2016年01月24日

「動物園の王子」を読んで

 以下の文章では、小説「動物園の王子」(中沢けい)の内容に触れています。ご了承ください。

 五〇代らしい女性三人(かつての高校の演劇部仲間)が、唯一職業としての俳優になった先輩の舞台を久しぶりに三人で見に行った後、その先輩が急に亡くなったこともあって、何度か会うようになる。
 と言っても、三人が会って話している場面よりも、一人ひとりの生活ぶりを描く部分のほうが長い。
 読みやすい小説だが、言葉の使い方にはこだわっている。言葉によって彼女たちの世代が見えるようでもある。
 旦那に「センチになるな」と言われて、センチなんて単語を聞くのは久しぶりと思ったり。
 五〇代になってからの時間は「みんなで作ったお釣りの時間」「ひらひらしないともったいない」と言ったり。
 三人の女性は常にユキさん、サッチン、チョウ子さんと書かれ、フルネームはついにわからない。それはこの三人がいつまでもどこか演劇部三人娘だった頃から変わっていないことを示しているのかもしれない。
 子どもたち世代とは微妙に考えの表し方がズレる。自分の健康状態もそろそろ心配にもなってくる。そんな中でも「夏の日暮れみたいなもの」、まだまだこれから、という考え方を示しているのは気持ちがいい。  

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2016年01月24日

渋谷

 以下の文章では、映画「渋谷」の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 渋谷。
 そういう題名の映画だ。放映されるのを知って、見ようと思ったのは、監督の西谷真一が、ドラマ「あさが来た」のメイン演出家だから。もちろん、あのドラマとは全く違った映画だろうと知った上で、見た。
 フリーのカメラマン(ライターも兼ねているのか?)が雑誌の取材で、渋谷という町を象徴するような女の子を探し、写真を撮り、話を聞こうとする。駅前で気になった子がいて追うと、風俗店に入っていった。カメラマンは客として彼女に話を聞こうとするが、一度目は失敗。二度目は自分の身の上話をまずすることで、彼女からの話も聞けた……
 実際には、もう少し別の出会いもあるのだが、メインの彼女の話に限れば、彼女は家に帰る決心をする。そういう救いのあるところが「あさが来た」に似ていなくもない。
 ただし、渋谷の町を感覚的に切り取ろうとするかのようなカメラの動き方は、朝ドラのセットの中での安定した画面とは全く異なるものだ。そして実は、家に帰る決意をした女の子よりも、途中でカメラマンが出会う「青森から出て来て帰りたくなくて毎晩泊めてくれる人を探している女の子」のような危うい存在の方が多くいるのではないかという気もする。
 私にとっては何度も見返したいような映画ではなかったが、これを見ると逆に朝ドラというのが、いかに計算されたセtリフとカメラアングルによって作られているのかがよくわかった。  

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2016年01月06日

坊っちゃん(テレビドラマ)

 以下の文章では、2016年1月3日に放映されたドラマ「坊っちゃん」の内容に触れています。ご了承ください。


 配役を聞いた時、この人が坊ちゃんを演じるのか、と思った。坊ちゃんと言うと単純明快なイメージがあるが、この人にはもう少し影のある印象があったので。

 赤シャツ、野だいこはぴったり。山嵐、うらなりはそう来たか、という感じ。特に赤シャツの及川光博は上手だと思う。この作品のユーモアはほぼ彼に拠っている。

 「坊っちゃん」の物語を現代の視聴者に見せる時に、脚本家が一番考えるのは教頭である赤シャツを殴るという坊っちゃんの行為をどう見せるか、マドンナをどう扱うか、ということではないだろうか。
 原作では会話の中にしか出てこないマドンナ。しかし、画面を華やかにするために登場させたい。となると、箱入り娘では困るわけだ。今回のドラマでは、マドンナはカフェで働いている。だからこそ、憧れの美女であり、話しかけることもできるし、マドンナ自身がそうしたいと思えば、うらなり君と会うこともできる。
 そして、坊っちゃんが赤シャツを殴るのは、芸者といる彼を待ち構えて殴るのではなく、あくまでも教育上で、学校の対面だけを保とうとする彼に反発するという形になっている。そして、生徒たちも、それに共感する。
 
 脚本の橋部敦子は、時に細かいところにこだわりを見せる人だが、ここでは赤シャツが気に入って学校の廊下に掛けている西洋絵画の額をしょっちゅう坊っちゃんが傾け、赤シャツがそれを戻す、という繰り返しを描いている。絵には、やや抽象化された樹木のようなものが斜めに描かれており、つまり樹木を真っ直ぐにしようとすると絵の額を斜めにするしかない。
 赤シャツは外枠をまっすぐにし、坊っちゃんは中(にあるもの)をまっすぐにしようとするわけだ。
 しかし、坊っちゃんが額を傾け、赤シャツがそれを直し、また坊っちゃんが……という繰り返しを見ていると、坊ちゃんにもやや神経質なこだわりがあるようにも見えてくる。
 
