2016年08月19日

桜は本当に美しいのか

 以下の文章では、水原紫苑の著書『桜は本当に美しいのか』の内容に触れています。ご了承ください。

 この本のテーマになっていることを漠然と感じたことのある人は結構いるのではないか。毎年お花見の季節になると大騒ぎ。どこが咲いた、どこは満開、もう散り始めた、どこが名所。もちろん仕事上の付き合いからどうしてもお花見という行事をしなければならない人もいるだろうし、お疲れ様とも思うが、「そんなにいいものか?」と呟きたくなる気持ちもある。とりわけ桜「だけ」がこんなに特別扱いされるなんて、と思うのだ。
 この本は、歌人としての立場から、桜がいかに日本人の「こころの花」に仕立てられていったかを辿っている。
 歌人による歌集の読み方を知ることができたのは面白かった。教科書にバラバラに取り上げられた歌一首一首の解釈を中心に読んできた経験しかない私は、「はあ、歌集の中で続けて置かれている歌の、つながり具合、まとまり具合や変化の出し方は、こう読むのか」と思った。
 とりわけ、古今集の中で、山の中に人知れず咲く、万葉集に出てきてもおかしくない桜を詠む歌などから始まって、だんだんと「人に見られる桜」、そして万葉集の時代にはなかった「散る桜」の美しさを詠む歌に至る、と歌を挙げながら追っていくところ。さらにそれは『新古金集』になると、現実の桜というよりも、桜の不在・非在が多く詠まれるようになっていく。実在でなくてもいい、ということになると、つまり桜は想像の中にある、美の象徴、追い求めるべきものになっているわけだ。
 さらに西行、定家、世阿弥と続いていく。
 もちろん、近代になって国家に利用された桜のイメージにも触れられているが、それはこの本の中心テーマではない。
 また、有名な歌についても、たとえば「みわたせば柳桜をこきまぜて宮こぞ春の錦なりける」の「こきまぜて」の音の響きにどうしても抵抗があるとか、逆に歌は下手だといわれる本居宣長の歌のいくつかをとりあげ、「行道にさくらかさしてあふ人はしるもしらぬもなつかしきかな」は文句なくいい歌だと思う、としている。そういう自分なりの評価を見せてくれるのもいい。
 現代に至ると、短歌だけではなくポピュラーソングにも桜は現れ、しかももう戦争のイメージも抱いてはいない。ただ季節の移ろいや繰り返しやはかなさの象徴でもあるようだ。
 桜ソングはあくまでも個人を歌うものであってほしいという願いで閉じられている。  

Posted by mc1479 at 12:48Comments(0)TrackBack(0)

2016年08月11日

『紙の月』

 以下の文章では、映画『紙の月』の内容に触れています。ご了承ください。


 1990年代。銀行の外回りを担当する、働く主婦である一女性が、お金を使い込む。
 導入部は丁寧だ。お金が足りなくなった時、お客から預かった中から一万円借りてしまう。その時はすぐに返した。が、両親を亡くし祖父にも援助してもらえないから大学をやめるという青年に、その祖父から預かったお金を回す。仕事場から用紙を盗み、自宅でコピーを使い、手を広げていく。
 青年とは恋仲になるのだが、これが典型的なダメ男。しかし、クライマックスで主人公が向き合うのは、青年でもなく、だました客でもなく、真面目な同僚の女性だ。
「私は、徹夜をしたことがない。いつも明日のことを考えるから」と言う彼女に対して、「私はしたわ」と言い、窓を割って逃げていく主人公。
 そういう、女VS女、の映画だったのか。
 主人公は宮沢りえ、同僚の女性が小林聡美。  

Posted by mc1479 at 12:23Comments(0)TrackBack(0)

2016年08月10日

『利休にたずねよ』

 以下の文章では、映画『利休にたずねよ』の内容に触れています。ご了承ください。


 こういう言い方は失礼だとは思うが、時代劇は画面と音楽が美しくて役者がある程度揃っていれば、見られるものだと思う。
 特に、歴史上の有名人物なら、「今度は誰がどんなふうに演じるか」という楽しみもあるだろう。ここでは、信長を演じるのは伊勢谷友介で、秀吉を演じるのは大森南朋。伊勢谷信長はクールで、あまり狂的な感じはしない。大森秀吉は権力志向のちょっと単純な人に見えるが、利休の側から描くと、秀吉はこんなふうになるのかも。
 もちろん中心は利休なのだが、その初恋も含め、そんなに寄り添って共感できる人物ではない。
 が、初めに書いたように美しく仕立てられているので、楽しんで見ていられるのだ。  

Posted by mc1479 at 08:47Comments(0)TrackBack(0)

2016年08月09日

『切腹』

 以下の文章では、1962年の映画『切腹』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 1962年の白黒映画だが、構成が面白かった。
 いかにも貧しげな浪人が、武家屋敷にやってきて、ここで切腹させてほしいと言う。最近では食い詰めた武士がそう言って、実際にここで死なれたら困ると考える主人からいくばくかの金をせしめることがあるらしい。三ヶ月前にもそう言ってきた男がいて、金目当てだろうと思い、あえて切腹をさせてやりましたと思い出す。その時積極的に切腹を推し進めた三人は、きょうは休んでいる。
 準備が整えられたところで、男の口から、三ヶ月前に切腹したのは自分の娘の婿だと明かされる。幼い子が病いで、なんとか金が欲しかったのだ。その後、娘もその子も亡くなり、自分は死ぬばかりだ。ただし、婿が「一両日待ってくれ」と言ったのに強引に切腹させた三人の髷は切り落とした。男は存分に戦ったあと、自分の腹に刀を突き立てる。
 今の感覚からすると、もうちょっと展開がスピーディなほうがいいな、と思うのだが、切腹や殺陣のシーンがリアル。今の(特にテレビドラマの)殺陣は血の流れないものが多いが、血は噴き出すし、飛び散る。
 好き嫌いはともかくとして、それを受け入れる時代があったのだと思う。  

Posted by mc1479 at 12:42Comments(0)TrackBack(0)

