2016年04月26日
小川洋子「最果てアーケード」感想
以下の文章では、小川洋子の「最果てアーケード」の内容に触れています。ご了承ください。
久しぶりに小川洋子の作品を読んだ。もっとも、それはこちらの都合で、作者はコンスタントに発表し続けているのだと思うが。
小川洋子は、その出発時から「少女漫画のような」と形容される作品を書いてきたと思うが、「最果てアーケード」はそのものズバリ、マンガの原作だそうだ。もちろん、マンガとは異なる書き足しもあるかもしれない。マンガ化された作品は、私は見ていないので、比較はできない。
そういうことは置いておいて、やはりマンガ的、いや、彼女の描く世界がマンガにぴったり合っているようなところは感じられた。
この人の書くものは、どこか生々しさを欠いている。醜さ、と言ってもいい。
小川作品とは関係ないが、アニメのお年寄りはみんな可愛いという話がある。実際のお年寄りが可愛くない、と言っているのではない。アニメでもしわは描かれ、姿勢が前傾していたりはする。それでもアニメのお年寄りは可愛い。
小川洋子の描く人物にも、どこかそういうところがある。
たとえば、剥げかけたマニキュアをつけた、子細にみれば古びた服を着た「兎夫人」は近くで見れば不気味にもあわれにも感じられるかもしれない。しかし、作者はその不気味さを強調したりはしない。むしろ、かわいそうな人に見える。
「死」が描かれることがあっても、葬式やそれに伴ういざこざや、手間のかかることは描かれない。
火事で亡くなる人があっても、人の焦げた臭いがした、などとは絶対に書かない。
そのへんが、小川洋子作品の「生々しさの欠如」であり、もしかしたらもの足りない思いをする人もいるのかもしれないが、逆に作品に童話的と言っていい雰囲気を与えているのも確かだと思う。
久しぶりに小川洋子の作品を読んだ。もっとも、それはこちらの都合で、作者はコンスタントに発表し続けているのだと思うが。
小川洋子は、その出発時から「少女漫画のような」と形容される作品を書いてきたと思うが、「最果てアーケード」はそのものズバリ、マンガの原作だそうだ。もちろん、マンガとは異なる書き足しもあるかもしれない。マンガ化された作品は、私は見ていないので、比較はできない。
そういうことは置いておいて、やはりマンガ的、いや、彼女の描く世界がマンガにぴったり合っているようなところは感じられた。
この人の書くものは、どこか生々しさを欠いている。醜さ、と言ってもいい。
小川作品とは関係ないが、アニメのお年寄りはみんな可愛いという話がある。実際のお年寄りが可愛くない、と言っているのではない。アニメでもしわは描かれ、姿勢が前傾していたりはする。それでもアニメのお年寄りは可愛い。
小川洋子の描く人物にも、どこかそういうところがある。
たとえば、剥げかけたマニキュアをつけた、子細にみれば古びた服を着た「兎夫人」は近くで見れば不気味にもあわれにも感じられるかもしれない。しかし、作者はその不気味さを強調したりはしない。むしろ、かわいそうな人に見える。
「死」が描かれることがあっても、葬式やそれに伴ういざこざや、手間のかかることは描かれない。
火事で亡くなる人があっても、人の焦げた臭いがした、などとは絶対に書かない。
そのへんが、小川洋子作品の「生々しさの欠如」であり、もしかしたらもの足りない思いをする人もいるのかもしれないが、逆に作品に童話的と言っていい雰囲気を与えているのも確かだと思う。
2016年04月25日
「あさが来た」スピンオフ
以下の文章では「あさが来た」スピンオフドラマの内容に触れています。ご了承ください。
朝ドラをまともに見てこなかったので知らなかったのだが、最近の朝ドラは本編放映が終わってしばらくするとスピンオフが放映される、という慣習ができているらしい。