 冒頭に近いシーンで、坊っちゃんが(自分の卒業した学校の)校長から「教師にならないか」と勧められるところがある。向かい合った二人を真横からとらえるカメラが、すーっと右に左に行き来する。こういう映像、たしかテレビドラマ「鹿男あをによし」の同じような場面(主人公が、教員になって奈良に赴任するように勧められる)でも使われていた。今回の「坊っちゃん」と「鹿男あをによし」の監督は同じ、鈴木雅之なのだ。
 そう思って見てみると、今回の坊っちゃんが少し神経質そうに見えるのも、すでに鹿男というフィルターを通ってきた坊っちゃんだからなのかな、という気もする。
 もちろん万城目学の小説「鹿男あをによし」の話の大枠は「坊っちゃん」をなぞっていて、読む側もドラマを見る側もそれを知って楽しんでいた人も多かったと思う。そして今回は既に「鹿男」を見てきた目で見る、「今」の坊っちゃんというわけだ。

 そう思えば、それほど単純明快でもなさそうな、豪胆なだけでもなさそうな坊っちゃんにも納得がいく。
 なお、下宿のおばさんが「鹿男」の下宿のおばさんと同じ鷲尾真知子によって演じられており、同じ下宿の住人として作家志望の男を又吉直樹が演じているという遊びもある。  

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2015年12月11日

エッグ

 以下の文章では、劇「エッグ」の内容・結末に触れています。ご了承ください。


 NHKのプレミアムステージ枠で放映されていたのを見た。野田秀樹作・演出。

 エッグという名の競技。卵を壊さないようにしながら穴を開けて運ぶ競技だとか(競技そのものは一度も見せない)。それが東京オリンピックに採用されるか、どうか。でもこの話、今度のオリンピックなの? 1964年の? などと脱線し、実は1940年の開かれなかった東京オリンピックのことで、話の舞台は満州という設定になっていく。

 ワクチン開発のためにせっせと卵に穴を開け菌を植え付けた若い医者たち。そこからエッグという競技が生まれた。しかし敗戦の色が濃くなると、人体実験をしていたことを隠すため、ひとりに責任を押しつけ彼が自殺したことにして、みな満州から逃げてゆく。
 青森の農家の三男坊で最強のエッガー、そして自殺させられる主人公に妻夫木聡。彼と結婚する歌手が深津絵里。映像だと薄化粧でナチュラル派という顔の深津がつけまつ毛をバシバシ付けて、でも眉は薄く、ハイヒールで動き回り、細い体で歌う。その病的な感じがよく似合っている。
 スポーツと戦争を重ねたのは、もちろんその熱狂的な点がよく似ているからと言いたいのだろう。無垢というよりはおバカな感じで現れる主人公は利用されるのに適当だ。
 俳優さんを集め、音楽は椎名林檎。野田自身が、案内役として作者としてしばしば登場する。これで商業として成り立たせているのなら、たいした手腕だと思う。妻夫木と仲村トオルの上半身裸を見せるなどのサービスも怠らない。
 満州の話へ持っていくのがやや強引な感じがするが、もちろんそここそを描きたかったのだろう。一気に駆け抜け、お涙ちょうだいにはしないとばかりに、乾いた調子は崩さない。ただ、こういう劇だと観客にはあまりカタルシスが感じられないような気がする。  

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2015年11月21日

『リライフ』

 以下の文章では、映画『リライフ』の内容に触れています。ご了承ください。


 ヒュー・グラント、ひさびさの主演作。
 脚本・監督のマーク・ローレンスはヒューと組むのは4度目。最初の『トゥー・ウィークス・ノーティス』はそうでもなかったが、その後は何らかの再挑戦、やり直しを描いていたとも言える。
『ラブソングができるまで』は落ち目の歌手の再挑戦。『噂のモーガン夫妻』は、夫婦としての再出発。そしてこの『リライフ』は、ハリウッドではなかなか企画を通せなくなった脚本家が、遠く離れた大学に教えに行く。
 プロの脚本家が指導してくれる、というので70名の希望があるが、10名にしぼる。選ぶ基準は女子は美人、男子はそうでないやつ。とんでもないが、無理やり入って来たシングルマザーの熱心さと適切な質問に助けられ、教えることに面白さを感じ始める……
 それなりのキャリアのある人が、自分より若い世代のために何ができるか、また自分は自分のためにもう少し何かしてもいいのでは?と言いたげな映画。
 