2016年07月22日

蕭々館日録

 以下の文章では、本「蕭々館日録」の内容に触れています。ご了承ください。

 本郷弥生町の、作家・蕭々の住まい、蕭々館。妻と、娘の麗子がいる。蕭々の趣味で、麗子は岸田劉生の描く麗子像にそっくりの格好をしている。蕭々館には、作家仲間がよく集まって談義をする。
 芥川龍之介をモデルにした九鬼さん、小島政二郎をモデルにした児島さん、菊池寛をモデルにした蒲池さん。それに編集者。蕭々さんは、いや、そこに集う誰もが九鬼さんの才能にはかなわないと思っていて、そして九鬼さんが死の影をまとっていることを知っている。彼をなんとか「生きる」方にひっぱりたいのだが、それは誰にもできない。麗子にもできない。
 どの章も九鬼さんへの愛情が感じられる。麗子は五歳の幼女だから、九鬼さんも平気で抱きしめたりするが、麗子自身は子どもが甘える気持ち、というよりは対等の女性が異性を心配するような気持ちで接している。
 麗子は九鬼さんのことをわかっている。
「花と、花の匂いとは元々別のものなのです。九鬼さんが追いかけたり、追いかけられたりしたのは、花の匂いであって、花の幸福ではなかったのです。」というのは、九鬼さんがどういう女性に巡り合っても穏やかな生活を得られない原因を言い当てている。
 麗子の唯一の近所の友達として登場するのが「頭が重すぎる」賢い男の子、比呂志くん(もちろん、実際の芥川の息子の比呂志くんとは別)。比呂志くんは麗子と一緒に蕭々館の集まりの場にときどき居合わせて、大人たちより鋭い意見を述べたりする。この比呂志くんは年齢が少し合わないが、三島由紀夫がモデル?とも言われている。
 九鬼さん、児島さん、蒲池さんについては作者自身が誰がモデルかをはっきり書いているのだが、比呂志くんについては作者の言及はない。何しろ子どもだから、賢いのはわかるが、その発言には初々しいというか、どこか物足りないようなところもある。そのあたりも、麗子の思ったことという形で書かれている。
「〈知識)というものは、たとえば百万あるうちから一つ取り出すから輝いて見えるのであって、比呂志くんのように百の知識の中からだと、底が見えてしまって辛いのだ。」
 麗子にとって同じ年頃の唯一の友達だし、決して悪く思っているわけではない。しかし麗子が恋しているとしたら相手は九鬼さんであって、比呂志くんではない。
 麗子は九鬼さんに抱かれたり、一緒にじっと書斎にこもっていたり、九鬼さんのそばでその肌を感じ香りを感じることにはどきどきするが、比呂志くんはそういう対象ではない。
 頭の重すぎるのを少し軽くしてあげようとは思うし、同情することはある。けれども九鬼さんに対するような、せつないような苦しいような思いは、ない。
 いや、ここに出てくる人物すべてが九鬼さんにそのような思いを抱いているように見える。そして誰もが九鬼さんの死を恐れつつ、誰もそれに対しては何もできない。「大正」という時代の象徴であった九鬼さんがその時代を追うように去っていくのを誰も止めることはできなかった。
 かといって、これが絶望的に暗い話かというと、そんなことはない。
 蕭々館でのやり取りは軽快に描かれているし、九鬼さんがいなくなったあと、麗子は麗子像に似た格好をやめて、普通の女の子らしい格好になる。
 死にゆくしかなかった九鬼さんはたいそう美しく描かれ、その意味でこれは芥川龍之介へのラブレターではないかと思う。  

Posted by mc1479 at 12:58Comments(0)TrackBack(0)

2016年07月08日

I am Ichihashi

 以下の文章では、映画『I am Ichihashi』 の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 女性を殺害し埋めて、逃げた男がいた。整形手術まで受けて、二年以上逃げ続け、とうとう逮捕された。市橋という男。

 2013年に映画化された時は、ミニシアターで公開されたが、それほど大きな話題になったという記憶はない。最近、テレビ放映されたのは監督・主演のディーン・フジオカが有名になったからだろう。
 あまり同情する余地のないような男の話を監督・主演するのは大変だろう。逃げ続ける彼の心情に寄り添っていかなければならないだろうが、彼を犯罪に走らせた理由が特に描かれるわけではない。
 そこで登場させたのが、逃亡中の市橋に会って取材するインタビュアーだったのだろう。彼は警官ではないから、市橋を逮捕はしない。しかしその口調は次第に彼を責めるようになっていく。二人のやり取りの場面に、市橋の逃亡生活の様子が挟みこまれる。
 逃げ続ける市橋に対して「それでいいのか」と責めるインタビュアーを配することで、この同情しにくい男の話を客観的に描こうとしたように見える。
 そうは言っても、内容が内容なので、やはり「面白い」と言って見ていられる映画ではない。インタビュアーは実は市橋持自身(彼の分身)だったのか?と思わせる仕掛けは「なるほど」とは思うのだが…  

Posted by mc1479 at 12:33Comments(0)TrackBack(0)

2016年07月06日

蜷川実花さんの写真集(の玉木くん)

 IN MY ROOM という。蜷川さんの写真集。もともと雑誌に掲載されていたもので、玉木くんの載った号は買っていた。だから買うのよそうか、という気持ちもあったのだが、東京での写真展には行かないし、書店では立ち見できないようにビニールがかけてあったので、買った。
 ひとりあたり4ページ。総勢36人。途中、少し休みをはさんでいるが、連載としては完結している。
 初めて撮る人もいれば、何度目か、何年ぶりかの人もいる。共通点があるとしたら「蜷川さんがカッコイイと思っている男性」なのだろう。もちろん雑誌のことだから、その号が発売される頃にその人に関する何かがリリースされた、という場合が多いと思う。

