2014年05月20日

DVD『アフリカ』を見て

 以下の文章では、DVD『アフリカ』の内容に触れています。また、玉木宏さんのファンクラブを通じて購入したため、一般発売より早く見た感想です。ご了承ください。


 BBCアースが制作したドキュメンタリー。広大なアフリカ大陸を地域で分けた「カラハリ」「サバンナ」等の5つのエピソードに最後の「アフリカの未来」を入れた6つのエピソードから成る。火山口を空からとらえた映像から、小さなアリの映像まで、「よく撮った」と言いたい場面の連続。もちろん、膨大な映像から選び抜き、編集しているからこそ、こういう見ごたえのあるものになるのだろう。私はいつも自然ドキュメンタリーに興味があるというわけではなく(でも同じBBCアースの『ライフ』は見た)、日本語ナレーションが玉木宏だというのに惹かれて買ったわけだが、画像も面白かった。
 BBCアースはいつもこのような「自然ドキュメンタリー」を制作してきたわけだが、もちろんこれを「ドキュメンタリー」と呼ぶことに疑問を感じる人もいるだろう。たとえば映画監督の是枝裕和は「どんなに崇高な志に支えられていたとしても、撮る前から結論が存在するものはドキュメンタリーではなく、プロパガンダです」と言っているが、その定義に従えば、『アフリカ』はプロパガンダだろう。最終エピソードの、動物や自然をこれ以上追いやらないようにするための活動へとつなげていくわけだから。
 ただし、私たちにはプロパガンダはプロパガンダと知って楽しむ、という面もある。そういう言い方が変なら、導き出される結論に至るまでの描写も、私たちは楽しむことができる、と言おうか。
 広大な砂漠の下に実は地底湖があり魚が住んでいるとか、雨期になっても雨の降らない年が2年も続いた後やっと雨が降り出すとか、そんなことに自然のバランスを感じたりもする。
 動物たちの姿で多く映し出されているのは、幼いものたちが守られ、育っていrく様子。それらは見ている者の気持ちを惹きつけやすいから、「このものたちを守らなければ」というところへ持っていきやすい。たくさんのものがなんとか助かる中で、ふっと助からなかった命(子ゾウの死)が挟まれるのも効果的だ。実際はもっと失われていく命のほうが多いのかもしれないが、このように絞って時間を割くことで印象に残す。
 なんとか成長していきそうなものたちと同じくらいの時間をかけて描かれるのは、戦いと秩序。雄どうしの激しい闘いは、縄張りを守り、雌を得るため。一方、海でエサを見つけたホホジロザメには、そのエサを食べる順番がちゃんとあったりする。むやみに争うわけではないのだ。
 そういう生命をつなぐための戦いやバランスを見せられた後で「彼らの生息できるところを守る」という結論に導かれるなら、喜んで導かれましょうという気にもなるわけだ。しかも、玉木くんがあの良い声で案内してくれるわけだから。
 また、臭い(肉食動物はかなり臭いと思う)も温度(砂漠の気温は50度にも達する)も切り離された美しい映像だけを見られる幸せも感じた。実際の撮影は大変だったろうから、これを室内で鑑賞できるのは贅沢と言えるだろう。  

Posted by mc1479 at 08:56Comments(0)TrackBack(0)

2014年05月13日

『ブルージャスミン』

 以下の文章では、映画『ブルージャスミン』の内容に触れています。ご了承ください。

 ウディ・アレンの映画の良い点は、その短さにもあるのではないだろうか。80数分~90数分が多く、2時間を超えるものはほぼない。
 その短さでも登場人物の多くがしゃべりまくるので、内容は濃い感じがする。ダレることなく、最後まで見ることができる。
 というわけで久々に、コメディとは違う『ブルージャスミン』。最初にいきなり飛行機で隣に座った女性に自分のことをずっとしゃべり続ける場面があり、しかもお金がないのにファーストクラスに乗ってきたというところから、ジャスミンという女主人公の一種の異様さが見える。だからこの女性を乾いた気持ちで突き放して見ることができる。
 夫のおかげで得ていた華やかな生活と、自分で生きていく基盤ができるまで、と転がり込んだ妹の家での生活。現在のジャスミンと過去の彼女を交互に描く脚本もうまい。
 アレンはおそらく女性に対して、こういう辛辣な目を持っているのだろうが、一方でジャスミンを演じるケイト・ブランシェットには信頼を寄せているように見える。それがこの映画をうまく仕上げているような気がする。ジャスミンは突き放されて描かれるが、彼女を演じるケイトは突き放されていない。ケイトはむしろ監督と似たような立場に立って、ジャスミンを表現しているように見える。強い酒をあおり、目の下にくまを作っているような役は、ともすると「やり過ぎ」になりがちだけど、ケイトは上手にその一歩手前でとどまって、ジャスミンという女を、ひどい女なのだけれど、徹底的にバカにして「自分とは全く関係ない」と言い切ってしまうのは少し気の毒かな、と思わせるような微妙なところを演じている。
 もちろん、ケイトの外見も関係している。ぜい肉のない身体、セミロングの金髪、きちんとしているが厚すぎない化粧……いかにも「いいとこの奥さん」風の雰囲気を、この人は身につけているのだ。  

