2013年08月26日

『山桜』(映画)の感想

TV放映された『山桜』を見た。『青い鳥』は見た後で、「あ、この脚本を書いた長谷川康夫・飯田健三郎という人たちは『真夏のオリオン』の脚本を書いた人たちだったんだ」と知ったのだが、今回は初めから、その長谷川・飯田脚本の映画であることを知って、見た。
 以下の文章では『山桜』の内容に触れています。ご了承ください。

 藤沢周平原作。
 下級武士の娘・野枝は夫に先立たれ、磯村という男と再婚。しかし幸せな生活とは言えない。夫が一番に考えているのは金儲けで、義母は「嫁は使えるだけ使え」と思っているような人。
 実は磯村との再婚前に、手塚という男との縁談もあったのだが、剣が上手という男を野枝はなんとなく怖いと思い、野枝の母は手塚が母と二人暮らしなのを気にして断ったのだ。
 藩は凶作が続いているのに、重臣の諏訪は新田開発を断行し、しかも耕す者のいなくなった田はただ同然で買い上げ、私服を肥やしている。そんな諏訪に、磯村は取り入ろうとしている。
 百姓の窮状と、諏訪が藩内の不満を握りつぶしていることを知った手塚は、諏訪を討つ。
 野枝は、夫の磯村から、不満たらたらにそのことを聞かされる。
「そんなことをして一体何になる。手塚本人は一文の得をするわけでもない」
 野枝は離縁して実家に戻る…

 野枝が手塚と結ばれる、とは一言も言わない。はっきりさせない。にもかかわらず、この二人が結ばれるといいなと感じさせる。
 ここには「人が『この人こそは』と誰かを好きになる」時の様子が巧く描かれていると思う。
 磯村は嫌な感じに描かれているが、現実的に考えれば金儲けに熱心なしっかり者かもしれない。義母だって嫁を仕込むいい姑と言えなくもない。それでも「好きになる」のには、それだけでは足りないのだ。
 野枝と手塚が話を交わすのは、墓参りで出会った一場面のみである。でもその時、二人には(そして見ている側にも)二人は同じ種類の人間だということがわかる。二人は、祖先への礼だとか正義だとかいう見えないものを尊ぶという点で、同類なのだ。そして野枝がはっきりそのことを自覚するのが、手塚が諏訪を討ったと聞いた時だ。それがわかるからこそ、見ている側は、はっきり示されなかった映画の結末の後に、この二人が結ばれてほしいと願う。そういう語り方の上手な映画だった。
 最後の歌の挿入は、クレジット・タイトルになってからにしてほしかったけど。
  

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2013年08月23日

多和田葉子の二つの小説

多和田葉子の本を続けて読んだ。一冊は『尼僧とキューピッドの弓』。もう一冊は『雲をつかむ話』。というわけで、以下の文章では、この二作の内容に触れています。ご了承ください。

『尼僧とキューピッドの弓』では、取材のために修道院を訪れた「わたし」が、そこに住むさまざまな人たちから話を聞いていく第一部と、「わたし」の本に書かれた当人が、自分でその件について語る第二部から成っている。
 その件、というのは、せっかく修道院長として就任した女性が1年で辞めてしまうことになったいきさつ。そのいきさつは、周囲の人から批判されたりからかわれたりしながら語られるのだが、それがどういう事件だったかということよりも、修道院に住む人たちと「わたし」の会話が面白い。
 修道院に住む、と書いたが、この人たちは信仰心はあるが、ずーっと世間から離れて暮らしてきたわけではない。教会に所属していれば(教会税を払っていれば)、空き部屋ができた時に応募し、面接を受け、試しに数ヶ月住んでみてから、正式に修道院の一員になれるのだという。
 そういう修道院のあり方というのが興味深かった。なるほど、離婚などして1人になった女性にとっては安全に暮らせる場所だとも言えるし、人の住まない建物は傷むから歴史的建造物を守るという意味もあるわけだ。
 もう一冊の『雲をつかむ話』。
 偶然にも犯罪者と出会うことになった「わたし」は、後にその人から手紙をもらい、刑務所に面会に行こうかと思いつつ、行かないままにしてしまう。が、そのことが気になって仕方がない。気にし始めてみると、1人が無賃乗車の常連だという双子に出会ったり、日本語に興味があるからと「わたし」に近づいてきた人が後に犯罪に巻き込まれたりする。つながるようなつながらないような話の続いていく様子が面白い。
 そして、偶然かもしれないが、この二つの小説は対照的なものをちらっと出現させて終わっている。
『尼僧とキューピッドの弓』では、修道院長は「悪魔」を見たと思う。
 それに対して、『雲をつかむ話』では、最後に女医が現れて、面会に行こうとする「わたし」を止める。女医は、危険なほうに行こうとする「わたし」を救ってくれるわけだ。彼女は「天使」と呼ばれてはいないけれども、そういう意味で、まるで対になった二作品を読んだような気がした。  

