2015年04月13日

『悲しみよこんにちは』

 以下の文章では、映画『悲しみよこんにちは』の内容・結末に触れています。ご了承ください。


 サガンの小説を読んだことはあるが、映画は見たことがなかった。NHKのBSで放映されたので、見た。
 今見ると、「きちんと作られた昔の映画」という感じがする。
 その「きちんと作られた」感を与えるのは、女優さんと演じるキャラに合わせてぴったりに作られたドレスだったり、寝起きでもきれいな女優さんだったり、要所に散りばめられたしゃれたセリフだったりするのだが。
 現在のパリの夜が白黒で、去年の夏のリビエラでの出来事がカラーで描かれる回想形式だということも、初めて知った。
 セシルを演じるジーン・セバーグの美しさにまず惹かれる。もちろん、セシルはただの美少女ではない。実の父と名前で呼び合い、父が恋愛を楽しんでいるうちはそれに賛成しているけれど、結婚(再婚)となると動揺し、ましてやその相手が自分にまで説教めいたことを言い始めると反発する。
 フランス映画では、実の娘が父に憧れるというパターンは見たことがある。すぐに思い浮かぶのは実際の父娘だったシャルロットとセルジュ・ゲンズブールだろう。ただ、『悲しみよこんにちは』は1958年作のアメリカ映画である。そういう時代のせいもあるのか、父娘の間にはそれほど危ない雰囲気は漂わせない。
 娘の反発は、むしろ、遊びも恋愛もギャンブルも「軽い」ものであるべきだと思っていた二人の世界に「結婚」というシリアスで重いものを持ち込もうとした父を懲らしめたい、というくらいの軽いものだったようにも見える。
 おそらく、ちょっとしたイタズラくらいの気持ちから引き起こされたことに、父の婚約者アンヌは、まともに反応する。
 アンヌが死んだ後、残された父娘はどうするのか。現在のパリの場面で見る限り、二人は相変わらず「軽い」生活を続けていくしかないように見える。そしてそれがこの映画の作り手が二人に与えた罰のようにも見える。
 ただし、その罰のような生活は、おそらく映画封切り当時の日本人には羨ましく見えるくらいのものだっただろう。今でもそうかもしれない。そのことが、この映画の印象を曖昧なものにしているようにも感じられる。


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