 ヒューならではのネタもある。アカデミー賞を受賞したこともある脚本家という設定なのだが、その受賞スピーチとして流れるのは、ヒュー本人が『フォー・ウェディング』でゴールデングローブ賞(もちろん、脚本ではなく、主演男優賞)を受賞した時の名スピーチ。大学の最初の懇親会でセクハラ発言をしてしまうが、ヒュー自身、美人記者に向かって「記者がみんな君みたいだったらいいのになぁ」と少々問題アリな発言をしたこともある。J・オースティン研究家の女性教授と対立するが、ヒューがオースティン原作の『いつか晴れた日に』に出ているのは周知の事実。という具合。

 セリフは膨大。「一番バカな発言は、努力すれば何でもできるってことだ」と言っていたシニカルな男が、努力してみるのもいいかも、と思い始める……

 しわが固定し、髪もグレイがかって、背中に肉がついてきたヒューだけど、いたずらっぽいブルーの瞳と、完璧なセリフ回しと間の取り方は健在。ヒューの主演映画のほとんどがそうであるように、あと味のいい映画。  

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2015年11月18日

『あおい』と『ゴーグル男の怪』

 以下の文章では、小説『あおい』(西加奈子)『ゴーグル男の怪』(島田荘司)の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 
『あおい』 27歳・スナック勤務の「あたし」=さっちゃん。3歳年下の学生・カザマ君と同棲中。小さな映画配給会社で広報をしていた「あたし」より2歳年上の雪ちゃんの好きな人だったカザマ君と、雪ちゃんと一緒に会った時、「あたし」がカザマ君を奪う形になったのだ。「あたし」はそれで会社を辞め、スナックは週4日勤務のバイト。スナックのママが来るのを楽しみにしているお客さんである森さんが、「あたし」目当てに来るようになり、ここも辞める。
 「あたし」は「自分が悪い、雪ちゃんやママは悪くない」と思っていても、行動が止められない。ママに対しては言いたい放題言ってしまう。本屋のバイトでマナティのように太ったみいちゃんという子が、「あたし」の気のおけない友だ。みいちゃんはいつか小説を書くために辞書を読んでいる。
 「あたし」はレイプされた経験があり、みいちゃんは小さい頃、誘拐されそうになったことがある。
 「あたし」は妊娠したことを知ると、長野のペンションで働こうとするが逃げ出し、夜中に「もう歩けない」と思った所で青い花に気づき、その名が「タチアオイ」だと知る。そこで頑張ってまた歩く。
 「あたし」はおそらく妊娠を受け入れて子を産む決心をし、カザマ君は「あたし」のいない間に初めて必死の行動を見せ、みいちゃんはとうとう物語を書き始める。
 素直に受け取れば、前向きなラスト、なのだろう。でも「いいのか?」という気もする。もちろん、レイプ直後は触れられただけで吐き気がした「あたし」がちゃんとカザマ君との関係を結べたのは、喜ぶべきことだろう。しかし、学生のカザマ君とバイトも辞めた「あたし」の間に生まれてくる子はどうなる?と心配してしまう。

 比較、というのはヘンかもしれないが『ゴーグル男の怪』を見てみる。ここに出てくる「ぼく」は中学生の時、男にレイプされた。近くのスーパーの経営者で、しかもその男は「ぼく」の母とも関係を持っていた。その体験を恥と思っているので誰にも言えず、ガールフレンドもできず、近所の会社に就職したので、犯人は今もすぐ近くにいる。
 犯人を殺すことでしか自分は救われない、と思いつめた「ぼく」は決意するが、実行するよりひと足先に、他の人が殺してしまった(恨まれる男だったのだ)。同じような格好をした二人が出会う場面はとても映像的だ。そこで「ぼく」は相手に「ありがとう」と言う。たぶん、これで「ぼく」は救われる。
 殺したのは、若い女だ。幼い時から母に万引きを教えられて育ったような女。盗みをしたスーパーで、経営者の男は許してやるが、自分の女になれ、と言ったわけだ。手当をあげるから、と。経営が苦しくなると手当も払わなくなり、しかし脅してくる男を、女は殺そうと思った。もう少しからむ事情もあるのだが、この殺人を犯してしまった女には「救い」はないのかもしれない。
 しかし、そっくりの格好をした男と出会って向き合った後、女は涙を流す。
「私は今まで、ありがとうと、誰かに言われたことがなかったのです」
 それを「救い」とは言えないのかもしれない。