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2013年08月17日

『男たちの大和YAMATO』感想 

 以下は、TVで『男たちの大和YAMATO』を見た感想ですので、この映画の内容に触れています。ご了承ください。

「戦争映画を見に行こう」と思って見に行った人が満足をするような映画。
 たぶん、戦艦好き、という人はいると思うのだけれど、まずはたっぷりと大和の威容を見せる。
 そしてストーリー上でも、戦争映画に出てきそうなことは、ほとんどすべて登場する。上官からのしごきもあり、それに反発する者もあり。同じ船に乗った者どうしの友情もあり、いったん陸に上がって再び出発する時にはせつない別れもあり。
 その上、戦闘シーンはたっぷり。自分に害が及ぶはずもない映画の画面の中でなら、すさまじい戦闘シーンを見たいという人はいるだろう。血は飛び散るし、人は吹っ飛ぶし、燃える。そういうものを見せることによって戦争の悲惨さを伝えることができるのだ、という理屈が戦争映画には成り立つ。
 戦争が終わっても、友人の死をその母に伝えに行って「ごめんなさい、自分だけ生き残ってごめんなさい」と土下座するシーンもある。一つ一つのシーンは、どこかで見たような気がするものであっても、「戦争では、そういうことがあちこちで起こっていたのだ」と言われれば、そうでしょうと思う。現代の場面も含めて、その「万遍ない描き方」は巧い。
 もう死ぬとわかっているような最後の攻撃に出る前に出てくるセリフ。
「敗れて目覚める。それ以外に日本が救われる道はない。今日目覚めずして、いつ救われる? 俺たちは日本があたらしく生まれ変わるために、そのさきがけとして散る。まさに本望じゃないか」
 こじつけの理由だとは思うが、一番印象に残ったセリフだった。  

Posted by mc1479 at 06:32Comments(0)TrackBack(0)

2013年08月15日

『THE 有頂天ホテル』

 この映画が大ヒット作であるのは聞いていたし、三谷幸喜脚本・監督の映画であるのも知っていたが、見るのは初めて。
 以下の文章では、この映画の内容に触れています。ご了承ください。

 ひとことで言えば「面白い!」
 もうひとこと足せば「たくさんの俳優さんに見せ場を作って上手にまとめている」
 でも、それ以上何か突っ込んで言いたくなるかというと、それはないかも…という感じ。
 基本的には前向きのラスト、というのは好きだし、正月にふさわしい(映画の舞台になるのは大晦日から新年にかけてのホテル)。どちらかというと男よりも女のほうがしっかりしているのも、まあよろしい。では、もう一度じっくり見たいですか? と問われたら、見るとしたらきっと構成の巧さを確認するためだろうと思う。誰かに夢中になって見るという見方ではない。

