2018年08月16日

名人は危うきに遊ぶ

 白洲正子さん著『名人は危うきに遊ぶ』から思ったことです。

 おそらく文章界(という言い方があるのか、どうか)は、「元気・わりと上から目線・シニア」女性の書き手をときどき必要とするのだろう。
 瀬戸内寂聴さんは長くそういう立場であるような気がするし、かつてのドクトルマンボウのお母さんとか宇野千代さんとか、この白洲さんもそんな感じがする。
 で、白洲さんに場合はとりわけ「上等」なのである、ご自分が。そして周りもたぶんそれはそうだと思い、またそれだからこそ原稿をお願いしていた面もあるのではないだろうか。
  
 たとえば、この本の中にある表現。
 「カルチャーセンターに通う人種と、ふつうの生活人との違いが見られるようで面白かった」「やれ森林浴だの、緑のキャンペーンだの(中略)そんなものはカルチャー・センターに任せておけばよろしい」という言い方からは、明らかにカルチャー・センターを軽く見ている目線がうかがえる。世の中には、カルチャーセンターに行って初めて教養を身につけた人もいるかもしれないが、生まれながらにしてあふれる教養を身につけられる立場にいた人は平気なのだ。
 ついでに「日本にはめくらといういい言葉があるのに、禁句になっているとは、なんとユーモアに欠ける国民であることか」とテレビの放送を避けましょう的な言葉づかい集には従いませんよと言いたげな構えも見せる(もちろん著者は目の不自由な人を見下しているわけではありません)。
 しかしこういう「自分は正しい」という書き手は、ある意味必要とされている、というのもそれはそうだろうと思うのだ。そういう文章があってこそ面白い。
 たまに表記で気になる。福原リン太郎氏の文章について「珠玉とか傑作とかいう言葉はこの先生にふさわない」とあるが「ふさわない」という言い方…つまり「ふさう」という動詞があってそれを打ち消したもの…というのは、あるのか?


この記事へのトラックバックURL

 

QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。 解除は→こちら
現在の読者数 0人
プロフィール
mc1479