2016年12月12日

太宰治の辞書

 以下の文章では、北村薫『太宰治の辞書』の内容に触れています。ご了承ください。

 円紫さんと私シリーズ。北村薫の書いた人気シリーズだ。
『空飛ぶ馬』(1989)は北村のデビュー作で、その後、1990年代に『夜の蝉』『秋の花』『六の宮の姫君』『朝霧』と続き、そこで途絶えていた。
 それがいきなり再び2015年に現れたのが、本作。
 もともt、円紫さんと私シリーズは、最初の作品では大学生だった「私」と、落語の師匠・円紫さんが、日常の中で起こる不思議なことを解決していく、人の死なないミステリーだった。その後、人の死ぬ話も出てきたが、基本は日常生活を離れることはなかった。また、「私」が日本文学を研究する大学生であることから、文学上のミステリーというべきものを探究していく話もあった。それが『六の宮の姫君』だ。その後、「私」は大学を卒業し、出版社に勤めるが、90年代に描かれたのは、そのあたりまでだった。
 さて、今回の『太宰治の辞書』は(タイトルから見当がつくかもしれないが)文学探究のほうの作品である。
 今も本が大好きな「私」が疑問に思ったことを追究する。その「私」は今は結婚してひとり息子を持つ、働く母である。「つれあい」と呼ばれる夫は「私」が休日に仕事以外で出かけるような時にも快諾して手伝ってくれるような、いわゆる理解ある夫だが、それ以上の詳しいこと、つまり容姿や年齢は描かれない。息子についても中学生で野球部所属、という以外にはほとんど説明されていない。
 
 太宰治の辞書、の探究は『女生徒』に出てくる「ロココ料理」の話から始まる。「ロココという言葉を、こないだ辞書で調べてみたら、華麗のみにて内容空疎の装飾様式、と定義されていたので笑っちゃった」とある。
 こんなに「ロココ」の定義を悪く書いてある辞書なんて本当にあるのか。言われてみれば、辞書というのは、善し悪しの判断を感じさせるような定義というのはしないのではないか。
 ところが、では太宰の使っていた辞書はどんなものだろう、となると難しい。この作品で書かれているように、日常で使われていた小型の辞書などは、なかなか残らないからだ。価値ある古書として大切にされたりはしない。
 さまざまな辞書や百科辞典を引いた後に、残された太宰の書斎の机を撮った写真や『回想の太宰治』を読んだりして、ようやく、当時太宰が使っていたのは「掌中新辞典」だろうと見当をつける。側に置いて、外出の時は持ち出したくらいなのだ。小さいに違いない。実際に見た時の印象は「かまぼこ板」、と書いている。
 そしてその掌中新辞典には「ロココという項目はなかった。
 太宰は、心の辞書を引いていたのだ、という結末。
 なあんだ、と思う人もいるだろう。が、もちろん、本をめぐる話は、その過程を楽しむべきなのだろう。
 とは言っても、もう一度、「日常の中のミステリー」を円紫師匠に解き明かしてほしい気持ちは、やっぱり残るのだけれど。


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