「私の部屋で」というが、室内の写真ばかりではない。街中だったり水族館だったり。室内だとシャツの前をはだけてくれるサービスもあったり。脱いではいないが、ベッドの上にいたり、ベッドやソファで仰向けでもうつぶせでも寝てるポーズ、の人も。
 全体を通して見ると、最初は本当に「部屋の中」で撮影していたものが、時間と条件の許す範囲で「外」で撮るようになったのかもしれない。
 そういう中で見てきても、玉木くんのどアップは目を引く。顔全体がページに収まらないくらいの。ヒゲもちょろっと生えているのだが、目と唇のインパクト大。特に目。瞳の色の薄いのがよくわかるのもあるし、いわゆる目力に圧倒されそうなものもある。
 背景のわからない、スタジオで撮った写真なのだろうが、玉木くんだけ「ガラス越し」なのは他の人にない特徴。
 玉木くんの手前にガラスがあって、そこに水滴がついている。いや、上から水を流しながら撮影したのかもしれない。手法としては、それほど珍しいものではないのかもしれない。
 しかし、IN MY ROOM というタイトルからして、どちらかというと、くつろいだ、撮る側と撮られる側の隔たりのない共同作業的なものを想像していると、この写真だけは「IN MY ROOM」ではない、と思うのだ。ガラスの向こう。撮る側が部屋の中にいて、撮られる側は外にいるのか。あるいは撮る側が外に居て、たとえばガラス窓越しに、中に居る、撮られる側を見つめているのか。
 この写真を見ると、一介のファンにとっては「その通り」だという気もする。ファンにとっては、彼はいつも何かの向こうに居る人。テレビの画面の向こう。スクリーンの彼方。彼との間には、まさしく隔たりがある。
 しかし、「写真を撮る」という行為自体、すでにレンズ越しに、つまりガラス越しに隔たれた対象を撮るわけだ。いくらくつろいでいるように見えても、部屋に居るように見えても、それは違いない。
 では、「玉木宏を撮る」ということは、特にその「撮る」という行為を意識させる出来事だったのか。だから、あえてガラス越しであることをはっきりわからせる撮り方をしたのか。
 実際、くつろいでいるような、自然に見える表情をしていることも多い他の人と違って、玉木くんはほぼ同じ、こちらを見据えている顔、それだけである。
 遠くを見る目も、憂い顔も、にっこりもしていない。射るようにこちらを見る視線。「サクサクっと撮り終えた」らしいが、ということは、この目線、この顔こそが、撮る側にとって「撮りたい」と思う玉木くんだったのだろう。少しも目を逸らさない、その顔。誘っているというより、挑んでいるような目。
 そういう表情だけを撮って、しかも「これが玉木宏です」と言われれば納得してしまうような。常に「あちら側の人」ではあるが、目を逸らさない。「撮られる」ではなく、あえてこう行く、と向かってきているような目にも見える。
 こう向かいますが、どうですか? どうします? と撮られる側が来て、撮る側が行きましょう、と応じる。撮る側が「あなたを撮って作品にする」と臨んでいるなら、撮られる側も「これでいきますか」と提案しているような。戦い、というと厳しすぎるかもしれないけれど、どこかそういう意味合いすら感じさせるような写真で、そこが好きだ。  

Posted by mc1479 at 12:38Comments(0)TrackBack(0)

2016年06月14日

佐藤泰志の作品をいくつか読んでみた

 以下の文章では、佐藤泰志の作品およびその映画化作品の内容に触れています。ご了承ください。


 1949年生まれで、1990年に自ら命を絶った佐藤泰志について、それほど知っているわけでもないし、思い入れがあったわけでもない。最近よく読んだ島田荘司(1948年生まれ)とほぼ同世代なわけだが、90年代に既にいなかった人、となるこ「過去の人」というイメージは拭えない。
 近年、佐藤泰志の代表作と言われる『海炭市叙景』と『そこのみにて光り輝く』が映画化されて話題にもなったことが、興味を惹いた。
 クレインから出版されている『佐藤泰志作品集』には、どちらも収録されている。
 それを読んで思ったこと。
 映画化に際して、どうも悲惨な面が強調されているな、ということ。それが日本映画の傾向なのか、原作者の最期を意識するとそうなるのか、はたまた悲惨な面を強調したほうが映画としての評価が高くなるのか、そのへんはわからない。
『海炭市叙景』は、原作では18の短編連作で、中には切手を収集する中学生や、親の別荘に夏だけ滞在している19歳の青年の話しもある。しかし、映画化で取り上げられたエピソードは、妻の浮気を疑う男の話や、逆に自分が浮気しているプロパンガス店の男の話、立ち退きを拒む老婆の話、飲み屋でケンカを止める話、山で行方不明になる兄と待つ妹の話、などだ。深刻なものが多い。原作では、そういう深刻な話ももちろんあるが、そこに軽く明るい(それゆえにふわふわして長続きしそうにはない感じのする)エピソードも挟まれていたのに。そして、それらの明るい話の中で、『ミツバチのささやき』とおぼしき映画や、ジム・ジャームッシュの映画に言及されていると、昔の人と思っていた作者がふと近づいてきたような気にもなったのに。
 映画では、どこか見捨てられたような海炭市の様子は、よく出ていたと思う。逆に言えば、そこには、明るさが足りない気がした。もう少し、若い世代の明るい話も入れても良かったのではないかと、小説を読むとそう思った。
 
『そこのみにて光り輝く』は評価の高かった映画だ。この高評価はマイナス点をつけにくい、という意味かも知れないと思うこともあるが。
 これもまた映画のほうが悲惨だ。原作のヒロイン・千夏が、寝たきりなのに性欲だけはさかんな父の相手をしているらしい、とわかるラストだけでも結構な衝撃だが、映画ではさらに、千夏の元の男がいやらしく、千夏の弟がその男を刺してしまうという展開になっていた。ただ、この原作には続編にあたる『滴る陽のしずくにも』というのがあるそうで、それはこの作品集には収録されていないので、もしかすると続編ではそういう展開があったのかもしれないが。

 とにかく私が映画を見た時の印象は「ここまで悲惨にしないでほしいな」ということであり、この原作を読むといっそうその思いが強くなる。そこまで悲惨な要素(特にヒロインを悲惨な目にあわせる)を入れないと、「いい映画」にならないのか? たぶん中年以上の男性が多いだろう映画の批評家には、そういう形でないと受けないのか? つまり自分も悲惨な目にあいながら家族を支える黄金の心を持つ娼婦、みたいな女が出てくるほうが受けるのか。
 しかし原作の千夏には気のいい娼婦みたいな印象はなかった。

 解説で福間健二が、佐藤の作品の特徴を書いている。
「佐藤泰志の表現は、中上健次のような、神話的な時空への展開を持たないし、また、村上春樹のような、ニュートラルな身ぎれいさに向かうこともない。ひとくちにいえば、等身大の人物が普通に生きている場所に踏みとどまっている。虚構への飛躍度が低いのだ。」

 現実的であること、どこかこの社会に違和感を覚え、反発しようとしているようなところ、は嫌ではない。ただ、男女の関係を見ると、やはりその時代のものだという気がする。男二人の住まいに泊まった女が、翌朝の食事の準備をする。男の一人が、こんなふうだったら一緒に住んで欲しいようなことを言う。女は一緒に暮らすなら三人で交代よ、と言うが、次の朝もやっぱり女が準備している。現代ならこの時点で三人一緒に暮らすという夢は、女によって「おしまい」と宣言されるだろう。そうなっていないところが80年代までの、作者が暮らした時代であり、もしかしたら作者の自死も、男として一家を養っていかなければならないというこだわりにも関係があったのかもしれない。
 そこは、たいして読み込んでいない私などの口を出すところではないのだけれど。  