 しかし、妊娠・あるいは出産を「救い」と見なすよりは、私には、こういう形のほうが、ひとつのあり方として、受け入れやすい気がするのだ。
   

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2015年11月17日

『きっと、うまくいく』

 以下の文章では、映画『きっと、うまくいく』の内容に触れています。ご了承ください。


 CSで放映されたのを見た。
 工科大学を優秀な成績で卒業したのに音信不通になっているランチョーの所へ、寮で同室だった二人、ファルハーンとラージューが向かう。二人は、当時ランチョーをライバル視していたチャトルに「卒業して10年経ったら、どちらが成功しているか確かめる約束をしたから」と呼び出されたのだ。
 三人の騒がしいドライブの合間に、大学時代の回想がはさまる。インド映画だから、歌と踊りのシーンもある。ランチョーは成績優秀だったが、順位を張り出す大学のやり方や、ちょっと成績のいい子がいると「医者かエンジニアに」と望む風潮を嫌っていた。ランチョーの影響で、二人は納得できる自分の道を進むことになったのだが……
 もちろん映画だから誇張はあるのだろうが、インドの大学内ってこんなに競争が激しいのだろうか、とか学生が自殺しても学長の権威は少しも揺るがないのはある意味スゴイ、と思いながら見た。
 ファルハーンとラージューの家庭の事情、ランチョーの恋(なんと、学長の娘ピアに恋をする)、ピアの姉モナの出産……と、これでもかと見せ場を詰め込み、伏線はきちんと回収し、2時間50分。お腹いっぱい、という感じの映画。
 ときどき印象に残るセリフ(歌詞)がある。
「鶏は卵の運命を知らない」
「親友が落第だと心が痛む。一番だともっと痛む」  

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2015年10月22日

『世代』『地下水道』

 以下の文章では、映画『世代』『地下水道』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 アンジェイ・ワイダ監督の古い映画が続けて放映されたので、見た。
 これに『灰とダイヤモンド』を加えて「抵抗三部作」と呼ばれている。
 今見て思うのは、もちろん「抵抗」はテーマなのだろうが、それ以外の見方もさまざまにできるところが、映画としての豊かさを感じさせるということだ。

 2作とも、第二次世界大戦中の、ドイツに抵抗するポーランドの一側面を描いている。
『世代』は青春映画だと思った。ドイツ占領下のポーランド。木工所に見習いとして雇われるスタフ。学校で、反ナチの人民防衛隊結成を呼びかける女性ドロタを見かける。スタフはまず、ドロタの美しさに惹かれる。木工所の先輩からは所長がどれだけ儲けているかを聞かされる。そこで、友人を誘って防衛隊に入る。
 木工所には抵抗組織の一員が武器を隠しており、偶然それを見つけたスタフはピストルを持ち出す。理不尽な暴力をふるったドイツ兵を射ち、ユダヤ人蜂起を応援しようとするが、仲間のひとりが犠牲になる。
 ドロタは、さらに新しい仲間が入ってくるから指導してほしいとスタフに頼み、初めて一夜を共にするが、翌朝ドイツ兵に連行される。泣きながら待つスタフのところへ、新しい仲間が輝くような顔で現れる…
 スタフの青春の盛りはドロタとの一夜に集約され、それは過ぎ去ってしまった。若者らしい年長者への反発、あせって成果を出そうとするようなところ、武者震いと恐怖……さまざまな面を感じさせてくれるところが「青春映画」だと思った。

『地下水道』の登場人物たちは、もっと大人だ。恋人や、妻子のある人たちが多い。ワルシャワ蜂起の最後、ドイツ軍の砲火を浴びた中隊。退路を断たれ、地下水道を通るしかない。
 映画の前半は地上戦、後半は地下水道に入ってからになる。入る時間に差ができ、さらに中にいる他の人たちのパニックに巻き込まれたりして、中隊はバラバラになる。空気の悪い、暗い空間で水に浸りながら、調子を崩していく。
 持っていたオカリナを吹きながらフラフラとさまよっていく男。恋人だと思っていた男が「死にたくない。妻子のもとへ帰る」とわめき出してショックを受ける女。負傷した男を支え、明かりの見える川への口に辿りつくが鉄格子のはまっていることに気づく女。地上に出るがドイツ兵に囲まれてしまう者。部下がついてこなかったことで異常になる隊長。 
 パニック映画だってこんなにいろいろなパターンはなかなか思いつかないだろうというような、絶望的な、まさに出口のない状況が示される。
 それでも「やり過ぎ」と思わせないのは、撮影の仕方にも役者の演技にも抑制がきいているからだろう。
 単に一中隊の悲劇、というだけではない、地下水道が何かの象徴であるかのように見えてくる普遍性を持たせていると思う。
  