 三谷幸喜脚本・監督作品で見たものは『ラヂオの時間』『ザ・マジックアワー』『ステキな金縛り』と、これ(全部TV]放映されたものだがノーカット)。三谷脚本を他の監督が撮ったもので見たのは『笑の大学』。
 こう並べてみると、短時間の内に起こった出来事、という制限のある『ラヂオの時間』と『THE 有頂天ホテル』が面白かったと思う。ラジオドラマを生放送する間、とか、大晦日の2時間、とか時間的制約のあるほうが、いろいろ刈り込まれてよくなるのかもしれない。
 豪華キャストも三谷作品の売りだと思うが、この作品は見ながら「う~ん、この人とこの人が逆だったらどうだろう?」と思ったりもした。たとえばコールガールの篠原涼子と、ホテル客室係の松たか子。逆に、コールガールが松たか子で、客室係が篠原涼子のほうが面白いんじゃないか?と。
 実はこの映画全体のまとめ役とも言うべきホテルの副支配人役の役所広司が、私には一番「この人が最適なのか?」と思われるキャスティングだった。彼が巧い俳優であることに異論はないが、お客様のことを常に考えながら実は見栄っ張り、というこの人物。「見栄っ張り」の部分が最初見えなかったので、元妻に会った途端にホテルの宿泊客を装うという展開が唐突に感じられた。そしてそのウソによって展開される場面も、そこまで笑えるとは思えない。かと言ってじゃあ誰が適役か?と問われるとなかなか思いつかない…難役だとは思うのだが、何か「役所広司の役ではない」という気がしてならない。
 意外な格好で登場して最後までそのままで押し切るオダギリジョーが、役を演じるという点では一番楽しんでいるのかもしれないが、じゃあもし私が彼のファンだったら、このビジュアルを見て楽しいだろうかと考えると疑問。
 ここには「大好き!」と言えるようなキャラは出てこないが、あくまでもストーリーや全体で見せるのがエンタテイメントなのだという考えが作者にはあるのかもしれない。  

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2013年08月09日

ショートストーリーなごや(映画)

 この、ショートストーリー(3本立て)を見に行ったのは初めて。失礼ながらもっと素人っぽいものを想像していたので、普通の(映画館で公開される)映画であることにまず驚いた。

「過去を描いた伊藤さんの話」
 栄で風景画を描いている…ように見えながら、描かれた絵は昔の風景だった、という設定が魅力的。原作では、3・11のあと、その悲惨な光景と空襲後の栄を重ね合わせた伊藤さんが、やがてそこから抜け出して明るい現在の絵を描くところがクライマックスだろう。
 もちろん映像でもそういう展開はあるのだけれど、伊藤さんの描く過去を、原作よりも強く伊藤さんの妻の思い出と結び付けている。その分、破壊からまたそれを超えて…という点は弱くなったような気がする。
 過去の風景(写真)は、あまり大量に用いるより、焼け野原になったものを強調して使ったほうが印象に残るように思うのだが、どうだろうか。

「キスナナ the final」
 これは発想勝ち。ナナちゃんにキスをするというあり得ない話を見せてしまうんだから。それを阻止しようとする花屋のおじさんとの闘いも面白い。もっとも肝心のナナちゃんにどうやってよじ登ったのかはよくわからないのだが、ナナちゃんの肩にまたがって思いっきりキスをする映像だけで笑える。
 そして、原作にはない、驚きの最後。これを付け加えたことで原作を超えて、映画らしくなっている。

「矢田川のバッハ」
 原作では「軽いうつ病」であるとされているママが、ここではそういう言葉は使われないので、やや曖昧だが、9歳のボクとママの不安は伝わってくる。でも矢田川のほとりのコリアンダーは、プランターではなく地面に生い茂っていてほしかった。
 原作では「芽が出ない」ことになっていた、ママがべランダの鉢で育てようとしたコリアンダー。映画では、出てきた芽をボクが抜いてしまう。この時のボクには共感しにくかった。でも原作のように「過去のできごと」にはせず、この先に向かっていけるようなラストにしたのはいいと思う。  

Posted by mc1479 at 19:09Comments(0)TrackBack(0)

2013年08月06日

『青い鳥』

 正直言って、こういう映画があること自体知らなかった。NHKのBSで放映されたのを見た。重松清の原作も読んでいない。
 以下の文章では、映画『青い鳥』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 いじめによる自殺未遂のあった中学校。自殺未遂を起こした生徒・野口は転校してゆき、何事もなかったかのように始まる新学期。ただし、担任の先生が休職したため、臨時で、新しい村内先生(阿部寛)がやってくる。吃音という設定だが、わざとらしい演技でないのが、まず良かった。
 村内先生は、野口の机をもう一度教室に運び入れ、朝礼時に「野口くん、おはよう」と言う(毎回、この「野口くん、おはよう」の時には村内先生はスムーズにしゃべる)。何日かすると、反発する生徒も出てくる。もう終わったんじゃないのか、俺たちは反省したじゃないか、というわけだ。一方で「あの先生、一日でクラス全員の名前を覚えたよね」と好感を持つ生徒もいる。臨時でクラブの担当もないためか、村内先生は放課後になると、グラウンドで活動する生徒たちを見ている。
 学級委員の園部は、野口が遺書に3人の名前を挙げたというのが気になっていた。たぶん学級内で力の強い井上、梅田、そして三人目は自分ではないのか。自分も調子に乗って同じことをしてしまったから、野口は「裏切られた」と思ったんじゃないか。
 村内先生は去る前の日に、「反省文を書き直したい人はそうしなさい。直さなくていいと思う人は自習」と告げる。野口が自殺未遂を起こしたあと、クラス全員が5枚以上の反省文を書いて、教員全員で見て書き直させ、完成させた経緯があるのだ。反省文を書き直そうとするのは、もちろん全員ではない。しかし何人かが書き始める…
 