Posted by mc1479 at 07:41Comments(0)TrackBack(0)

2014年05月06日

『曹操暗殺 三国志外伝』感想

 まず、センチュリーシネマ様、あの大きなスクリーンで上映してくださって、ありがとうございます。 東京等の噂を聞く限り、こんな大きなスクリーンで見ることのできた名古屋は幸せだと思います。

 以下の文章では、映画『曹操暗殺 三国志外伝』の内容に触れています。また、登場人物の「霊ショ」の「ショ」の漢字が出せなかったのでカタカナ表記になっています。当方 玉木ファンなので、そういう目線の感想です。ご了承ください。

 中国映画の『銅雀台』が『曹操暗殺 三国志外伝』というタイトルでようやく日本公開された。2012年の秋に中国で公開された時は不幸な時期で、映画自体は中国ではヒットしたらしいのだが、日本との関係が悪くなっていた時だったので、中国映画に初出演した玉木宏の名前がポスターからは消される、という事態にもなったいわくつきの映画である。
 映画自体は、もちろん『三国志』を知っていればもっと楽しめるのかもしれないが、強大な権力を持った男の苦悩と、その権力者を狙う周囲の者たち、という大雑把な捉え方でも、十分見ることはできる。今回大きな画面で見て、あらためてセットの豪華さや衣装の質感を感じることができた。また、タイトル前の部分は色味を抑えた、ざらざらした感じの画面に作ってあって、『銅雀台』のタイトルが出た後は、画面が艶やかになるのもよくわかった。センチュリー1は画面が大きいので、手のアップになると「穆順のほうが指がきれい。霊ショ、指毛が生えてるよ」と思ってしまったのも事実。
 さて、玉木宏だが、訓練されている時の野性味溢れる穆順のぎらぎらした目も印象的だし、この場面の撮影だけでも大変だったろうな、と思うのだが、宦官になってからの穆順は別種の美しさ。霊ショとの密会シーンのアップを見ると、明らかに他のシーンの他の人たちとは照明の当て方が違うだろ!と言いたくなるのだが、一瞬でもあの白く美しい顔がスクリーンの縦一杯を使ったアップになると壮絶でもう半分くらいこの世のものでない感を漂わせている。少なくとも私にとっては、戦闘シーンよりも大画面で見るこのアップのほうがよほどスペクタクルだった。
 力もあるがその他のものもいろいろ身にまとってしまった曹操と、浮世離れした美しい(しかし暗殺の使命を帯びている)二人の恋人たち、という組み合わせだけで描いてくれてもいいのに、とも思うのだが、歴史ものである限り、そうも言っていられないのだろう。
 以前、中国映画は検閲があるから、殺人シーンや性的なシーンを描こうと思うと「歴史もの」にして「歴史上起こったことですから」と説明する、と聞いたことがあったけれど、今でもそうなのだろうか?だとすれば穆順と霊ショの話の部分はフィクションだと思うので、他にも歴史上の人物を登場させ、歴史的に知られていることを描かないとマズイだろう。そういう要素をどんどん取り入れていった結果、話がひと筋にうまくまとまっていない印象を与えているような気もする。
 霊ショの語りで始まって、ずっと彼女の目線で描かれていくのかと思ったら、途中からどんどん彼女の知りえないことまで入ってくる。ずっと「霊ショから見た話」に徹したほうがわかりやすかったのではないかと思うのだが、「歴史もの」ゆえ、なかなかそうもいかないのだろう。そんな中でこんなに穆順が美しいのは、やはり霊ショから見た描き方をされているからだろうと思って見ていた。
 この映画で玉木宏が演じた役は、役としては好きだ。それは『MW』で彼を好きになった私が勝手に「時の権力に身を委ねない男」というイメージを持っているからで、ここでの権力者に対する刺客という役にもそのイメージが重なるからだろう。あんなに小さい頃から訓練ばかりさせられて育ったら性格が歪むのでは、と感想を書いていた人もいたけれど、あの閉じられた世界で育ってきたからこそ、二人には互いしか見えなかったのだろうし、互いのいない世界は想像もできなかったのだろう。だから、あの設定は二人の純愛を説明する背景としては有効だと思う。この世で二人で、ということが叶わなければ、死を望むのも必然だとも言える。もちろん死を肯定するのは良い事とは思わないが、二人にとってそれが平和を得る道だったとすれば、無為な死、とは言えないだろう。
 幼ななじみだったとはいえ、閉ざされた世界で暮らす内に、霊ショにとって穆順は「夢」になったのだと思う。穆順だって外の世界で生きていれば、野心も権力欲も持つ男になっていたかもしれない。しかし穆順はそうはならなかった。霊ショは、最高の権力を持つ男の傍にいて、それでもそうではない男のほうが霊ショにとっては「夢」だった。と思えば穆順の浮世離れした美しさにも納得がいくのだ。夢の男はあくまでもこの世の泥に染まらずに消えていかなければならない。霊ショはその「夢」に殉じたのだ。