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2015年10月10日

本『ふくわらい』

 以下の文章では、西加奈子の『ふくわらい』の内容に触れています。ご了承ください。

 面白かった。西加奈子の小説はいくつか読んだことがあるのだが、その中で一番面白いと思った。
 主人公が編集者で、彼女の担当する作家が出てくる。高名な作家だが90歳を超えて随筆しか書かなくなった水森。もと引きこもりの之賀(これが)。プロレスラーだが週刊誌にコラムを連載している守口。
 主人公の鳴木戸(なるきど)は「言葉を組み合わせて文章ができる、しかも誰かが作ると、それは私の思いもよらないものになる」ことに感動する人間だ。担当作家のことをできるだけ知ろうとし、要望に応え、激務が続いても机の上はいつもきれい。
 というわけで、まず文章を書くことに興味のある人間には、鳴木戸は興味深い。しかも彼女は、仕事と、趣味のふくわらい以外にはいっこう頓着しないような人間なのだ。ちょっと壊れている人間、と言ってもいいかもしれない。しかし彼女が無職の引きこもりではなく、周りからも優秀と見なされる編集者だという設定に好感が持てる。
 上橋菜穂子の解説によれば、世間の人が当たり前に感じている感情がわからない主人公が、世界と自分がつながる一瞬を味わう……ということになるのだが、それだけではない面白さがある。登場人物がそれぞれにヘンだ。ヘンな人なんだけど、そばにいて話をしてもいいかな、と思わせるところがある。
 紀行作家というより冒険家だった主人公の父。目が見えないのに主人公に一目惚れする男性。主人公と対照的に見えながら、友達になっていく同僚の女性……
 主人公の回想や、訪れる場所や、タイトルになっている「ふくわらい」もすべて上手に収まって、ぴったりと効果的。もしかすると、この、あまりにも上手にはまっているところが作為的と思われることもあるかもしれないが、私は楽しんだ。  

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2015年10月01日

テレビ キューバふしぎ体感紀行

 以下の文章では、2015年9月19日・26日に放映された「キューバふしぎ体感紀行」の内容に触れています。ご了承ください。


 女優の鶴田真由が2週間くらいかけて、キューバを巡る。なぜ興味があったかというと、玉木くんも以前、紀行番組でキューバへ行ったから。もっとも彼の場合、ジャマイカ・コスタリカ・キューバと3カ国回っていたので、この番組はキューバだけを詳しく紹介するのだろうと思った。
 鉄道でハバナから出発。ハバナで古いアメリカ車が大切にされタクシーとして利用されているのは、5年前に玉木くんが行った時とそう変わりはないようだ。
 マタンサスでは、独自の宗教を信仰している人たちに出会う。アフリカ系の人々が根付かせたもので、自分たちの信じている神々をキリスト教のマリアなどに重ねて信仰している。
 観光用のSLにも乗る。鉄道のない所ではヒッチハイクもするが、これは半ば公共交通機関のようになっていて、車を止めて交渉する公務員がおり、料金を払って乗せてもらう。
 サンタクララで、15歳を迎える女子の盛大な成人パーティに。成人式が派手だというのは、玉木くんの紀行にも出てきた。
 サンティアゴ・デ・クーバではカーニバルを見学。

 そこからは北側の海をたどって戻る。古い港町バラコアでコロンブスの立てた十字架を見、フンボルト国立公園で貴重な動物を見、先住民の血が流れている人たちにも出会う。
 地元の釣り船に乗せてもらい、海へも潜る。ヘミングウェイの通った食堂にも行く。最後は漁師たちとのやり取り。
「海は母親のようだ。ラ・マルと女性名詞で呼ぶんだ」
「海はいつもサインを送ってくれている。それを見逃すと危険になる」
「釣れない日があってもそれはいい」
 漁師たちの言葉、女性名詞のことは『老人と海』の中にもあるそうで、これが漁師たちが常に意識していることなのか、それともヘミングウェイが愛した場所を訪れる人にならこう言うといいだろうというサービスなのか。
 アメリカとの国交を回復したキューバなのだが、意外なくらい社会的なことには触れられていなかった。
 4年前から自営業をやることがかなり自由になったことくらいだろうか。
 玉木くんの紀行では、一般のお宅へお邪魔して、配給手帳を見せてもらったり、電化製品も配給されること、家賃は安いこと、しかし配給される食糧だけでは足りないので食費がかかること、などを聞いていた。
 今回のこの紀行では、大学までの教育費が無料なのは変わっていないことや、電車賃も(キューバ人なら)かなり安いことはわかったが、それ以外にはあまり具体的な生活費のことなどはわからなかった(アメリカに出稼ぎに行っている人が多いのは伝わってきた)。
 森林や海中など、どちらかというと「自然に触れる」ことが多かったので仕方がないのかもしれないが、アメリカとの国交が復活したキューバで「リゾート地のホテル建設が進んでいる」以外の変化も、もう少し見せてくれれば、と思った。  

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2015年09月30日

本『島田荘司全集Ⅱ』2

 以下の文章では、本『島田荘司全集』の内容に触れています。ご了承ください。

 (1の続きです)
・嘘でもいいから殺人事件
 怪しげなドキュメンタリー番組を作るテレビのスタッフが巻き込まれる殺人事件。
 いかにもお金持ちの男が全身ブランドもので登場するのも、美女たちがルイ・ヴィトンのバッグを持っているのにも時代を感じさせられた。語り手の隈能美堂巧(くまのみど・たくみ)は、御手洗シリーズの短編にも語り手として登場したことがある人物。意外にも廃墟ファンらしく、こんなことを言う。
 「文明が、その内包する本質をもっとも美しく見せるのは、それが滅び、廃墟と化したときである、ボクは以前からそんな気がしてならない。」
 話全体は、著者の言うとおり、ユーモア・ミステリー。

