2014年11月05日

「死にたくなったら電話して」(李龍徳)の感想②

 引き続き、以下の文章では「死にたくなったら電話して」の内容・結末に触れています。ご了承ください。


 初美は友達なんて一人もいない、と言い、徳山が一度だけ友人に連れていかれた、ネットワークビジネスの会社幹部がオーナーをしているバーに行きたいと言って連れていってもらい、徳山を当然のように自分のマンションに住まわせる。徳山が三浪中であること、バイトをしていること、バイト先の人間関係にも見たくないような嫌な面のあることも組み合わあされ、徳山が初美に向かう構造をつくっている。
 話が半ばを過ぎた頃、「心中」という言葉が初美の口から出て、出されてみれば「そうか、これは心中に至る話なのか」と思わせるスムーズさで、徳山がどんどん周囲の人間(初美と深い仲になるまでは仲間とか友人だと思っていた人間)を切り離していく様子が描かれ、ゆるやかな心中と見えなくもない結末に至る。結末と言ったって、これがテレビドラマなら「マンションから二人の遺体が見つかった」と字幕を入れないと「終」にならないかもしれないが、そういうことはしない。曖昧なままで終わるところが文学なのだろう。
 最後まで希望の持てそうな選択肢は自分から、あるいは偶然に捨てていく、よそから救いが来ることもない、というのがこの小説の目玉であり、評価されたところだと思う。
 ト書きのような地の文については、星野智幸も指摘しているし、そのために読みやすくなっているところも、感情移入しにくくなっているところもある。私の場合、「わかるわかる共感できる~」というところは、なかった。あ、一つだけあった。「とっさの演技を続けていたらその演技どおりの心情しか、もはや自身に見当たらなくなってしまっている。」というところ。
 しかしこの作者は簡単に「わかる」「あるある」と言ってほしくないところを目指しているのだろうから、その目的に合った文章だと言える。
「この手があったか!」と思わせるような話でもあるのだが、読んでいる間は(ノリ始めると)面白い。もちろん、初美も他人から悪く言われる面もあり、絶対的な存在ではない。
 そして全然、暗くはない。それは私がどこかで「こんな二人が世の中からいなくなったとしても、影響はないし」と思っているからかもしれないし、この二人自身が、そう思わせるからかもしれない。
 暗さのない、救いのない話。それが「希望」と「感動」に疲れた人に、一種の爽快感を与えるのだと思う。

 もう一作の文藝賞受賞作については、どなたかから「書いてくださいよ」というコメントでもいただいたら、考えます。


この記事へのトラックバックURL

 

QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。 解除は→こちら
現在の読者数 0人
プロフィール
mc1479