2014年02月24日

『Laundry』

『恋愛小説』を見た時から、この映画は気になっていた。『恋愛小説』と同じ監督の作品だから。ただし、脚本は別の人の手になる『恋愛小説』より、脚本も森淳一監督が書いたこちらの方が、よりその監督らしさが表れているのかもしれない。
 以下の文章では、映画『Laundry』の内容に触れています。ご了承ください。

『恋愛小説』のDVD特典に入っている映像の中で「『Laundry』を見てすごくカットを割る監督さんだなと思った」という発言があって、まずはそこから。
 確かに最初の頃はたとえば二人の人物が話している場面でも、決してその二人を一緒にとらえてそのまま映したりしていない。切り替わる切り替わる。けれども後半になると、それはやや抑えられていくように見える。それが登場人物の心が落ち着いていく過程に合わせてあったのか、そんな意図的なものではなかったのかは、わからないが。
 物語は大きく2部に分けられると思う。頭に傷があり、たぶん脳にも傷があるテル(いつも毛糸の帽子をかぶっている)が見張りをするコインランドリーにやってくる人々の描写。写真をいっぱい撮る女性。負けると乾燥機に入り込んでしまうボクサー。そんな中に現れるひとりが、洗濯物を忘れていった水絵で、忘れ物を届けたことからテルと水絵は話を交わすようになる。
 後半は、故郷へ帰った水絵のもとに、また忘れ物を届けようとするテルがヒッチハイクでサリーという男に出会い、水絵と共にサリーの「鳩飛ばし屋」の仕事を受け継いでいく様子が描かれる。「鳩飛ばし屋」という言い方が適切かどうかはわからないが、結婚式や葬式で演出に合わせて鳩を飛ばすのだ。
 水絵の妹の部屋にキアヌ・リーブスのポスター(『FLIX』の99年まとめ号の表紙と同じ写真)が貼ってあるところや、妹の見ているのがたぶんVHSとテレビが一体になったものであるところに時代を感じる。
 いろいろ工夫をしてある話だと思う。水絵が水たまりを飛び越える場面や、逆に新しい仕事を始めた日に、気づかすにはまってしまった水たまりの中を歩く場面。世間的な意味での遠慮のなさが純粋にも見えるけれども、今ひとつ丁寧さにも欠けるテルの描写。登場人物がそれぞれに何か抱えていそうなところも。
 しかしこの映画を「好き」になるには、そういう何かを抱えている人を許容できるような人でないと難しい気もする。そう言う私は、この映画を工夫してあると思い、興味深いとは思うのだが、「好き!」とは言いにくいのだ。

  

Posted by mc1479 at 12:59Comments(0)TrackBack(0)

2014年02月20日

『大統領の執事の涙』

 以下の文章では、映画『大統領の執事の涙』の内容に触れています。ご了承ください。

 1950年代から80年代まで、ホワイトハウスで大統領に仕えてきた黒人執事がいる。ということがまず私には初耳で、興味を持って見に行った。
 男の名はセシル・ゲインズ。綿花畑の小作農から逃げ出し、自分で売り込んで屋敷の下男からホテルの給仕になり、そのホテルの客にいわばスカウトされる形でホワイトハウスに勤めることになる。
 執事から見たホワイトハウスの暴露話を期待すると、当てがはずれる。執事はあくまでも空気のように存在するだけだから。ケネディ暗殺後の血の付いた服を着替えずにいるジャッキーも、「俺は辞めないからな」とその座にしがみつくニクソンも描かれるが、それを見たセシルの感想は語られない。
 じゃあ淡々として面白みに欠けるかというと、仕事熱心なセシルに対して息子二人のたどった対照的な道が、強い印象を与えている。
 長男は黒人差別に反対して反政府運動に。次男は「国のために戦う」とベトナム戦争に。次男は戦死し、長男とは反発し合ったり近づいたりを繰り返しながら、マンデラ解放を呼びかけるデモの場で一緒になる。
 長男から見れば生ぬるいかもしれないが、父の勤勉さと礼儀正しさがホワイトハウスでの黒人のイメージアップにつながったことは確かだろう。
 そして私がこの映画に好感を持つのも主人公のこうした性質によるところが大きい。映画の主人公は人並み外れた能力を持っているか機転が利くか運がいいか・・・というような人が多いと思うが、こういう真面目な人は見ていて感じがいい。
 原題はただの『執事』なのだが、「涙」まで付けたところに日本での売り方を見る思いがする。  

