2014年11月18日

「嗤う分身」

 以下の文章では、映画「嗤う分身」の内容・結末に触れています。ご了承ください。
  
 

原作はドストエフスキーだそうだが、特定の国ではないようなレトロなセットを舞台に展開される。主人公の住むアパート、電車内、勤務先と、ほぼ室内ばかりで、外(街)のシーンもセットだろうが、夜で雨が降っている。
 何の仕事だかよくわからないがデキる奴とは思われていないサイモンの前に、新入りのジェームズが登場する。なぜかサイモンと同じ容姿なのに要領がよく、女にもモテる。そして周囲は、サイモンがしつこく指摘するまで、二人が「同じ顔」だとは気づかない。
 ジェームズは最初は、サイモンに憧れの女性ハナの気を引くコツを教えたりもするが、やがて案の定、ハナはジェームズの方に惹かれて……と、ほぼ予想通りに展開するのだが、予想ほど不気味でも脅迫的でもなかった。ブラック・ユーモアと言うなら、「ブラック」より「ユーモア」のほうが勝っている感じ。
 2役を演じたジェシー・アイゼンバーグは巧いし、憧れられるハナを演じたミア・ワシコウスカも可愛い。ちょっと面白いのは、日本の昭和歌謡が映画中で使われていること。彼女と話すことができて嬉しいサイモンが「上を向いて歩こう」に合わせてちょっと踊るようなポーズをとるのは微笑ましいが、英語圏の人が見る時には、いきなり流れ出す日本語の歌にどういう反応を示すのだろうかと思った。まあ「上を向いて歩こう」の場合は、メロディが有名だからいいのか?  

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2014年11月11日

「マダム・マロリーと魔法のスパイス」

 以下の文章では、映画「マダム・マロリーと魔法のスパイス」の内容・結末に触れています。ご了承ください。


 ムンバイでレストランを営んでいた一家。選挙の暴動で店とママを失い、たどり着いた南フランスでインド料理店を開店する。「フランス人はインド料理を食べないよ」と息子たちは大反対、しかも向かいにはフレンチ・レストランがある。
 予想通りというか、パパと、向かいのフレンチ・レストランの経営者マダム・マロリーは衝突。ひと言で表せば、お互いが「食」を通じて文化の違いを受け入れていく物語。
 122分なのだが、インド人一家の次男と、マロリーのレストランの副シェフの女性との恋、マロリーのレストランに勤める「どうしてもインド人を追い出したい」愛国者、評判になればすぐにインド人一家の次男を引き抜きにやって来るパリのレストラン、そして「恋人に近い」関係になっていくマダム・マロリーとインド人一家のパパ……と盛りだくさん。
 正直言って、次男がパリへ行ってから帰ってくるまでの描写は、雑誌の記事だけで見せるなど、もっと簡単にすませてもいいような気がする。帰ってくるのだろうな、という展開が見えてしまうからだ。
 しかしここでは、フレンチが結局インド料理のスパイスをも取り入れて進化していくことも描きたかったのだろう。と言って、フレンチ礼賛というわけでもないのは、製作や監督がフランス人ではないからだろうか。
 インドのスパイスを入れたオムレツをマダム・マロリーが食べたときに言う、「シャープでクールでホットな味」という感想が印象的。  

Posted by mc1479 at 08:44Comments(0)TrackBack(0)