本編撮影が終わってから撮影されることもあるようだが、「あさが来た」の場合は、最終週の撮影と重なるような撮影時期だったようだ。脚本は、本編と違い三谷昌登さん。本編担当の大森美香さんが脚本監修。演出は、本編のチーフ演出だった西谷真一さん。
加野屋がいよいよ加野銀行を始める準備をしている頃、亀助はふゆと結婚して九州へ行っていたが、京都へ一時戻って来ていた。ふゆと結婚したものの、ふゆの父に許しを得ていないことがいまだに気になっている亀助は、この機会に、美和の経営するレストラン「晴花亭」で、ふゆの父に挨拶したいと思い、連絡した。
しかし会う前に心配になり、雁助に練習相手をしてくれと頼む。晴花亭には美和の先輩にあたるサツキが来ていて、夫についての愚痴をこぼしていた。そのサツキが亀助の話を聞いて参加して……とまあ、想像できるようなドタバタが展開する。ふゆの父は本編では少し登場しただけだが強烈な印象を残す人だったので、ここでまた出てくるのも、どんなことになるのかと期待させる。本編のメインの登場人物たちは忙しいので、サツキという新キャラクターを出して、ドタバタに加勢させるのもいいアイディアだと思う。
やり取りにも、単に面白いだけでない「なるほど」と思わせるところがあった。亀助は最初練習する時には、ひたすら「すんまへん」と言うのだが、サツキのアドバイスもあって、「おおきに」と言うことにする。ふゆのお父さんに「わざわざ来てもろて、おおきに」ふゆさんを育ててもろて「おおきに」。そのほうが相手も感じよく受け取れるのではないか。もちろん、話の展開上、亀助が慌てるような事態になって思わず「すんまへん」と言ってしまい、「すんまへん言うたな。悪いと思うこと、したんやな」と突っ込まれる場面もあるのだが、落ち着いた時にやっと亀助の言う「おおきに」で、ふゆの父の気持ちも収まることになる。
思い出してみれば、あさが祝言の日に加野屋に来た時、亀助が言ったのが「すんまへん」だった(新郎の新次郎が祝言を忘れて出かけていたので)。
そして、新次郎が亡くなる前に集まった皆に言ったのが「おおきに」だった。
そう思えば、あさの新次郎との生活は「すんまへんとおおきにの間」にあったわけで、このスピンオフのキーになる言葉に、それらを持ってきたのは本編のツボを押さえた作り方だったと言えるだろう。
そして、亀助の危機!? と晴花亭にやって来る加野屋のメンバー、栄三郎、よの、かのたち。帰ってきたら皆がいないので、やはり晴花亭に来る、あさと新次郎たち。
もと芸妓のサツキから「お久しぶりです」と言われて新次郎が慌てるのも、ヤキモチを焼く表情をするあさの頬を新次郎がつまむのも、お約束とは言え、微笑ましい。
最終回まで見て、よのが亡くなり、かのが去り、新次郎の亡くなるまでを見た後でこれを見ると、若々しい加野屋メンバーが、ふゆのお父さんや亀助を囲んで乾杯する様子を見るだけでしんみりする。亀助と雁助のやり取りが好きだった人には、たっぷり聞けて満足だろう。もうひとりの放っておかれキャラだった、最初にふゆと結婚したいと言ってきた洋傘屋さんも意外にいいところを見せて、うまくまとめている。
もちろん、もっと違うメンバーのその後を見たかったという人には不満もあるかもしれないが、スピンオフはスピンオフ。本編のちょっと変わったカーテンコールと思って楽しんだ。
朝ドラをまともに見てこなかったので知らなかったのだが、最近の朝ドラは本編放映が終わってしばらくするとスピンオフが放映される、という慣習ができているらしい。
本編撮影が終わってから撮影されることもあるようだが、「あさが来た」の場合は、最終週の撮影と重なるような撮影時期だったようだ。脚本は、本編と違い三谷昌登さん。本編担当の大森美香さんが脚本監修。演出は、本編のチーフ演出だった西谷真一さん。
