2013年06月27日

『田園に死す』

以下の文章では映画『田園に死す』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 寺山修司の映画を見たのは初めて。
 なぜ見たか、というのにはもちろん『ホテル・マジェスティック』の予習で調べた時の「澤田教一と寺山修司は同級生」ということにも関係している。ここでは津軽弁がどう扱われているのかも気になった。津軽弁に関して言えば「語は標準語でイントネーションは津軽」という使い方が多かった。
 画面上ではまず、作者の過去の自分らしき少年とその母親の白塗りメイクに驚く。それはやがて「子供の頃の風景でも描こうとすると厚化粧になってしまう」というナレーションが入るので、そういう意味なのだなと了解する。話の半ばまでは「回想もの」なのかなという形で進む。やがてそれを描いている現在の「私」が登場する。そして現在の「私」は20年前の「私」に出会い、母を殺すように言うのだが、20年前の「私」には果たせない。現在の「私」が果たそうとして家に行くと、母は「腹すいたか。今すぐごはんにすっからな」と言い、二人がごはんを食べているところで終わる…
 カラー画面は鮮烈で、時に操作されていて、風景が一面緑色だったりする(緑の夕焼け!)。時空を越えて二人の「私」が出会うのもそんなに奇抜な感じはしない。
 家になじめずに逃げ出そうと思っている本家の嫁、父親のわからない子を産んだ女、「母一人子一人」を強調する「私」と暮らしている母。そういう強烈な女たちへの憧れでもあり憎しみでもあるような映画。
「時」は家の中にひとつだけ、柱時計によって示されるものだけがあればいいと考え、「そんなところに時間を閉じ込めて持ち出すなんて、とんでもない」と腕時計を買うことを許さない母。その「時」に関する考え方には妙な説得力があった。
 全然さわやかじゃない青春ものとして興味深かったけれど、何度も見たいタイプの作品ではない。
 寺山の短歌がところどころに挿入されていた。印象に残ったものを一首、引用しておく。
 かくれんぼ鬼のままにて老いたれば誰をさがしにくる村祭


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