 最後にひとつ気づいた小さなこと。漢字とローマ字書きでスタッフ・キャスト名が出るタイトルで、音楽担当の梅林茂は「SHIGERU UMEBAYASHI」と名前が先に出る表記なのに、玉木宏は「TAMAKI HIROSHI」なのだった。  

Posted by mc1479 at 15:43Comments(0)TrackBack(0)

2014年05月03日

『すべては君に逢えたから』再び

『すべては君に逢えたから』DVD発売記念に再び感想を。
以下の文章では、映画『すべては君に逢えたから』の内容・結末に触れています。また、玉木宏出演作の内容にも触れています。ご了承ください。

 『すべては君に逢えたから』で私が少々苦手なのは、子供が関わる二つのエピソードが二つとも悲しいものであること。どちらかが明快なハッピーエンディングだったら、もっと好きになれたのに。
 もう一つは、ここに出てくる大人が、どちらも子供に謝らせることのできない大人であること。施設で働く職員・岸本は、原因が何であれ、ケンカはダメ、と教えたいのなら二人に互いにごめんなさいを言わせないと後が大変じゃないのかな、と心配する(まあストーリー上は後はうまくいくのだが)。運転士の話に出てくる子供には、母親は「お父さんに向かって、その口のきき方は何? 謝りなさい」と叱った以上、ふてくされた顔でも「ごめん」だけは言わせるべきだったのでは、と思う(そんなことを思うのは私だけか?)。
 もっとも「謝る」ことをキーにたどっていけば、それはそれなりに各エピソードでバリエーションがあって面白い。
『遠距離恋愛』の二人は、相手に対して悪いことを言った、と気づいてもすぐに素直に謝ることができない。
『イヴの恋人』の社長は、悪いことをしたと思えば次に会った時に相手に直接謝る。後に、劇団員の彼女のほうもまた、直接謝ることになるのだが。
『遅れてきたプレゼント』の70歳を越えた二人になると、もう謝るとかそういう行為は超越しているようで、事実を告げるだけで、すべてが通じる。
 そういう「謝ること」のバリエーションを描いた話として見るのも面白いと言えば言える。ただ、当初宣伝されたようにこれが本当に『ラブ・アクチュアリー』のような映画を目指したのなら、やはり『イヴの恋人』が一番それらしいエピソードだと思う。結ばれそうにない男女が結ばれる、とか、男のほうが「彼女を引き止めなきゃ、彼女に告げなきゃ」と走るというのはラブコメの典型にして、見る側を満足させてくれるものだが、リチャード・カーティス(『フォー・ウェディング』『ノッティングヒルの恋人』『ラブ・アクチュアリー』の脚本家)はは実にそれが巧かった。

 別の見方。『すべては君に逢えたから』を長らく組んできたプロデューサー・松橋真三と俳優・玉木宏の作品として見ると、新機軸だ。玉木が初めて肉体的に苦しまない役であること。松橋がアソシエイト・プロデューサーという名目で参加した『クリスマス・イブ』も入れるなら、殺される男(これが『クリスマス・イブ』での玉木の役)から始まって、自殺未遂、高熱に苦しむ、その他は書かないが『KIDS』や『MW』でもそういう場面があったのは思い出してもらえるだろう。『すべては君に逢えたから』の玉木は、初めてそういう苦しみに遭わない役だ。
 そして、もう一つ。初めて恋愛が成就しそうな役でもある。もちろん「片思いだって完成された恋」(『ただ、君を愛してる』)という考えもあるが、普通に考えれば、思いを寄せ合う二人がその思いを通じ合わせて結ばれる(片方が死んだりせずに)というのが「恋の成就」ではないだろうか。
 そういう意味で松橋プロデューサーの玉木出演作としては、たいへん珍しい結末なのだ。これを機にまた新しい傾向の作品を生み出していってくれるなら嬉しい。  

Posted by mc1479 at 06:26Comments(0)TrackBack(0)
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