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2014年02月09日

『私の嫌いな探偵』感想その①

「感想その①」としたのは、たぶんまた「感想その②」も書くだろうと思ったからです。以下の文章では、ドラマ『私の嫌いな探偵』の内容に触れています。ご了承ください。

 楽しんで見ている。玉木宏さん、好きだから。特に第1話では「まだ、こんなに見せたことのない表情・動作があったんだ、この人!」と思わせてくれて、大いに笑わせてもらった。
 第4話まで見てきて、あ、やっぱり原作とは別物なんだということを改めて認識した。
 第1話でわからなかったのかい、と言われれば、まあ、第1話は原作とは違う設定をかなり強引に納得させなければいけないし、それぞれの人物像(これも原作とはかなり違う)を印象づけなければいけないし、ね……、と思っていたのだが。
 第3話、第4話と短編が原作のものが続いて1話完結型になり(第1・2話は連続していた)、手頃な長さだけに1時間枠のドラマに仕立ててもそのまま原作が生かされるセリフもあり、そうなってくると余計に「あ、原作とは別物なんだ」という印象が強くなってきたという次第。

 第4話は「死に至る全力疾走の謎」。原作からほぼそのまま使われているセリフとして、次のようなものがある。
①(謎の全力疾走によって壁に激突し、入院した男に向かって)
「それを知りたいと思いますよね。知りたいはずだ。知りたくないはずがない。知りたくないなんてことはないはずですよね」というセリフ。
②(その男について後で)
「ああいうふうに《探偵》という言葉に敏感に反応するのは《スネに傷もつ悪い奴》、もしくは《ミステリマニア》、あるいは《スネに傷もつミステリマニア》。この三種類の中のどれかに違いない」
 ちなみに、セリフ①は原作では鵜飼探偵のセリフ、ドラマでは大家さん朱美のセリフ。原作の鵜飼のうっとうしい部分はかなり朱美に移行されていて、だから朱美のセリフになっているのだろう。
 セリフ②は原作でもドラマでも鵜飼のセリフ。原作の中で読んだ時のほうが面白かった。当たり前だが、基本的に原作は言葉の面白さでユーモアを誘っているからだろう。だから、異なる人物による同語反復、ダジャレ、言葉の区切り方による面白さ(鵜飼は「烏賊川市医科大学附属病院」を「いかがわしいか、だいがくふぞくびょーいん」と読んで面白がる)などで笑わせる。そういう流れの中で読むほうが言葉の面白さは感じやすいのかもしれない。
 一方、ドラマのほうは動きの面白さで笑わせている面がかなりあると思う。特に第1話での鵜飼探偵の動作(上着を広げてあ~はっはっはと笑う、じゃがいもを丸ごと箸ではさんでかじろうとする、など)は楽しませてもらった。その後も砂川警部のジェスチャーのような人物の動きや、神社の長い長い階段のようなロケ地を生かした情景など、見た目の楽しさは大きいと思う。
 
 ただ第4回で気づいたのは、第4回は結構「謎解きの面白さ」だったな、ということ。そして謎解きが長い! 
 いや、長くていいのだ。その間、あのいい声を聞いていられるのだから。間に再現シーンややりとりも挟まれるとはいえ、ほぼ10分間にわたる謎解きのシーン。これだけの時間を語ってくれて嬉しいのはあの声ならではですよ。

