2013年08月23日

多和田葉子の二つの小説

多和田葉子の本を続けて読んだ。一冊は『尼僧とキューピッドの弓』。もう一冊は『雲をつかむ話』。というわけで、以下の文章では、この二作の内容に触れています。ご了承ください。

『尼僧とキューピッドの弓』では、取材のために修道院を訪れた「わたし」が、そこに住むさまざまな人たちから話を聞いていく第一部と、「わたし」の本に書かれた当人が、自分でその件について語る第二部から成っている。
 その件、というのは、せっかく修道院長として就任した女性が1年で辞めてしまうことになったいきさつ。そのいきさつは、周囲の人から批判されたりからかわれたりしながら語られるのだが、それがどういう事件だったかということよりも、修道院に住む人たちと「わたし」の会話が面白い。
 修道院に住む、と書いたが、この人たちは信仰心はあるが、ずーっと世間から離れて暮らしてきたわけではない。教会に所属していれば(教会税を払っていれば)、空き部屋ができた時に応募し、面接を受け、試しに数ヶ月住んでみてから、正式に修道院の一員になれるのだという。
 そういう修道院のあり方というのが興味深かった。なるほど、離婚などして1人になった女性にとっては安全に暮らせる場所だとも言えるし、人の住まない建物は傷むから歴史的建造物を守るという意味もあるわけだ。
 もう一冊の『雲をつかむ話』。
 偶然にも犯罪者と出会うことになった「わたし」は、後にその人から手紙をもらい、刑務所に面会に行こうかと思いつつ、行かないままにしてしまう。が、そのことが気になって仕方がない。気にし始めてみると、1人が無賃乗車の常連だという双子に出会ったり、日本語に興味があるからと「わたし」に近づいてきた人が後に犯罪に巻き込まれたりする。つながるようなつながらないような話の続いていく様子が面白い。
 そして、偶然かもしれないが、この二つの小説は対照的なものをちらっと出現させて終わっている。
『尼僧とキューピッドの弓』では、修道院長は「悪魔」を見たと思う。
 それに対して、『雲をつかむ話』では、最後に女医が現れて、面会に行こうとする「わたし」を止める。女医は、危険なほうに行こうとする「わたし」を救ってくれるわけだ。彼女は「天使」と呼ばれてはいないけれども、そういう意味で、まるで対になった二作品を読んだような気がした。  

Posted by mc1479 at 06:29Comments(0)TrackBack(0)
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