加野屋がいよいよ加野銀行を始める準備をしている頃、亀助はふゆと結婚して九州へ行っていたが、京都へ一時戻って来ていた。ふゆと結婚したものの、ふゆの父に許しを得ていないことがいまだに気になっている亀助は、この機会に、美和の経営するレストラン「晴花亭」で、ふゆの父に挨拶したいと思い、連絡した。
しかし会う前に心配になり、雁助に練習相手をしてくれと頼む。晴花亭には美和の先輩にあたるサツキが来ていて、夫についての愚痴をこぼしていた。そのサツキが亀助の話を聞いて参加して……とまあ、想像できるようなドタバタが展開する。ふゆの父は本編では少し登場しただけだが強烈な印象を残す人だったので、ここでまた出てくるのも、どんなことになるのかと期待させる。本編のメインの登場人物たちは忙しいので、サツキという新キャラクターを出して、ドタバタに加勢させるのもいいアイディアだと思う。
やり取りにも、単に面白いだけでない「なるほど」と思わせるところがあった。亀助は最初練習する時には、ひたすら「すんまへん」と言うのだが、サツキのアドバイスもあって、「おおきに」と言うことにする。ふゆのお父さんに「わざわざ来てもろて、おおきに」ふゆさんを育ててもろて「おおきに」。そのほうが相手も感じよく受け取れるのではないか。もちろん、話の展開上、亀助が慌てるような事態になって思わず「すんまへん」と言ってしまい、「すんまへん言うたな。悪いと思うこと、したんやな」と突っ込まれる場面もあるのだが、落ち着いた時にやっと亀助の言う「おおきに」で、ふゆの父の気持ちも収まることになる。
思い出してみれば、あさが祝言の日に加野屋に来た時、亀助が言ったのが「すんまへん」だった(新郎の新次郎が祝言を忘れて出かけていたので)。
そして、新次郎が亡くなる前に集まった皆に言ったのが「おおきに」だった。
そう思えば、あさの新次郎との生活は「すんまへんとおおきにの間」にあったわけで、このスピンオフのキーになる言葉に、それらを持ってきたのは本編のツボを押さえた作り方だったと言えるだろう。
そして、亀助の危機!? と晴花亭にやって来る加野屋のメンバー、栄三郎、よの、かのたち。帰ってきたら皆がいないので、やはり晴花亭に来る、あさと新次郎たち。
もと芸妓のサツキから「お久しぶりです」と言われて新次郎が慌てるのも、ヤキモチを焼く表情をするあさの頬を新次郎がつまむのも、お約束とは言え、微笑ましい。
最終回まで見て、よのが亡くなり、かのが去り、新次郎の亡くなるまでを見た後でこれを見ると、若々しい加野屋メンバーが、ふゆのお父さんや亀助を囲んで乾杯する様子を見るだけでしんみりする。亀助と雁助のやり取りが好きだった人には、たっぷり聞けて満足だろう。もうひとりの放っておかれキャラだった、最初にふゆと結婚したいと言ってきた洋傘屋さんも意外にいいところを見せて、うまくまとめている。
もちろん、もっと違うメンバーのその後を見たかったという人には不満もあるかもしれないが、スピンオフはスピンオフ。本編のちょっと変わったカーテンコールと思って楽しんだ。
2016年04月08日
Mrホームズ 名探偵最後の事件
以下の文章では、映画『Mrホームズ 名探偵最後の事件』の内容・結末に触れています。ご了承ください。
ホームズ大好き、な人ならもっと細部が楽しめるのかもしれない。コナン・ドイル原作のものではなく、引退したホームズを想像して描いた小説がもとになっている。
90歳を越えたホームズは、海辺の家でミツバチを飼って暮らしている。相棒だったワトソンはとうに亡くなり、家政婦とその息子が話し相手だ。
冒頭のホームズは、日本から帰ってきたところ。長年のファンでミツバチにも薬草にも詳しいと手紙を送ってきた男を訪ねたのだ。どうやら自分の記憶の衰えを意識しているらしいホームズは、それを少しでも食い止めようと薬草を日本から持ち帰ってきたらしい。しかし日本で会った男は実は「父は、イギリスであなたに会ってから、日本に帰って来なかった」と恨みを言うためにホームズと話したかったようだ。だが、その男の父とどんな会話を交わしたか、ホームズには思い出せない。この日本パートで出てくるのが真田広之。