Posted by mc1479 at 14:56Comments(0)TrackBack(0)

2016年06月10日

探偵ミタライの事件簿 星籠の海

 以下の文章では、映画『探偵ミタライの事件簿 星籠の海」の内容に触れています。ご了承ください。


 タイトルが長い。原作小説はあっさりと「星籠の海」だが、もちろんこれが名探偵・御手洗潔シリーズの一作であることを読者は知っている。原作に触れていない人にも探偵もの、推理ものであることを知らせるために、映画のタイトルは長くなったのだろう。

 御手洗シリーズはもう35年も続いているのだが、「星籠の海」は故郷の福山市を舞台に、島田荘司が最初から映画化を前提にストーリーを考えた。小説は膨らんで上下二冊の大作になったが、脚本は大筋をもとに人物を減らし、福山が舞台だという点は存分に生かしている。
 原作からのファンが不満に思うかもしれない点は、御手洗の相棒・石岡が登場しないこと。御手洗がホームズならワトソンに当たるのが石岡で、二人のやり取りに笑えるものが多いのだが、今回は彼が不在で編集者の小川という女性が同行するという設定なので、石岡との間の長年親しんできた者どうしに許される遠慮のない会話は聞けない。
 天才・御手洗に対して一般人の石岡がいることで、読者も御手洗の推理を解説してもらうことができるわけだが、ここでは小川がその一般人の役目をつとめる。地元警察の、御手洗に反発する若い刑事と、「まあまあ」となだめつつ御手洗の推理についていけないベテラン刑事が登場するtのも、小説にもよくあるパターンだ。
 既に原作も読んでから見たミステリファン、御手洗ファンが多かったようだが、映画の評価は分かれる。
 原作では世界中で悪事を働いてきた新興宗教の教祖が最大の悪人で、事件の解決は、悪が日本に押し寄せるのをとどめる役も担っていた。人物を改変することで、そのスケールの大きさは失われた。それを残念がる人は、この映画をあまり高く評価しない。
 しかし、悪の親玉を外国人にするという設定は、映画ではしないだろうなと思っていた。もし、この映画を外国に出すことを考えるなら、それはまずいだろうから。また、小説には原発が原因で亡くなる子どものエピソードもあるのだが、これもたぶん映画には入れないだろうなと思っていた。要するに、私が「これはないだろうな」と思った要素は予想通りなかったので、そういう意味ではがっかりはしなかった。石岡が登場しないのは残念だが、声だけは出てくる等、工夫はしている。
 巨大な悪というよりは日本的・情緒的な色合いの濃い犯罪になったのは確かだが、御手洗自身が悪を見逃すわけではないし、あくまでも謎解きの面白さを主軸にしたところが良かった。
 映画を評価する人は、スリリングな謎解きものとして二時間弱でスピーディにまとめ、すべての謎を解いてみせる手際のよさを賞賛する。また、長年ファンが思い描いてきた御手洗を演じて不満や落胆を引き起こすことのない玉木宏の実力を認めている。
 彼が御手洗を演じるのはテレビドラマに続いて二度目だが、さらに御手洗っぽい。テレビドラマの時より顔が痩せて頬骨がはっきりわかるのも日本人離れした容貌を引き立てているし、服装も見た目に構わないふうでありながら、それなりにこだわりのある人物に見せている。
 安定した低音ボイス。何かを見つけた時、ひtらめいた時、淡々と謎解きをする時。各場面の表情がきちんと変化している。
 エンタテイメントものの評価が低いことを考えれば、この映画の評価は決して高くはないだろう。けれども長年多くの人が夢想してきた御手洗を具体的に存在させ、ファンを満足させたことは記憶されていいと思う。
   

Posted by mc1479 at 14:59Comments(0)TrackBack(0)

2016年05月18日

ひそひそ星

 以下の文章では、映画「ひそひそ星」の内容・終盤の展開に触れております。ご了承ください。


 久しぶりに今池に行ったら、駅構内にコンビニ等ができていたのに驚いた。ガスビルから地上に上がって、シネマテークまで歩く道沿いの店も、変わっていた。そんな中、シネマテークがこの地で30年以上あり続けているのは、すごいことに思えてくる。
 
 シネマテーク通信に、園子温監督のインタビューが載っていて、久しぶりに名古屋シネマテークで公開ですね、とインタビュアーが言っている。最近の園監督の映画は、もう少し大きなところで公開されていたので、久しぶり、なのだ。
 そして肝心の映画『ひそひそ星』は、まさにシネマテークにふさわしい映画だった。たたみかけるようなところがなく、娯楽的要素は少ない。思い入れがあり、美しい画面があり、不思議な融合があり、しかし、うっかりすると居眠りしてしまう。
 昔の日本家屋(平屋)そのままに推進力だけくっつけたようなう宇宙船で、星々へ宅配便を届けているアンドロイドの洋子。既に人間は2割、アンドロイドが8割になっている世界。瞬間移動できる装置もあるのに、それが人間にもてはやされたのは最初のうちで、こうして何年かかっても荷物を届けてほしいという依頼がある。それはアンドロイドである洋子には理解できないが「距離と時間へのあこがれは、人間にとって心臓のトキメキと同じようなものかもしれない」と思っている。
 宇宙船内で洋子のしていることは、ほぼ主婦のようだ。ただし、だいぶ楽な主婦。他の人のために食事の用意をする必要もないし、洋子自身アンドロイドだから、食事をとる必要もないのだろう。排泄も入浴も必要ないから、トイレ掃除・風呂掃除もない。部屋の掃除はしているが、ゴミ処理をどうしているのか、気になるところだ。
 配達の場所は、いくつかの星にわたっているはずだが、皆同じ日本の場所で撮影されている。福島の、無人になった被災地だ。電線の無くなった電柱がずっと続いている一本道。かつてそこが何の店だったかがわかる看板は残るが、もう入口も窓も壊れている店の並ぶ通り。海岸。打ち上げられた船の周りにぼうぼうと草の生い茂ってきている場所。
 この映画はほぼ全編が白黒なのだが、窓ガラスのすっかり無くなった廃墟の中から見る、外の日がかんかんと照っている景色だけが一場面、鮮やかなカラーになる。
 洋子は淡々と荷物を届け、受け取りのサインやハンコをもらう。時には宇宙船の中で、荷物の中身を覗いてみる。フィルムの切れ端、一枚の写真、ペンが一本、絵の具を置いたままのパレット。それらは洋子にとってそれ以上の意味はないものだろうが、届くのに何年かかっても届けるということ自体に、彼女が疑問を抱いている様子はない。宇宙船の中で掃除をし、お茶を飲み、コンピューターと話す。その繰り返しに彼女が退屈している様子もない。
 会話はほぼ、ささやくような声で行われるが、映画のセリフとしてはきちんと聞き取れる。
 画面は被災地を映すとき、残酷ではあるが、廃墟マニアが感じるような美しさがなくもない。
 届けた荷物を受け取った際に、代わりにカメラを渡していく男の子が終盤に登場する。
 洋子は宇宙船の中で、そのカメラを使って撮り始める。
 洋子の覗いた荷物の中身は、ほぼ記録するための道具(ペン、パレット)や、記録されたもの(写真、フィルム)だった。洋子も、自分の声で日記のようなものをテープレコーダーに吹き込んでいたのだが、途中でレコーダーが壊れて以来、それはしなくなっていた。
 声ではなく、画像で記録することにしたのだろうか。
 被災地を映し出す映像は、ときにセリフがまったく無く、かなりの時間続いていた。それは作り手が、やはりセリフよりも画で伝えていくことを選んだ、ということを示していたのだろうか。  