 ドラマチックに盛り上げることを狙わず、淡々となるべくリアルに描こうとする姿勢のある映画だ。自殺未遂の生徒の親がマスコミに「遺書」を見せたというのも、クラス全員が誰に見られても困らない反省文を書いたというのも、校内に「相談したいことのある人はここへ入れてください」という青い鳥ポストを設置したというのも、いかにもありそうだ。
 そんな中にあって阿部寛だけが、ときどき異世界から来た人のように見えたりするが、まあ彼は実際にこの学校にとっては異端者なのだから、それでいいのかもしれない。学校に保管してあった「反省文」を焼く、というのは臨時教員としてはあり得ない行為だとは思うが…
 しかし「反省」ではなく「責任」を、野口くんがここにいたことを、野口くんにしたことを忘れてはいけない、という「責任」を突きつける厳しさには見るべきものがあると思った。  

Posted by mc1479 at 14:54Comments(0)TrackBack(0)

2013年08月05日

『バブルへGO!』

 バブルの時代にタイムマシンで行く話、というのは知っていたので、じゃあ行ってどうするのか、が気になったのと、日本映画のコメディってそもそもどういうものなのかを知りたい思いで、見た。もちろん小難しい話ではない。
 というわけで、以下の文章では映画『バブルへGO!』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 長引く不況に日本経済が破綻すると考えた大蔵省の役人が、偶然発明されたタイムマシンで17年前に行って、「不動産の投機を目的とした銀行への取引融資の規制」を実行させまいとする。映画の公開されたのは2007年、だから17年前は1990年だ。
 1990年に到着した時の変化は、まず音楽やCM,ファッション等で表現される。
 タイムマシンが洗濯機なので小柄な人しか乗れなかったり、どうやらこのタイムマシンは17年前と現在しか行き来できないようだったりするのは、作り話だからまぁ良し。2007年では、同棲していた男の借金に追われている女主人公は、1990年のバカバカしくも賑やかな一夜を経験して「バブルって楽し~い!」と叫ぶ。
 いくらあの時代でも良いことづくしではなかっただろうけれど、作り手が、あの時代を本当に好きなのだろうなというのは、よくわかる。ただ、それを描くのを楽しみすぎて、先にこの時代へやってきた、女主人公の母をあまり一生懸命に探していないように見えたり、大蔵省の中の悪人と戦うドタバタがちょっと長過ぎるんじゃないかと思えたり。
 広末涼子ファンにとっては、彼女のキャバ嬢姿や芸者姿、ダンスまで見られるんだから楽しいだろう。阿部寛を見たい人にも、薬師丸ひろ子を見たい人にも、気を配っている。
 でも全体的にもう少し短めでテンポ良かったらもっといいのに、と思う。そして「無理にバブルを終わらせなかったら、すべてがうまく行った」と言いたげなラストにも「本当か?」と突っ込みたくなる。
 もちろん、奮闘した女主人公が報われることに異論はないのだけれど、それが「キャバ嬢ではなく、本当のお嬢様になる」という結末なのが何となくひっかかる。しょせん、自分の関わる男が変わったから立場が変わっただけじゃないか、とすると、これはアメリカ映画によくある「頑張って自分の力で手に入れる」という話とは似て非なるものなのだ。
 そして、ハッピーエンディングの重要な要素に「家族と暮らすこと」が入っているような描き方がされると、それもまた日本のコメディにとっては重要なポイントなのかもしれないと思う。
 いろいろ頑張っているな、と思いつつ、個々の描写は楽しませてもらいつつ、やっぱりコメディを上手に作るのは難しいことだと感じた。  

Posted by mc1479 at 06:55Comments(0)TrackBack(0)
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