・漱石と倫敦ミイラ殺人事件
 これだけは、出版された時に読んだから、再読。その頃は漱石への興味で読んだ。シャーロック・ホームズのファンに対してこれではちょっと気の毒ではないかと思ったのは覚えている。漱石から見たのと、ワトソンから見たのと、二つの視点から事件が描かれるのだが、漱石から見たホームズは、前半では、とてもまともに推理できないような状態に見えるからだ。
 今読むと、作者のホームズへの愛憎入り混じった思いが見えるような気もする。漱石についての、わりと知られていること(ロンドンで、精神的におかしくなったと伝えられたこと)などが上手に取り入れられていて、遊び心のある推理ものとして楽しめた。  

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2015年09月30日

本『島田荘司全集Ⅱ』1

 以下の文章では、南雲堂の『島田荘司全集Ⅱ』の内容に触れています。ご了承ください。

 島田荘司さんの「御手洗潔シリーズ」を読んでから他の作品も読み始めて、今回図書館から借りてきたのは、これ。1984年に発表された4作品が入っている。
・寝台特急「はやぶさ」1/60秒の壁
・出雲伝説7/8の殺人
 この2作品は、どちらも列車を使っている。前者は「その時間は私は列車に乗っていた」というアリバイを作って犯行に及ぼうとするが、それがうまく運ばず、後者は複数の列車、その停車時間を利用して切断した死体の受け渡しや遺棄が行われる。どちらも時刻表を詳細に見ないと組み立てられない話だが、寝台車そのものがなくなれば、話は成り立たなくなる。寝台車の個室でなければ犯罪は行えないからだ。「はやぶさ」の場合はアリバイ作りに利用されただけという感じだが、「出雲伝説」の場合は「八俣の大蛇」伝説を踏まえている。犯人はそれを匂わせるために、切断した遺体を7箇所に送り、首だけは自分で埋めにいく。7つのローカル線で運ばれる死体。
 しかしこれも現在は不可能だろう。倉吉線が廃線になったからだ。きっと他にも私の知らない、今は使われなくなった駅や廃線になったところもあるに違いない。
 列車で旅する人がそれなりにいて、長い区間を走っていく寝台車があったからこそ、こういうミステリーも成り立ったのだ。

 ここで、いったん切ります。  

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2015年09月28日

本『あなたの本当の人生は』

 以下の文章では大島真寿美の『あなたの本当の人生は』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 大島真寿美の作。『いつか目覚めない朝が来る』では、もと大女優を取り巻く人々を描いた作者。ここではもとベストセラー作家(今はもう書いていない)をめぐる人々を描く。
 作家のペンネームは森和木ホリー。その弟子(というよりお手伝い?)として住み込むことになった國崎真実。以前からホリーさんのところに通っている秘書の宇城圭子は、市民会館の事務員だったがホリーさんにスカウトされ、スケジュール管理や契約書の整理や電話の応対などをこなしている。最近では、ホリーさんの書くはずのエッセイを(本人が書かないものだから)宇城が書いている。ホリーさんのファンでもある國崎はそれを聞いて怒るが、「あなたもそうなるわよ」と言われる……
 では、ゴーストライターの話なのかというと、そうではない。
「どのように書き始めて、書くようになるのか、書き続けるか」についての話なのだと思った。結局、宇城はホリーさんの死後、ホリーさんについてのエッセイを書き続けていくことになる。國崎はホリーさんや訪れる人にふるまうコロッケを作っているうちに、お惣菜屋を開くことになり、書くことからは遠ざかっていく。
「書く」ことがどんなふうに始まり、どうやって終わっていくのか、なんて定義づけることはできないけれど、こんな例もあるのじゃない?とちょっとだけ見せてくれたような話。  