Posted by mc1479 at 13:01Comments(0)TrackBack(0)

2016年05月11日

「川端康成初恋小説集」感想

 以下の文章では、「川端康成初恋小説集」の内容に触れています。ご了承ください。

 この文庫本には、「ちよもの」(「ちよ」は作者の初恋の女性)と呼ばれる作品が集められている。同じ作品の第1稿、2稿、もっとその後の……らしきものが並べられていたりして、その比較をするマニアックな読み方を楽しむ本なのかもしれない。
 たとえば最初に掲載されている『南方の火』の最後に「その少年の心を感じる少しの表情も見せずに、みち子は薄っぺらに笑っていた。俊夫は少年の傘に落ちた冬の雨が、自分の心に落ちる音を瞬間聞いた。」とある。35ページから掲載されている長いほうの『南方の火』には、最後ではなく途中で同じような場面が出てきて、「その少年の心を感じる少しの表情も見せずに、弓子はなにげなく微笑んでいた。時雄はその少年の傘に落ちた冬の雨が自分の心に落ちる音をふと聞いた。」となっている。語感だけで受け取ると「薄っぺら」は明らかにマイナスイメージを持つ言葉だ。「なにげなく」は、そうでもない。その後の展開では、弓子は時雄には簡単に理解できないような心変わりを見せて、いったんは結婚できると思った時雄に、まったくそうできない様子を見せる。その時のショックを与えるためにも、ここではまだマイナスイメージの言葉は出てこないほうがいいと判断したのだろうか。
 同じような場面は、『新晴』という作品では、また少し違って、稚枝子は、東京から来た少年の心を、聊かも感じ分けない風に、軽々笑っていた。」となる(ここには「自分」の反応はない)。この表現になると、また稚枝子が薄情な感じになる。
 
 また、別の作品『彼女の盛装』では、彼女が家出して東京の自分の所に来るまでに、揃えておいてやろうと思った品々のメモが出てくる。本文では一行に一項目書いてあるのだが、適当にかな書きに直しながら、続けて書いてみる。
「鏡台 女枕 手袋 化粧てぬぐい 髪飾 針箱 針 糸 指抜 へら
はさみ アイロン こて へら板 こて台 鏡台掛 手鏡 洋傘と雨傘
部屋座布団 衣装盆 櫛 ブラッシュ 髪こて 元結 髷型 手絡 葛引 びん止め おくれ毛とめ ゴムピン 毛ピン すき毛 かもじ ヘヤーネット 水油 固ねり油 香油 ポマード 櫛タトウ」
 化粧関係、特に髪の関係のものが多いこと。女性が身だしなみを整える準備をきちんと揃えておいてやろうとしたのだ、とも言えるが、じゃあ服(着物)や履き物はまったく揃えてやらないのか、という気もする。また、茶碗や箸が入らないのは、ずっと外食で済ますつもりだったのだろうかと思うと、生活感のない「揃えるべきものリスト」にも見えてくる。
『南方の火』に戻ると、時雄の思い描く結婚というのも、なかなか厄介だ。十分に子ども時代を味わわなかった、自分も弓子もそうだと思っている時雄は、まず二人で十分に子ども時代を味わおうと考える。かと思うと、弓子の荒れた手を見て、そこにレモンやクリームを塗ってやりたいと思う。
 実際に、二人の人間が暮らして子ども時代を楽しむなどということができるのか。食事はどうする? 子どもに戻る、と言いながら「食べること」は女性の側が用意してくれるという前提なら、甘い思い込みだ。昔のことだ、掃除も洗濯も重労働だろう。
 
 自分の思い描く通りにこの娘と暮らしてみたい、かばってやりたい、愛してやりたい。ただし、それは自分の思う形で。それは女の側からすれば愛されている、とはなかなか思えないのではないか。
 それを鋭い勘で悟った弓子が断ってきたのだとしたら、弓子の判断は正しかったような気がする。
「ちよもの以外にも「女性観をよく表した作品」が収録されているのだが、その中にも興味深い表現はある。
『再会』では、不倫関係にあった女性と久しぶりに会った男が、相手の変わりようを見て「白い肌が首から上はやや黒ずんでいる、その素顔が出て、首の線の胸の骨に落ちるところに疲れがたまっていた。」と描写するのは残酷な観察眼だと思う。いずれこんなふうに見られるようになる、と予想して別れを告げる女もいるだろう。
 巻末の解説では、川端香男里が「この時代、女給という仕事は市民権を獲得していた」と書いている。ならば「自立して、自活できる女性」だったはずの初恋の人が、そうはさせてくれなさそうな男を敏感に嗅ぎ取って避けたのかもしれない、とも言える。  

Posted by mc1479 at 13:13Comments(0)TrackBack(0)

2016年05月02日

「屋上の道化たち」感想

 以下の文章では、島田荘司著「屋上の道化たち」の内容に触れています。ご了承ください。

 「御手洗潔シリーズ」は30年以上に渡って書き継がれてきたミステリーだが、私は玉木くんが御手洗を演じる、と知ってから読んだので、発表順には読んでいない。それでも、ミステリーというだけでなく、時には文明論や社会批判を登場人物の口を借りて語らせている、というのはわかる。長編が多いが、作者自身、楽しんで書いているのではないかという気もする。
 「屋上の道化たち」はシリーズ最新作。発行された時点で読むのは、私は初めて。
 時代設定は1991年1月。舞台は神奈川県T見市。