2014年11月05日

「死にたくなったら電話して」(李龍徳)の感想②

 引き続き、以下の文章では「死にたくなったら電話して」の内容・結末に触れています。ご了承ください。


 初美は友達なんて一人もいない、と言い、徳山が一度だけ友人に連れていかれた、ネットワークビジネスの会社幹部がオーナーをしているバーに行きたいと言って連れていってもらい、徳山を当然のように自分のマンションに住まわせる。徳山が三浪中であること、バイトをしていること、バイト先の人間関係にも見たくないような嫌な面のあることも組み合わあされ、徳山が初美に向かう構造をつくっている。
 話が半ばを過ぎた頃、「心中」という言葉が初美の口から出て、出されてみれば「そうか、これは心中に至る話なのか」と思わせるスムーズさで、徳山がどんどん周囲の人間(初美と深い仲になるまでは仲間とか友人だと思っていた人間)を切り離していく様子が描かれ、ゆるやかな心中と見えなくもない結末に至る。結末と言ったって、これがテレビドラマなら「マンションから二人の遺体が見つかった」と字幕を入れないと「終」にならないかもしれないが、そういうことはしない。曖昧なままで終わるところが文学なのだろう。
 最後まで希望の持てそうな選択肢は自分から、あるいは偶然に捨てていく、よそから救いが来ることもない、というのがこの小説の目玉であり、評価されたところだと思う。
 ト書きのような地の文については、星野智幸も指摘しているし、そのために読みやすくなっているところも、感情移入しにくくなっているところもある。私の場合、「わかるわかる共感できる~」というところは、なかった。あ、一つだけあった。「とっさの演技を続けていたらその演技どおりの心情しか、もはや自身に見当たらなくなってしまっている。」というところ。
 しかしこの作者は簡単に「わかる」「あるある」と言ってほしくないところを目指しているのだろうから、その目的に合った文章だと言える。
「この手があったか!」と思わせるような話でもあるのだが、読んでいる間は(ノリ始めると)面白い。もちろん、初美も他人から悪く言われる面もあり、絶対的な存在ではない。
 そして全然、暗くはない。それは私がどこかで「こんな二人が世の中からいなくなったとしても、影響はないし」と思っているからかもしれないし、この二人自身が、そう思わせるからかもしれない。
 暗さのない、救いのない話。それが「希望」と「感動」に疲れた人に、一種の爽快感を与えるのだと思う。

 もう一作の文藝賞受賞作については、どなたかから「書いてくださいよ」というコメントでもいただいたら、考えます。  

Posted by mc1479 at 08:26Comments(0)TrackBack(0)

2014年11月05日

「死にたくなったら電話して」(李龍徳)の感想①

 文藝賞受賞作である、李龍徳「死にたくなったら電話して」を読んだ。文藝賞に応募してみたけれど、第3次予選通過止まりだった私(青井奈津)としては、応募数1809篇の中から受賞作に選ばれたのは、どういう作品なのだろうという興味があったのだ。というわけで、以下の文章では「死にたくなったら電話して」の内容・結末に触れています。ご了承ください。


 読み終わって、それから作者と星野智幸との対談を読んでみると、こういう話が求められていた理由がわかる。作品と言えば「感動!」「泣ける!」というのが一番ウケる、ということに対する反発みたいなものがあると思う。最後まで読んでも感動はないし、救われない。それが特徴だ。
 一気に読める小説なのかというと、私は一気には読めなかった。新人賞をとったラブストーリーというのはわりと一気に読めることが多いのだが。
 最初からしばらくの間は、初美がなんとも男にとって都合のいい女に見えて、ノレなかったのだ。電話番号を知って、どんどんかけてきて、デートに応じてみると、さっさと食事代は払ってくれる。セックスにも積極的。しかし、主人公(徳山)が男性で、女性(初美)に惹かれていくとなると、この設定は当然とも言える。逆に主人公が女性なら、そこに現れる男性は(女性にとって)魅力的、言い方によっては都合がいいだろうから。そう思ってはみても、読み始めた時は、初美が都合のよすぎる女に見えて、ちょっとノレなかったのだ。
 初美が、偏りがあるとはいえ、豊富な知識を披露するあたりは「ちょっと変わった女」を描こうとしているのかと思っていたし、右手に本を持って読みながら、左手で徳山の性器に刺激を与える初美の姿からは、ちらっと映画「読書する女」を思い出したりもした。

 ここで、いったん切ります。  

Posted by mc1479 at 07:55Comments(3)TrackBack(0)
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