ホームズにはもうひとつ、はっきりとは思い出せない事件がある。自分が引退するきっかけになった事件だ。ワトソンが書き残したものとは結末が違っていたと思うのだが、それが思い出せない。
家政婦とその息子とのやり取り、日常の中で起きる事件を通しながら、ホームズはやがて、戦争が始まった時に日本人に告げた言葉を思い出し、最後の事件の結末も思い出す。いずれの場合も、ホームズは正しいことを言ったのだが、関係者は幸せにはならなかった。
今のホームズは、家政婦とその息子を引き止めることが自分にとって必要だということがわかる。孤独を教養で埋めてきた男が、無学な家政婦に頼みごとをし、その息子と心を通わせる。
そんなのホームズじゃない、という人もいるかもしれない。日本人としては「不思議の国ニッポン」みたいな日本パートも気にかかる。
しかし、回想シーンで登場するホームズがスタイリッシュなので(もちろん、老ホームズと同じイアン・マッケランが演じている)それを見るだけでもいいか、という気にもなる。つまり私がホームズものを見る楽しみは、世紀末の雰囲気を感じる楽しみによるところが大きいのだろう。
ホームズ大好き、な人ならもっと細部が楽しめるのかもしれない。コナン・ドイル原作のものではなく、引退したホームズを想像して描いた小説がもとになっている。
90歳を越えたホームズは、海辺の家でミツバチを飼って暮らしている。相棒だったワトソンはとうに亡くなり、家政婦とその息子が話し相手だ。
冒頭のホームズは、日本から帰ってきたところ。長年のファンでミツバチにも薬草にも詳しいと手紙を送ってきた男を訪ねたのだ。どうやら自分の記憶の衰えを意識しているらしいホームズは、それを少しでも食い止めようと薬草を日本から持ち帰ってきたらしい。しかし日本で会った男は実は「父は、イギリスであなたに会ってから、日本に帰って来なかった」と恨みを言うためにホームズと話したかったようだ。だが、その男の父とどんな会話を交わしたか、ホームズには思い出せない。この日本パートで出てくるのが真田広之。
ホームズにはもうひとつ、はっきりとは思い出せない事件がある。自分が引退するきっかけになった事件だ。ワトソンが書き残したものとは結末が違っていたと思うのだが、それが思い出せない。
家政婦とその息子とのやり取り、日常の中で起きる事件を通しながら、ホームズはやがて、戦争が始まった時に日本人に告げた言葉を思い出し、最後の事件の結末も思い出す。いずれの場合も、ホームズは正しいことを言ったのだが、関係者は幸せにはならなかった。
今のホームズは、家政婦とその息子を引き止めることが自分にとって必要だということがわかる。孤独を教養で埋めてきた男が、無学な家政婦に頼みごとをし、その息子と心を通わせる。
そんなのホームズじゃない、という人もいるかもしれない。日本人としては「不思議の国ニッポン」みたいな日本パートも気にかかる。
しかし、回想シーンで登場するホームズがスタイリッシュなので(もちろん、老ホームズと同じイアン・マッケランが演じている)それを見るだけでもいいか、という気にもなる。つまり私がホームズものを見る楽しみは、世紀末の雰囲気を感じる楽しみによるところが大きいのだろう。
2016年04月04日
あさが来た
以下の文章では、ドラマ『あさが来た』の内容・最終シーンに触れています。ご了承ください。
朝ドラを最初から最後まで通して見たのが初めての私が言うのも何だが、上手に作られたドラマだったと思う。
【時代劇であることを利用】