 御手洗シリーズの魅力がとんでもないトリックにある、という人にはいい。ここでは誰かが意図的に仕掛けたわけではないのだが…
 御手洗と石岡のやり取りを楽しみたい人には、まあまあ。シリーズ中には、二人がわりと最初から登場するものと、事件が起こってから登場するものとがあるのだが、これは後者。
 俺流ラーメンを出すおやじの店を訪ねるあたりが、一番楽しい。
 もちろん、事件は明確に説明され、その意味ではスッキリするのだが、物足りなさを感じる人もいるかもしれない。
 ここには、長年にわたる怨みや計画があるわけではない。海外まで行って、謎の追求をするわけでもない。都市論や文明論めいたことも語られない。
 ただ、発売された時点で読む面白さはあった。島田氏自身、「あさが来た」を欠かさず見ていると呟いておられた。本作に最初に登場する人物の名は信一郎(新次郎じゃなくて!)。その相手になる女性は大阪出身で今も大阪弁を話す。もしかしてあさドラの影響?等と考えるのも愉しい。  

Posted by mc1479 at 15:58Comments(0)TrackBack(0)

2016年04月26日

小川洋子「最果てアーケード」感想

 以下の文章では、小川洋子の「最果てアーケード」の内容に触れています。ご了承ください。

 久しぶりに小川洋子の作品を読んだ。もっとも、それはこちらの都合で、作者はコンスタントに発表し続けているのだと思うが。

 小川洋子は、その出発時から「少女漫画のような」と形容される作品を書いてきたと思うが、「最果てアーケード」はそのものズバリ、マンガの原作だそうだ。もちろん、マンガとは異なる書き足しもあるかもしれない。マンガ化された作品は、私は見ていないので、比較はできない。
 そういうことは置いておいて、やはりマンガ的、いや、彼女の描く世界がマンガにぴったり合っているようなところは感じられた。
 この人の書くものは、どこか生々しさを欠いている。醜さ、と言ってもいい。
 小川作品とは関係ないが、アニメのお年寄りはみんな可愛いという話がある。実際のお年寄りが可愛くない、と言っているのではない。アニメでもしわは描かれ、姿勢が前傾していたりはする。それでもアニメのお年寄りは可愛い。
 小川洋子の描く人物にも、どこかそういうところがある。
 たとえば、剥げかけたマニキュアをつけた、子細にみれば古びた服を着た「兎夫人」は近くで見れば不気味にもあわれにも感じられるかもしれない。しかし、作者はその不気味さを強調したりはしない。むしろ、かわいそうな人に見える。
「死」が描かれることがあっても、葬式やそれに伴ういざこざや、手間のかかることは描かれない。
 火事で亡くなる人があっても、人の焦げた臭いがした、などとは絶対に書かない。
 そのへんが、小川洋子作品の「生々しさの欠如」であり、もしかしたらもの足りない思いをする人もいるのかもしれないが、逆に作品に童話的と言っていい雰囲気を与えているのも確かだと思う。  

Posted by mc1479 at 15:41Comments(0)TrackBack(0)

2016年04月25日

「あさが来た」スピンオフ

 以下の文章では「あさが来た」スピンオフドラマの内容に触れています。ご了承ください。

 朝ドラをまともに見てこなかったので知らなかったのだが、最近の朝ドラは本編放映が終わってしばらくするとスピンオフが放映される、という慣習ができているらしい。
 本編撮影が終わってから撮影されることもあるようだが、「あさが来た」の場合は、最終週の撮影と重なるような撮影時期だったようだ。脚本は、本編と違い三谷昌登さん。本編担当の大森美香さんが脚本監修。演出は、本編のチーフ演出だった西谷真一さん。

 加野屋がいよいよ加野銀行を始める準備をしている頃、亀助はふゆと結婚して九州へ行っていたが、京都へ一時戻って来ていた。ふゆと結婚したものの、ふゆの父に許しを得ていないことがいまだに気になっている亀助は、この機会に、美和の経営するレストラン「晴花亭」で、ふゆの父に挨拶したいと思い、連絡した。
 しかし会う前に心配になり、雁助に練習相手をしてくれと頼む。晴花亭には美和の先輩にあたるサツキが来ていて、夫についての愚痴をこぼしていた。そのサツキが亀助の話を聞いて参加して……とまあ、想像できるようなドタバタが展開する。ふゆの父は本編では少し登場しただけだが強烈な印象を残す人だったので、ここでまた出てくるのも、どんなことになるのかと期待させる。本編のメインの登場人物たちは忙しいので、サツキという新キャラクターを出して、ドタバタに加勢させるのもいいアイディアだと思う。
  やり取りにも、単に面白いだけでない「なるほど」と思わせるところがあった。亀助は最初練習する時には、ひたすら「すんまへん」と言うのだが、サツキのアドバイスもあって、「おおきに」と言うことにする。ふゆのお父さんに「わざわざ来てもろて、おおきに」ふゆさんを育ててもろて「おおきに」。そのほうが相手も感じよく受け取れるのではないか。もちろん、話の展開上、亀助が慌てるような事態になって思わず「すんまへん」と言ってしまい、「すんまへん言うたな。悪いと思うこと、したんやな」と突っ込まれる場面もあるのだが、落ち着いた時にやっと亀助の言う「おおきに」で、ふゆの父の気持ちも収まることになる。
 思い出してみれば、あさが祝言の日に加野屋に来た時、亀助が言ったのが「すんまへん」だった(新郎の新次郎が祝言を忘れて出かけていたので)。
 そして、新次郎が亡くなる前に集まった皆に言ったのが「おおきに」だった。
 そう思えば、あさの新次郎との生活は「すんまへんとおおきにの間」にあったわけで、このスピンオフのキーになる言葉に、それらを持ってきたのは本編のツボを押さえた作り方だったと言えるだろう。
 そして、亀助の危機!? と晴花亭にやって来る加野屋のメンバー、栄三郎、よの、かのたち。帰ってきたら皆がいないので、やはり晴花亭に来る、あさと新次郎たち。
 もと芸妓のサツキから「お久しぶりです」と言われて新次郎が慌てるのも、ヤキモチを焼く表情をするあさの頬を新次郎がつまむのも、お約束とは言え、微笑ましい。
 最終回まで見て、よのが亡くなり、かのが去り、新次郎の亡くなるまでを見た後でこれを見ると、若々しい加野屋メンバーが、ふゆのお父さんや亀助を囲んで乾杯する様子を見るだけでしんみりする。亀助と雁助のやり取りが好きだった人には、たっぷり聞けて満足だろう。もうひとりの放っておかれキャラだった、最初にふゆと結婚したいと言ってきた洋傘屋さんも意外にいいところを見せて、うまくまとめている。
 もちろん、もっと違うメンバーのその後を見たかったという人には不満もあるかもしれないが、スピンオフはスピンオフ。本編のちょっと変わったカーテンコールと思って楽しんだ。  

