2013年01月27日

青山七恵『ひとり日和』『かけら・欅の部屋・山猫』

 青山七恵の『ひとり日和』と『かけら』を続けて読むと、作者の年齢の重ね方が垣間見えるようで面白い。
『ひとり日和」の作者は、明らかに語り手の「わたし(三田知寿)に寄り添って書いている。高校を出て、バイト中。親戚のおばあちゃんの家に同居することになったが、そのおばあちゃん(71歳)は、そっけないようでもあり、「わたし」を見守っているようでもあり。『ひとり日和』は結構、隙間の多い作品だと思う(悪口ではない)。吟子さん(おばあちゃん)の具合が悪くなった時、寝ている吟子さんからは、首に巻いているネギの匂いと共に「かいだことのない匂いがした。これが病人の匂いというものだろうか」と書かれているが、その匂いについてそれ以上の具体的な、それこそ匂いを感じさせるような描写はない。それは物足りなさを感じさせもするが、書かないことによって一種の清浄さを保っているとも言える。また、「わたし」目線で書かれるため、吟子さんとホースケさんの恋(?)も生々しく描かれることはない。ほのぼの、というか、童話めいた雰囲気すらある。そして、そういう童話めいた雰囲気が、この作品の後味をよくしていることも確かだ。
「わたし」は正社員になり、吟子さんの家を出ていくが、明確に自分がこう変わった、という手ごたえは感じない。もちろん二人の人間が一緒に暮らして全く影響を与え合わなかったわけがないが、それを明確に示すことを避けているようなところが、この作品にはある。

『かけら』は父とバス旅行に行くことになった娘の視点から語られる父の姿が主に描かれる。ここでは娘はおそらく今までは知らなかった父の姿に触れるのだが、だからといってそれで父への理解が深まったわけではない。ラスト近くの「じっと見ていると、わたしは昔から父をちゃんと知っていたという気がしたし、それと同時に、写真の中の人はまったくの見知らぬ人であるようにも感じた。」という一文がそれをよく示している。
『欅の部屋』は、男の目線から語られる、ある女との出会いと別れ、そしてまた別の女との婚約である。前の女に対するわだかまりのうようなものが丁寧に描かれ、それに対する一種の踏ん切りのようなものがある。
『山猫』になると、『ひとり日和』の「わたし」、『かけら』の「わたし」、『欅の部屋』の「僕」、といった一人称の語り手が姿を消す。杏子、秋人という夫婦が登場し、どちらの心情も描かれる。杏子のいとこである高校生の栞を大学見学の5日間世話する、その期間の話が描かれる。栞に対するそれぞれの感情と、すれ違い、というよりあえて口に出さなかったことなどがどちらかというと杏子中心に描かれるのだが、ここでは作者は若い側(つまり高校生の栞)ではなく、明らかに年上の側(杏子)の立場に立っている。最後に一節だけ数年後の栞の心情が描かれる。

 
 というわけで、続けて読むと、なんとなく作者の年齢の重ね方が見えてくるような気がするのだ。もちろん、年上の側に立ったからといって、落ち着き払ったり、いわゆる「温かい目で見守る」わけではない。決してそうなるわけではないのだ、ということを悟っていくのもまた、年をとってゆくことだと言われればそうなのだろう。そういう過程を見ているようで面白かった。
 『ひとり日和』は一年間にわたる話だが、『かけら』は一日、『山猫』は主に五日間、という限定された時間の出来事だからでもあろうが、描写にも隙間が少なくなっていく。隙間が少ない、という言い方がわかりにくいなら、嫌な感情も遠慮せずに描くようになっていく、と言うべきか。そして、客観的にもなっていく。『山猫』の次のような描写は、まさにそんな例。「栞の腕を軽く叩きながら『遠慮しないでね』などと言っている自分が、よくあるメロドラマの中の、よくある登場人物のように思えて、杏子は言いかけた言葉をすべて飲み込んだ。」
 こういうように作者が年齢を重ねていく(もちろんそれは作者によって演出されたものかもしれないのだが)のを見る、というのも同じ作者の作品を続けて読むことの楽しみのうちに入るのかもしれない。  

Posted by mc1479 at 14:03Comments(0)TrackBack(0)
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