朝ドラ初の「幕末から始まるドラマ」と宣伝された。こういう時代設定になったのには、制作統括の佐野元彦さんの意向が反映しているような気がする。『篤姫』で、将軍や姫の立場から描いた幕末を商人の側から描きたい……確か、そういう発言もあったと思う。
「時代劇」という枠を設定することで、はつとあさの姉妹が決められた相手のもとに嫁いで「お家を守ろう」とする始まりが、無理なく受け入れられた。現代の話なら、男も女もまず自分のために働き、フェミニストならすんなり男の姓を名乗ろうと思わない。そういうところは時代劇だと、あらかじめ決められたこととして通り過ぎてしまえる。
あさが商いを始めようとしてからもそうだった。商家の旦那たちの勉強会に参加した時はじろじろとおいどを見られ、会の後に酒が出れば当然のようにお酌を求められる。現代劇なら「NHKはセクハラを容認するのか」と批判されそうな場面だ。それも「時代劇だから」ということで済まされる。いや、ひるがえって現代でも似たようなことをする男がいることを思い起こさせる皮肉にもなる。
現代を考えさせる、という点では登場人物の死もそうだった。ドラマ中で臨終の場面が描かれた人物は皆、家族に囲まれて自宅で逝く。病室でチューブにつながれて意識不明のまま亡くなることの多くなった現代への批判ととれなくもない。
さらに、登場人物たちの平和主義的なセリフがある。男ばかりの炭坑に乗り込んだあさが、ピストルを出すとたちまち相手がおとなしくなったと語ると、夫の新次郎は次のように語る。
「相手負かしたろ思て武器持つやろ。そしたら相手はそれに負けんようにもっと強い武器を持って……太古の昔からアホな男の考えるこっちゃ。あさは、何もそない力ずくの男の真似せんかて、あんたなりのやり方があるのと違いますか?」
現代への批判ともとれそうなこのことば、現代劇ではなかなかセリフにはしにくいだろう。
【登場人物の面白さ】
しょっちゅうテレビで見る顔、そうでもない顔を取り混ぜたキャストも良かった。ヒロインたちの親の世代はベテランの人たちで固め、あさに対して常に「よくできる姉」であるはつと、その結婚相手で最初は無表情な惣兵衛を、宮﨑あおいさん、柄本佑さんが絶妙に演じた。
ヒロインのあさが健気なだけでなく、ある意味大雑把な性格なのも面白い。新婚で夫が夜出かけてしまっても「考えてもしゃあない。寝よ!」とぐっすり寝てしまう。なるほど事業を次々と興していく女性には、こういう面も必要だろう。甘えるのも下手。人の気持ちに鈍感なところもある。そういう豪快なヒロインを可愛く品のある波瑠さんが生き生きと演じた。
色気を売りにする女が登場しなかったのも、女性視聴者に評判が良かった要因ではないだろうか。仕えることを貫くうめも良かったし、もっとも色っぽいと見えた三味線の師匠・美和は妾は自分の道ではないときっぱり拒否をして、レストラン経営者に転身する。
【やっぱりラブストーリー】
家業の両替商を手伝うところから始まって、炭坑経営、銀行、女粗大設立への協力、生命保険会社と次々に仕事をしていくあさだが、仕事の内容がいちいち詳しく描かれるわけではない。ただ、「先に形にしてしまったほうが勝つ」みたいなセオリーを見せてくれたのは面白かった。あさは常に時代を先取りし、先に形を示してしまうほうが賛同を得やすくなることを心得ていた。最初はお家のためにお金が欲しい欲しいと言っていたあさが、ゆとりができると後の時代に何が残せるかを真剣に考えて教育に力を入れようとする流れも、無理なく描かれていたと思う。
男社会への挑戦と同時に、家の中では娘に反発される。そんなあさを支え続けたのが夫の新次郎。
「このドラマの一番の功績は、『妻を支える夫』というキャラクターを生み出したこと」と言う人もいる。