Posted by mc1479 at 13:00Comments(0)TrackBack(0)

2016年04月08日

Mrホームズ 名探偵最後の事件

 以下の文章では、映画『Mrホームズ 名探偵最後の事件』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 ホームズ大好き、な人ならもっと細部が楽しめるのかもしれない。コナン・ドイル原作のものではなく、引退したホームズを想像して描いた小説がもとになっている。
 90歳を越えたホームズは、海辺の家でミツバチを飼って暮らしている。相棒だったワトソンはとうに亡くなり、家政婦とその息子が話し相手だ。
 冒頭のホームズは、日本から帰ってきたところ。長年のファンでミツバチにも薬草にも詳しいと手紙を送ってきた男を訪ねたのだ。どうやら自分の記憶の衰えを意識しているらしいホームズは、それを少しでも食い止めようと薬草を日本から持ち帰ってきたらしい。しかし日本で会った男は実は「父は、イギリスであなたに会ってから、日本に帰って来なかった」と恨みを言うためにホームズと話したかったようだ。だが、その男の父とどんな会話を交わしたか、ホームズには思い出せない。この日本パートで出てくるのが真田広之。
 ホームズにはもうひとつ、はっきりとは思い出せない事件がある。自分が引退するきっかけになった事件だ。ワトソンが書き残したものとは結末が違っていたと思うのだが、それが思い出せない。
 家政婦とその息子とのやり取り、日常の中で起きる事件を通しながら、ホームズはやがて、戦争が始まった時に日本人に告げた言葉を思い出し、最後の事件の結末も思い出す。いずれの場合も、ホームズは正しいことを言ったのだが、関係者は幸せにはならなかった。
 今のホームズは、家政婦とその息子を引き止めることが自分にとって必要だということがわかる。孤独を教養で埋めてきた男が、無学な家政婦に頼みごとをし、その息子と心を通わせる。
 そんなのホームズじゃない、という人もいるかもしれない。日本人としては「不思議の国ニッポン」みたいな日本パートも気にかかる。
 しかし、回想シーンで登場するホームズがスタイリッシュなので(もちろん、老ホームズと同じイアン・マッケランが演じている)それを見るだけでもいいか、という気にもなる。つまり私がホームズものを見る楽しみは、世紀末の雰囲気を感じる楽しみによるところが大きいのだろう。  

Posted by mc1479 at 12:16Comments(0)TrackBack(0)

2016年04月04日

あさが来た

 以下の文章では、ドラマ『あさが来た』の内容・最終シーンに触れています。ご了承ください。

 朝ドラを最初から最後まで通して見たのが初めての私が言うのも何だが、上手に作られたドラマだったと思う。

【時代劇であることを利用】
 朝ドラ初の「幕末から始まるドラマ」と宣伝された。こういう時代設定になったのには、制作統括の佐野元彦さんの意向が反映しているような気がする。『篤姫』で、将軍や姫の立場から描いた幕末を商人の側から描きたい……確か、そういう発言もあったと思う。
「時代劇」という枠を設定することで、はつとあさの姉妹が決められた相手のもとに嫁いで「お家を守ろう」とする始まりが、無理なく受け入れられた。現代の話なら、男も女もまず自分のために働き、フェミニストならすんなり男の姓を名乗ろうと思わない。そういうところは時代劇だと、あらかじめ決められたこととして通り過ぎてしまえる。
 あさが商いを始めようとしてからもそうだった。商家の旦那たちの勉強会に参加した時はじろじろとおいどを見られ、会の後に酒が出れば当然のようにお酌を求められる。現代劇なら「NHKはセクハラを容認するのか」と批判されそうな場面だ。それも「時代劇だから」ということで済まされる。いや、ひるがえって現代でも似たようなことをする男がいることを思い起こさせる皮肉にもなる。
 現代を考えさせる、という点では登場人物の死もそうだった。ドラマ中で臨終の場面が描かれた人物は皆、家族に囲まれて自宅で逝く。病室でチューブにつながれて意識不明のまま亡くなることの多くなった現代への批判ととれなくもない。
 さらに、登場人物たちの平和主義的なセリフがある。男ばかりの炭坑に乗り込んだあさが、ピストルを出すとたちまち相手がおとなしくなったと語ると、夫の新次郎は次のように語る。
「相手負かしたろ思て武器持つやろ。そしたら相手はそれに負けんようにもっと強い武器を持って……太古の昔からアホな男の考えるこっちゃ。あさは、何もそない力ずくの男の真似せんかて、あんたなりのやり方があるのと違いますか?」
 現代への批判ともとれそうなこのことば、現代劇ではなかなかセリフにはしにくいだろう。

【登場人物の面白さ】
 しょっちゅうテレビで見る顔、そうでもない顔を取り混ぜたキャストも良かった。ヒロインたちの親の世代はベテランの人たちで固め、あさに対して常に「よくできる姉」であるはつと、その結婚相手で最初は無表情な惣兵衛を、宮﨑あおいさん、柄本佑さんが絶妙に演じた。
 ヒロインのあさが健気なだけでなく、ある意味大雑把な性格なのも面白い。新婚で夫が夜出かけてしまっても「考えてもしゃあない。寝よ!」とぐっすり寝てしまう。なるほど事業を次々と興していく女性には、こういう面も必要だろう。甘えるのも下手。人の気持ちに鈍感なところもある。そういう豪快なヒロインを可愛く品のある波瑠さんが生き生きと演じた。
 色気を売りにする女が登場しなかったのも、女性視聴者に評判が良かった要因ではないだろうか。仕えることを貫くうめも良かったし、もっとも色っぽいと見えた三味線の師匠・美和は妾は自分の道ではないときっぱり拒否をして、レストラン経営者に転身する。

