2012年05月02日

名もなく貧しく美しく

 タイトルに書いた映画だけでなく、たまたまなのか、60年代初めの映画を続けて放映していたので、見た。具体的に言うと「小早川家の秋」「名もなく貧しく美しく」「私は二歳」である。
 続けて見ると、なんとなく共通項は見えてくる。家族の幸せ。当時の映画はこんなにも「ホームドラマ」が多かったのだろうか? 「家族が揃って暮らしているのが何よりも幸せ」という価値観が見えるのだ。もちろん「小早川家」の主人たる男は外に妾とその娘がいる。でも亡くなった後に「なんだかんだ言ってお父さんがこの家を支えてくれていたんだわ」というふうに言われる。「名もなく貧しく美しく」では耳の聞こえない夫婦が子供1人と妻の母とで幸福な家庭を作り上げる。妻の姉や、弟は、不幸(と主人公からは見なされる)であり、家庭を持っていない。「私は二歳」では、姑と同居するようになってからいざこざはあるものの、最終的には「お母さんいい人だった」ということになる。
 当時は本当にこれくらい「幸せとは、家庭を築くこと」と確固として信じられていたのだろうか? もしくは、その確固たることが崩れかけていたからこそ、こういう映画ができたのだろうか?
 もう2,3。
「小早川家」の主人も「私は二歳」のおばあちゃんも突然亡くなる。それは意外しれないが、ぴんぴんしていて、ころっと死にたいという願望のある人から見れば、理想的な死に方だろう。いや、これで寝たきりになっては話が進まないから、こういう死に方になるのか。しかし不謹慎な言い方かもしれないが「いい死に方」であろう。
「名もなく貧しく美しく」は、そうはいかない。「そんなに泣かせたいか!」とも思ったが、この映画では自動車は悪役なのである。大切なミシンを奪っていくのも自動車だ。電車では乗客どうしが触れ合うことができても、車は一方的に人から何かを奪っていくのだ。そこに時代性もしくはこの映画を作った人の好みを見る気がした。


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