漫画家の柴門ふみは、このドラマの構図は「古くからの少女漫画の定石」と見抜き、「イケメンがそろいもそろってヒロインを手助けしてくれる」と書いた。まさにその通りで、夫についても、五代友厚についても、自由な創作が多いのだろう。それでも「女主人公がふたりの男の間で揺れ動く」という形にならなかったところに健全さを見る。これは夫も同じで、妾は置かない、と断言する。以来ふたりは年を経てもラブラブ夫婦なのだ。
あさが縫い物が苦手、とか新次郎が雨男、といった設定も生かされていたが、最終週になって「やっぱりラブストーリーなんだ」と感じた。
老いて病を得た新次郎のそばにいるために、仕事から引退するあさ。お互いの大切さを確認し合うふたり。
ひょうひょうとして、でもどこか核心を突くようなことを言う新次郎。お茶、謡、三味線は名人の域。商いは嫌いだが、旦那衆との付き合いを活かして陰で手助けする。つかみどころのなさを残しつつ、やりすぎでない芝居で見せ切った玉木宏さん。
美しい所作、三味線を弾く姿勢。お茶道具を扱う手の動き。巾着を回す動作が印象的だったので、晩年になってそれがなくなり、背が曲がっていくのを見るのはつらかった。
ラストシーンを見て意外に思った人もいたらしい。私も、あさの業績が現代まで続いていますよ、というような終わりかと思っていたのだが、そうではなかった。
老いたあさが話を終えてふと見ると、少し離れたところに若い姿の新次郎が立っている。駆け寄るうちに、あさも若い姿に。
多くの視聴者は「消費できる感動」を求めている。そうした希望に応えるためにも「事実ではないかもしれないが、あってほしい場面」を節目節目に入れてきたこのドラマ。それらをわざとらしくなく見せたのはスタッフ・キャストの力量だ。半年間、この人物たちに親しんできた視聴者が望みそうな、納得できそうな着地点がここだったのだと思う。つまり、女実業家の人生を描きつつ、ずっと愛し合った夫婦の物語だということ。
朝ドラを最初から最後まで通して見たのが初めての私が言うのも何だが、上手に作られたドラマだったと思う。
【時代劇であることを利用】
朝ドラ初の「幕末から始まるドラマ」と宣伝された。こういう時代設定になったのには、制作統括の佐野元彦さんの意向が反映しているような気がする。『篤姫』で、将軍や姫の立場から描いた幕末を商人の側から描きたい……確か、そういう発言もあったと思う。
「時代劇」という枠を設定することで、はつとあさの姉妹が決められた相手のもとに嫁いで「お家を守ろう」とする始まりが、無理なく受け入れられた。現代の話なら、男も女もまず自分のために働き、フェミニストならすんなり男の姓を名乗ろうと思わない。そういうところは時代劇だと、あらかじめ決められたこととして通り過ぎてしまえる。
あさが商いを始めようとしてからもそうだった。商家の旦那たちの勉強会に参加した時はじろじろとおいどを見られ、会の後に酒が出れば当然のようにお酌を求められる。現代劇なら「NHKはセクハラを容認するのか」と批判されそうな場面だ。それも「時代劇だから」ということで済まされる。いや、ひるがえって現代でも似たようなことをする男がいることを思い起こさせる皮肉にもなる。
現代を考えさせる、という点では登場人物の死もそうだった。ドラマ中で臨終の場面が描かれた人物は皆、家族に囲まれて自宅で逝く。病室でチューブにつながれて意識不明のまま亡くなることの多くなった現代への批判ととれなくもない。
さらに、登場人物たちの平和主義的なセリフがある。男ばかりの炭坑に乗り込んだあさが、ピストルを出すとたちまち相手がおとなしくなったと語ると、夫の新次郎は次のように語る。
「相手負かしたろ思て武器持つやろ。そしたら相手はそれに負けんようにもっと強い武器を持って……太古の昔からアホな男の考えるこっちゃ。あさは、何もそない力ずくの男の真似せんかて、あんたなりのやり方があるのと違いますか?」
現代への批判ともとれそうなこのことば、現代劇ではなかなかセリフにはしにくいだろう。