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2015年09月28日

『仮面/ペルソナ』

 以下の文章では、映画『仮面/ペルソナ』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 題名だけは聞いていたけれど見たことのなかった映画、というのはあって、これもそのひとつだった。イングマル・ベルイマン監督作品。
 冒頭を見てまず、こんな実験的と言っていいような映像から始まっていたのかと思った。目のアップ。起きる少年。少年の触れる壁にぼんやり映る大きな顔。
『エレクトラ』出演中に言葉を発せなくなった女優のエリーサベットと彼女の世話をする看護師のアルマ。心身に異常が見られないため、病院ではなく院長の別荘で二人は生活することになる。院長は、女優であるエリーサベットが「本当の自分になりたい」「自分をさらけ出したい」と考えて、言葉を発すれば「演技」と見なされるので、それをしなくなったのだろうと考えている。アルマは有名女優の世話をすることを素直に喜び、話さぬエリーサベットに代わるように話し続ける。自分の体験をエリーサベットに聞かせる。
 そうするうちにアルマはむしろ、話さぬエリーサベットに自分のほうが取り込まれていくように感じる。訪れたエリーサベットの夫(目が悪い)は、アルマをエリーサベットと思い込む。
 アルマがエリーサベットに向かい「あなたのようにはならない」と言って、二人は別荘を引き上げる……と書いたが、映画の印象はもっと曖昧で、実はもうアルマの中にエリーサベットは分かち難く存在しているのではないかという気もするし(二人の顔を半分ずつ合成してひとつの顔にしている場面がある)、エリーサベットがこれからどうなっていくのかもわからない。
 ただ、白黒のシャープな画面で、ときに刺激的な映像やセリフを入れながら、何となく私たちがあると信じている「個性」や「人格」に揺さぶりをかけたかったのだろうな、と感じた。  

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2015年09月24日

本『岸辺の旅』

 以下の文章では、本『岸辺の旅』(湯本香樹実)の内容に触れています。ご了承ください。


 湯本香樹実というと、お年寄りと子どもの交流を描くというイメージが強かったので(たとえば『夏の庭』や『ポプラの秋』)、へぇ、これは夫婦の話なんだ、と思って読んだ。
 3年前に失踪した夫が、夜中に突然帰ってくる。夫はすでに死んでいて、ここまで戻ってくる途中にあちこちで世話になったと言う。その、夫の世話になったところを今度は妻と一緒に逆にたどる。そういう旅だ。
 死者が戻ってくる、という話はよく作られrる。話によっては、死者は飲んだり食べたりはしないという設定になっているが、ここでの夫は普通に飲食する。夫が死んだ場所まで戻る途中で、夫が世話になった人たちに再会していくのだが、新聞店の島影さん、ひよどり中華店の神内さん夫妻、タバコ栽培をしている星谷さん、その娘と孫・・・・・・
 実は島影さんもすでに死んでいる人であり、神内さんの妻は幼くして亡くなった妹のことにこだわっており、星谷さんの娘の夫は亡くなっている。
 では死に彩られた陰気な話かというと、そうでもない。そもそも主人公がしらたまを作っている時に、それが好物だった夫が帰ってくるのだが、何度か登場する「食べる」シーンは楽しい。死んでからも、しっかり食べられるうちは「まだ大丈夫」だそうで、だから「食べる」ことは、ほとんど死の対極として、こんなに楽しそうに描かれるのかもしれない。
 ひとことで言えば「ある人の死を納得するまでの話」なのだろうが、適度にリアルな要素(夫の失踪後に主人公がどうしてきたとか、夫がどういう人物だったとか)を投げ入れながら、キレイにすくい取っている感じがした。  

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2015年09月22日

『黒衣の刺客』

 以下の文章では、映画『黒衣の刺客』の内容に触れています。ご了承ください。

 ホウ・シャオシュンがカンヌで監督賞を受賞した作品。
 チラシに「最も美しく、最も静謐な、新しい武侠映画」とある。

 そして、その通りなのだ。殺陣のシーンはキレがよいのだが、派手な声や音は出ない。なるほど、暗殺者というのは、こういうものかもしれない。
 いきなり始まるアクション。そしてアクション以外の場面は極めて静か。というリズムにちょっとついて行けなかった。
 もちろん、美しい風景などの見どころはあるのだが、中国の国境付近を主な舞台としていて、たとえば華麗な宮廷のようなものをもっと見たいと思っていると、あてがはずれる。
 遣唐使の青年役で妻夫木聡が出演していて、「生と死が渦巻く物語の中で」「中和剤のような役割」と自分で言っているが、それはその通り。彼のファンが満足するのかどうかはよくわからないが、違和感なく溶け込んでいた。  

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2015年09月22日

『キングスマン』

 以下の文章では、映画『キングスマン』の内容に触れています。ご了承ください。

 コリン・ファースが50歳を越えてからスパイ映画でアクションを見せるとは思わなかった。
 1960年前後生まれの(コリンはちょうど1960年生まれ)かつての英国美形アクターの中では、どちらかというと地味な存在だったコリンがアカデミー賞をもらった時には「ほお」と思ったものだが、その後も多様な作品に出演し続けて、そして、これ。
 マシュー・ヴォーン監督の『キック・アス』はテレビで見たことがあったので、アクション場面はしつこいほど長いだろうというのは予想できた。そして、コリンのアクション場面は、いい。
 ここに出てくる悪人の主張もわからなくもない。人間がいるから、地球に悪影響を与えるのだ。だから、人間の数を減らそう--ただし、自分の仲間は残して。そう考え始めると、うまくいかない。
 結構残酷なシーンもあるので、15Rだが、スパイもののパロディのようで、話は考えて作ってある。でも、あれこれ詰め込んであって、なんというか--コリンはおしゃれなんだけど、映画自体はおしゃれではない。  