 原作と変えたことによって、ちょっと残念なこともある。第4話はうまくまとまっていたとは思うんだけど、原作ではこれは朱美のビルの向かいのビルで起きた殺人。向かいの、つまり、いつも見ている部屋だったから、鵜飼は「ずっと電気がついていて、おかしい」と気づいて中にある死体の発見につながるわけ。それを探偵事務所とは離れたビルにしたので「ずっと布団が干してあるからおかしい」ということになったわけだが、そもそも殺人が行われたのが夜の9時。その時刻まで布団を干しておくこと自体、変ではないか?
 というわけで、これは設定を変えたために起こった不都合だろう。それに原作では(たぶん)金目当ての殺人だったのが、また情緒的殺人になっちゃった(また、と書いたのは今のところ全部そうだから)。実際は金目当ての殺人はかなりあり、そういう金目当ての殺人犯のほうがトリックを考えて実行するような気もするが…

 ただし、映像化されるからにはやっぱり「画として見る面白さ」は優先されるのかもしれない。『2001年宇宙の旅』以来すっかり有名になった『ツァラトゥストラはかく語りき』が鳴り響く中での殺人(ある意味正統的な使用法。『2001年宇宙の旅』でも殺害シーンがあったから)や「宇宙人に日本語がわかるんですか」と言っていると、最後にETらしい指が見えて「つづく」とちゃんと日本語を読んでいるなど映画ネタは面白いし、UFOが来ずに朝が来た場面での鶏の出方は絶妙。

というわけで、これからも楽しみにしたい。
あとひとつ。大家さんに「家賃を上げる」を脅し文句にされている鵜飼探偵ですが、そろそろ反撃してもいいのでは?
「大家さん、これ以上邪魔をすると、大家さんを椅子に縛りつけて動けなくして――私のダンスを見せますからね!」というのはどうでしょう? 「ダンスの下手なやつは許せない」大家さんにとっては、かなりの拷問だと思うが。
  

Posted by mc1479 at 09:43Comments(0)TrackBack(0)

2014年02月04日

ドラマ『足尾から来た女』

 以下の文章では『足尾から来た女』の内容に触れています。ご了承ください。

 某テレビ誌のコラムに「ドラマはどこまで『主張』できるか」というタイトルでNHKの昨年の大河ドラマ『八重の桜』がとり上げられていた。ドラマをそんなに見ない私だが(『八重の桜』は後半は見ていた)『桜ほうさら』と『足尾から来た女』を見ると、NHKのドラマは頑張って主張しているのかな、とは思う。
『足尾から来た女』の主人公サチは、足尾銅山から流れる鉱毒のために畑作ができなくなってきた谷中村の出身。父と兄はとうとう村を離れることになり、サチは「東京で、手伝いをしてくれる人を探している」という福田英子のもとで、田中正造の紹介により住み込みのお手伝いとして働くことになる。
 サチは架空の主人公だが、彼女の見聞きする世界に、英子の家に訪れる社会主義者たち、あるいは石川啄木などが登場する。
 サチは故郷の川原の何でもない石をお守りのように持っていて、自分が英子を裏切るような行動をしたときには捨てようかとも思う。
 東京へやってきた田中正造とサチが話す場面には、直接的と言っていいくらいの「主張」が感じられた。
 こんな都に来てみると、谷中村のことなんて誰も考えていない、と訴えるサチに対して正造は言う。
「百軒の家のために一軒の家を壊すのは野蛮国だ。(中略)百軒の家も一軒の家から始まった。その一軒を殺す都は、おのれの首を絞めるようなものだ。そんなことをする野蛮国は必ず滅びる」
 ドラマのクライマックスは、サチが故郷の石を原敬に投げつける場面だろう。その行為の善悪は別として、力を入れて作られたドラマだという印象を受けた。  

Posted by mc1479 at 13:10Comments(0)TrackBack(0)
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