【登場人物の面白さ】
しょっちゅうテレビで見る顔、そうでもない顔を取り混ぜたキャストも良かった。ヒロインたちの親の世代はベテランの人たちで固め、あさに対して常に「よくできる姉」であるはつと、その結婚相手で最初は無表情な惣兵衛を、宮﨑あおいさん、柄本佑さんが絶妙に演じた。
ヒロインのあさが健気なだけでなく、ある意味大雑把な性格なのも面白い。新婚で夫が夜出かけてしまっても「考えてもしゃあない。寝よ!」とぐっすり寝てしまう。なるほど事業を次々と興していく女性には、こういう面も必要だろう。甘えるのも下手。人の気持ちに鈍感なところもある。そういう豪快なヒロインを可愛く品のある波瑠さんが生き生きと演じた。
色気を売りにする女が登場しなかったのも、女性視聴者に評判が良かった要因ではないだろうか。仕えることを貫くうめも良かったし、もっとも色っぽいと見えた三味線の師匠・美和は妾は自分の道ではないときっぱり拒否をして、レストラン経営者に転身する。
【やっぱりラブストーリー】
家業の両替商を手伝うところから始まって、炭坑経営、銀行、女粗大設立への協力、生命保険会社と次々に仕事をしていくあさだが、仕事の内容がいちいち詳しく描かれるわけではない。ただ、「先に形にしてしまったほうが勝つ」みたいなセオリーを見せてくれたのは面白かった。あさは常に時代を先取りし、先に形を示してしまうほうが賛同を得やすくなることを心得ていた。最初はお家のためにお金が欲しい欲しいと言っていたあさが、ゆとりができると後の時代に何が残せるかを真剣に考えて教育に力を入れようとする流れも、無理なく描かれていたと思う。
男社会への挑戦と同時に、家の中では娘に反発される。そんなあさを支え続けたのが夫の新次郎。
「このドラマの一番の功績は、『妻を支える夫』というキャラクターを生み出したこと」と言う人もいる。
漫画家の柴門ふみは、このドラマの構図は「古くからの少女漫画の定石」と見抜き、「イケメンがそろいもそろってヒロインを手助けしてくれる」と書いた。まさにその通りで、夫についても、五代友厚についても、自由な創作が多いのだろう。それでも「女主人公がふたりの男の間で揺れ動く」という形にならなかったところに健全さを見る。これは夫も同じで、妾は置かない、と断言する。以来ふたりは年を経てもラブラブ夫婦なのだ。
あさが縫い物が苦手、とか新次郎が雨男、といった設定も生かされていたが、最終週になって「やっぱりラブストーリーなんだ」と感じた。
老いて病を得た新次郎のそばにいるために、仕事から引退するあさ。お互いの大切さを確認し合うふたり。
ひょうひょうとして、でもどこか核心を突くようなことを言う新次郎。お茶、謡、三味線は名人の域。商いは嫌いだが、旦那衆との付き合いを活かして陰で手助けする。つかみどころのなさを残しつつ、やりすぎでない芝居で見せ切った玉木宏さん。
美しい所作、三味線を弾く姿勢。お茶道具を扱う手の動き。巾着を回す動作が印象的だったので、晩年になってそれがなくなり、背が曲がっていくのを見るのはつらかった。
ラストシーンを見て意外に思った人もいたらしい。私も、あさの業績が現代まで続いていますよ、というような終わりかと思っていたのだが、そうではなかった。
老いたあさが話を終えてふと見ると、少し離れたところに若い姿の新次郎が立っている。駆け寄るうちに、あさも若い姿に。
多くの視聴者は「消費できる感動」を求めている。そうした希望に応えるためにも「事実ではないかもしれないが、あってほしい場面」を節目節目に入れてきたこのドラマ。それらをわざとらしくなく見せたのはスタッフ・キャストの力量だ。半年間、この人物たちに親しんできた視聴者が望みそうな、納得できそうな着地点がここだったのだと思う。つまり、女実業家の人生を描きつつ、ずっと愛し合った夫婦の物語だということ。