2013年06月19日

映画『華麗なるギャツビー』を見て

 1974年版『華麗なるギャツビー』を私は見ている。ジャック・クレイトン監督、ロバート・レッドフォードのギャツビーとミア・ファローのデイジー。
 今回の監督はバズ・ラーマン。レオナルド・ディカプリオのギャツビ―と、キャリー・マリガンのデイジー。
 74年版を知っている者としては、今回のは見てがっかりするか、それとも「これもいい」となるのか、心配していたが結果は後者。ディカプリオの少年のようでもあり老成しているようでもある容貌はギャツビーにはまっている。ギャツビーという人物はロマンティックでありながら何をしてきたのかわからない不気味さを持っているわけだが、レッドフォードのギャツビーはロマンティックさが勝っていて、ディカプリオのギャツビーは不気味さが勝っている感じがする。にも関わらず、今回のギャツビーは感情移入しやすい。
 74年版のクレイトン監督は突き放した描き方をしていて、俳優たちも抑えた演技をしていた。そのせいもあってギャツビーの内面を覗くのは難しかったが、今回の映画はギャツビーの過去も映像として挿入されるし、全体としてわかりやすい。
 ニックが原作や74年版より重みを増して、ギャツビーとのことを執筆しているという設定になっている。デイジーがギャツビーの屋敷を訪ねる場面でもニックはそこにいるし、ギャツビーが色とりどりのシャツをばらまいてその乱舞の中でデイジーが泣き出す有名な場面でも、ニックもそれを目撃して、デイジーの内心を代わりに語ったりする。それらによってギャツビーとデイジーの心情はわかりやすくなった。
 その代り、それ以外の人物は小さくされたり省略されたりしている。原作にも74年版にもあった、ニックとジョーダンの恋は描かれないし、トムの愛人マートルは74年版のカレン・ブラックの下品な生命力には及ばないと思うし、ギャツビーの父親は登場しない。
 それだけ登場人物が表面的になっているとも言えるが、人工的・表面的な豪華さがこの物語にぴったりだとも言える。バズ・ラーマンといえば豪華な見せ物的映像を提供する人というイメージがあるが、ここではその豪華さと、それが終わる時の空虚さを感じさせることに成功していて、ギャツビーの物語に普遍性を持たせている。  

Posted by mc1479 at 08:14Comments(0)TrackBack(0)
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