもそも、高い志を抱いてベトナムへ行ったわけではない。
後に澤田の遺体を引き取りにいくことになる、テレビカメラマンの平敷安常は『キャパになれなかったカメラマン--ベトナム戦争の語り部たち』の中で、実際に交流のあった多くのカメラマンについて書いている。
澤田は岡村昭彦に会ったとき「何しにベトナムへ行きた いのか」と訊ねられて「写真展に出せる写真を写したい」 と答えて、岡村を驚かせ、嘆かせた。
岡村はもっとも早くからベトナムに行っていたカメラマンだった。岡村にしてみれば「フォト・ジャーナリストとしてもっと高い目的、例えば戦争を弾劾する、平和に貢献するとか、ヒューマンな写真を写しに行きたい、という優等生の答えを期待していたのかもしれない」と平敷は書く。
なお、私は混ぜて使ってしまっているが、平敷によれば、カメラを持って写して糧を得ている人を「カメラマン」、すでに名をなし、素晴らしい写真を撮る人を「フォトグラファー」、もう一段上の人を「フォト・ジャーナリスト」と呼ぶそうだ。
実際に澤田に会った人の書いたものとして、平敷の文章は貴重だ。「黙々とどんな危ない戦場にも行き、コツコツと取材を積み重ね、大事な瞬間を逃さずにモノにしている」澤田に、平敷は尊敬の念を抱いていたが、無口な澤田はとっつきにくかったとも書いている。後に親しくなった時には、澤田自身がどんなにサタ夫人を尊敬しているかという話も聞いたそうだ。
澤田教一は1936年、青森の生まれ。ベトナムで取材したのは1964年~1968年。1970年にカンボジアで殺害された。
現在、澤田自身の書いた文章で読むことのできるのは『コレクション 戦争と文学2 ベトナム戦争」に収められた「17度線の激戦地を行く(初出はサンデー毎日1967年6月18日号)だけではないだろうか。石川文洋、開高健、小田実…多数の文章が収められている中で、澤田の文章はわずか12ページと最も短い。当たり前だが、そこには「私は自ら選んでベトナムへきた。自己追求のつもりであった。戦場で人生を知ろうと思った」(石川文洋)という動機の説明もなく、「゛アジアの戦争の実態を見とどけたい゛という言葉をサイゴンで何度となく口のなかでつぶやいたためにいまこんなジャングルのはずれの汗くさい兵舎で寝ている」(開高健)というぼやきもない。
ヘリコプターで移動し、いきなり戦場に着く。目の前で兵が撃たれる。あまりにも攻撃が激しくなると頭を上げることもできず撮影ができないので、地面にあお向けに寝転ぶ。夏空は青く澄んでいる。
負傷兵を連れ戻すのを助けたり、知っている中佐と再会したり。それらがあくまでも淡々と書かれる。
短い文章だが、終わりの部分は印象的だ。
この夜も、死者が1人出た。だが兵隊たちは、「1人だけですんだ」という。早朝から、空からの援護爆撃をうけ たH中隊は、再びアンスアン村の探索に出発した。
村は跡かたもないまでに、完全に破壊されていた。コンクリート製の防空壕のまわりに、自動小銃用のカラの弾が、数個落ちているだけだった。
シンプルで美しい文章だと思う。
動乱の渦中で直接に取材し、そこに国際的な関係がからみ合い、それが日本に影響を及ぼしかねない、という点でベトナムは日本のジャーナリズムにとって初めての経験だった、と日野啓三は書いている(『ベトナム報道』)。もちろん「かつて十二月八日にも八月十五日にも、歴史の水面の木の葉のように何もわからずみ翻弄されつくした」と言い、「いまはちがうぞ」と呟いた1929年生まれの日野啓三より少し年下の澤田には、「あの時とは違うぞ」という気負いはあまりなかったと思う。
日野によれば、日本人であることはベトナムの取材で有利に働くこともあったらしい。西洋人は長らくベトナム人を見下してきたし(だからベトナム人は心を開かない)、韓国や中国には自国の軍がベトナムに出兵するかもしれないという事情がある。そうでない日本人には、取材のしやすい面もあったようだ。
澤田教一はそもそも、高い志を抱いてベトナムへ行ったわけではない。
後に澤田の遺体を引き取りにいくことになる、テレビカメラマンの平敷安常は『キャパになれなかったカメラマン--ベトナム戦争の語り部たち』の中で、実際に交流のあった多くのカメラマンについて書いている。
澤田は岡村昭彦に会ったとき「何しにベトナムへ行きた いのか」と訊ねられて「写真展に出せる写真を写したい」 と答えて、岡村を驚かせ、嘆かせた。
岡村はもっとも早くからベトナムに行っていたカメラマンだった。岡村にしてみれば「フォト・ジャーナリストとしてもっと高い目的、例えば戦争を弾劾する、平和に貢献するとか、ヒューマンな写真を写しに行きたい、という優等生の答えを期待していたのかもしれない」と平敷は書く。
なお、私は混ぜて使ってしまっているが、平敷によれば、カメラを持って写して糧を得ている人を「カメラマン」、すでに名をなし、素晴らしい写真を撮る人を「フォトグラファー」、もう一段上の人を「フォト・ジャーナリスト」と呼ぶそうだ。
実際に澤田に会った人の書いたものとして、平敷の文章は貴重だ。「黙々とどんな危ない戦場にも行き、コツコツと取材を積み重ね、大事な瞬間を逃さずにモノにしている」澤田に、平敷は尊敬の念を抱いていたが、無口な澤田はとっつきにくかったとも書いている。後に親しくなった時には、澤田自身がどんなにサタ夫人を尊敬しているかという話も聞いたそうだ。