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2015年09月08日

本『いとま申して~『童話』の人びと』

 以下の文章では、北村薫の本『いとま申して~『童話』の人びと』の内容に触れています。ご了承ください。


 三部作のうち、先に第二作の『慶應本科と折口信夫』を読んだので、戻って第一作を読んだ。作家の北村薫が、自分の父(明治42年生まれ)の日記をもとに書いたもの。

 その時代を描いたものでもあり、その頃に生きたひとりの中学生~高校生の姿を描いたものでもある。
『童話』という雑誌があり、投稿を募っていた。父の作品が一度入選して、選評も載る。それによって父は「作品を書くこと」にこだわるようになり、同人誌に参加するが、その同人誌も休刊になる……
 そういう、ちょっと昔の、創作に関わろうとした少年の誰もが味わったような経験がつづられていく。
 ただ、作者の父のことをさほど知りたいと思わないような読者にとっては、興味深いのは『童話』には、後に有名になった人たちが投稿していたことだろう。
 金子みすゞ。彼女は何度も入選していた。
 淀川長治。『童謡』の部で佳作になった。しかし淀川らしさが表れているのは通信欄(読者からの手紙)だと作者は言う。そのお便りがひとつ引用されているが、確かに興味深い。
「まあ! 素的ですね」から始まって、「では、サヨナラ」で終わる。この人の語り口は中学生の頃からもう出来上がっていたのだ。
 後年になって作者の父は、テレビに出てくる人が、かつて自分と同じ雑誌に投稿していた人だと気づいたのだろうか?
 そんなことも思いながら、読んだ。  

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2015年08月28日

『さよなら、人類』

 以下の文章では、映画『さよなら、人類』の内容・結末に触れています。ご了承ください。


 スウェーデンの作。こういう映画もあるのだなぁと思わせてくれる。
 おもしろグッズを売って歩くセールスマンのサムとヨナタンが一応各場面をつなぐような役割をしているのだが、彼らの出てこない場面もある。
 すべてセット撮影。セットは抑えた色調で、陽も射さず、風も吹かず、雨も降らない。その中で人々が歩き、話し、時に歌う。一番見ものなのは、現代のバーに突然18世紀の騎馬隊とスウェーデン国王が現れるところだろう。
 サムとヨナタンはケンカするが、またやり直そうとするところで終わる。正確に言うと、やり直そうとしたのにまた蒸し返して
「自分の欲望のために人を利用するのか?」
「哲学者気取りだ」
と言い合っている二人に、アパートの管理人が
「なんで夜中に哲学を語るんだ。早朝出勤の者もいるんだ」
と注意するところで終わる。
 この終わり方は面白い。それまでに各場面で繰り広げられてきた奇想天外な、あるいはどこかにありそうな、ちょっと考えさせるような、くすっと笑いたくなるようなものも全部まとめて「早朝から出勤する者の前では、たいしたことではない」と言っているようにも聞こえるからだ。  

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2015年08月28日

『ボヴァリー夫人とパン屋』

 以下の文章では、映画『ボヴァリー夫人とパン屋』の内容に触れています。ご了承ください。

『ボヴァリー夫人』を愛読するパン屋がいた。場所はノルマンディー。空き家だった向かいに、フランスの田舎に憧れたイギリス人夫妻が引っ越してくる。妻の名前はジェマ・ボヴァリー。
 パン屋は隣人として、また店主と客として、彼女と親しくなっていく。散歩の途中にも出会う。しかし、パン屋とジェマの恋の話かというと、それは違う。近くの別荘に夏の間だけ来ている青年がいる。パン屋が思い描いた通り、ジェマと青年は惹かれ合っていくが、パン屋はニセの手紙を出して、二人の恋を終わらせる。
 果たしてジェマは『ボヴァリー夫人』のような最期を迎えるのか?
 ジェマを演じるジェマ・アータートンはさわやかでエロティック。ファブリス・ルキーニ演じるパン屋は一種のオタクなのだろうが、オタクにはやさしい映画だ。パン屋はジェマからもそんなに責められることもなく、勝手に彼女をボヴァリー夫人に見立てていられるし、パン屋の妻も文句を言うわけでもないのだから。会話の中に出てくる、イギリス人とフランス人の違いみたいなものをもう少し知りたい気はしたけれど。
 パン屋は「『ボヴァリー夫人』は‘退屈する女‘という典型をつくった」と言い、「平凡な女性は人生に退屈したりしない」と言う。なるほど、「退屈」というのは、文化が成熟した果てに出てくる、ひとつの特権なのかもしれない。  

Posted by mc1479 at 13:24Comments(0)TrackBack(0)
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