【やっぱりラブストーリー】
 家業の両替商を手伝うところから始まって、炭坑経営、銀行、女粗大設立への協力、生命保険会社と次々に仕事をしていくあさだが、仕事の内容がいちいち詳しく描かれるわけではない。ただ、「先に形にしてしまったほうが勝つ」みたいなセオリーを見せてくれたのは面白かった。あさは常に時代を先取りし、先に形を示してしまうほうが賛同を得やすくなることを心得ていた。最初はお家のためにお金が欲しい欲しいと言っていたあさが、ゆとりができると後の時代に何が残せるかを真剣に考えて教育に力を入れようとする流れも、無理なく描かれていたと思う。
 男社会への挑戦と同時に、家の中では娘に反発される。そんなあさを支え続けたのが夫の新次郎。
「このドラマの一番の功績は、『妻を支える夫』というキャラクターを生み出したこと」と言う人もいる。
 漫画家の柴門ふみは、このドラマの構図は「古くからの少女漫画の定石」と見抜き、「イケメンがそろいもそろってヒロインを手助けしてくれる」と書いた。まさにその通りで、夫についても、五代友厚についても、自由な創作が多いのだろう。それでも「女主人公がふたりの男の間で揺れ動く」という形にならなかったところに健全さを見る。これは夫も同じで、妾は置かない、と断言する。以来ふたりは年を経てもラブラブ夫婦なのだ。
 あさが縫い物が苦手、とか新次郎が雨男、といった設定も生かされていたが、最終週になって「やっぱりラブストーリーなんだ」と感じた。
 老いて病を得た新次郎のそばにいるために、仕事から引退するあさ。お互いの大切さを確認し合うふたり。
 ひょうひょうとして、でもどこか核心を突くようなことを言う新次郎。お茶、謡、三味線は名人の域。商いは嫌いだが、旦那衆との付き合いを活かして陰で手助けする。つかみどころのなさを残しつつ、やりすぎでない芝居で見せ切った玉木宏さん。
 美しい所作、三味線を弾く姿勢。お茶道具を扱う手の動き。巾着を回す動作が印象的だったので、晩年になってそれがなくなり、背が曲がっていくのを見るのはつらかった。
 ラストシーンを見て意外に思った人もいたらしい。私も、あさの業績が現代まで続いていますよ、というような終わりかと思っていたのだが、そうではなかった。
 老いたあさが話を終えてふと見ると、少し離れたところに若い姿の新次郎が立っている。駆け寄るうちに、あさも若い姿に。
 多くの視聴者は「消費できる感動」を求めている。そうした希望に応えるためにも「事実ではないかもしれないが、あってほしい場面」を節目節目に入れてきたこのドラマ。それらをわざとらしくなく見せたのはスタッフ・キャストの力量だ。半年間、この人物たちに親しんできた視聴者が望みそうな、納得できそうな着地点がここだったのだと思う。つまり、女実業家の人生を描きつつ、ずっと愛し合った夫婦の物語だということ。
  

Posted by mc1479 at 17:21Comments(0)TrackBack(0)

2016年03月25日

「リリーのすべて」

 以下の文章では、」映画「リリーのすべて」の内容(ほぼ結末も)に触れています。ご了承ください。


 実在した人物だという。世界で初めて「男性から女性になる手術」を受けた人物の話。
 難しい題材だ。興味本位では描けないし、勇気を賞賛するだけでは足りない。この映画はあくまでも主人公とその妻の心情により添っていくことで、こういう人生もある、と伝えようとしている。

 1920年代。デンマークの風景画家アイナー・ヴェイナーは、そこそこ認められた画家。妻のゲルダは肖像画を描く。モデルが来なくて困った時に、ゲルダはアイナーに代わりを頼む。ストッキングを履き、ドレスを身に当てたと時、アイナーは自分の中に女性が居ることに気づく。
 それ以来、女の服をまとったリリーになる時と、アイナーである時が混じるようになるが、やがてリリーこそが本来の自分の姿だと思うようになる。
 交際し、結婚したのはゲルダのほうが積極的だったらしい。とはいえ、二人は傍目には熱愛中の夫婦だったのだ。
 ゲルダの苦悩は、どれほどだったろう。
 アイナーに女装をさせたのはゲルダなのだ。そのことで、彼の中の「リリー」を目覚めさせたことを、後悔したに違いない。精神的な治療も役に立たないと知ると、本来の自分つまり女性の身体になる手術を受ける決意をする夫。その夫を受け入れる妻。妻を慰めるのは、夫の幼い頃の親友だったという男。
 この三人、もっとドロドロした関係になりそうなところを、こうなってしまったことを受け入れるのが愛、というようなスタンスで描いていく。
 もちろん、世間には、アイナー=リリーのような人を異常と見なす人もいて、そのことも描かれる。女性の身体を得るために命まで賭ける必要があるのか、というのも部外者の感想だろう。リリーにとっては、それこそが人生だったのだから。
 どうしても妻目線になってしまうので、つらい感じがするが、ゲルダがそれを受け入れていることで、筋の通った、りんとした人生に見えてくる。  

Posted by mc1479 at 14:47Comments(0)TrackBack(0)

2016年03月22日

「ファイナルガール」

 以下の文章では、藤野可織の本「ファイナルガール」に収録されている作品の内容や結末に触れています。ご了承ください。


 この人の書く話は、どこか気色悪い。「爪と目」などではそれが体の内側に入ってきそうな気色悪さだったのだが、ここに収められた話は、どこかユーモラスな感じもする。

 ストーカーに好かれる、とか、あるはずのないドアから屋上に出て戻れなくなる、とか、予定もなかったのに歯医者へ行って親知らずを抜くはめになる、とか・・・・・・当人にとっては災難なのだが。
 ユーモア、というよりブラックユーモアを一番感じたのは「狼」。
 幼い頃、父と母が狼をやっつけて守ってくれた。「俺」はそれ以来、手に入れなければならないものをうっかり手に入れ損なったきがして今度狼に出会う時に備える。体を鍛え、体力をつける。就職した会社で知り合った女性と一緒に暮らすことになり、引っ越したその日に、狼がやってくる。
「俺」が動けすにいる間に、彼女が狼をやっつける。

 これがユーモラスに感じられるのは、語り手が「俺」で、彼女がさっさと狼をやっつけてしまうからかもしれない。表題作の「ファイナルガール」でも、連続殺人機に何度も出くわす主人公が女性だから面白いのかもしれない。狼を前に動けなくなるのが女性で、闘って生き延びるのが男性だったら、面白みはずいぶん減るかもしれない。
 そこに作者の企みがあるのかもしれないが、その企みを深く考えなくても、面白く読めることは確か。  

Posted by mc1479 at 14:48Comments(0)TrackBack(0)

2016年03月01日

キャロル

 以下の文章では、映画『キャロル』の内容・結末に触れています。ご了承ください。


 これは、女性のための映画だ。描かれるのは女どうしの愛だが、興味本位ではない。ひと目見て惹かれ、一緒に食事をして、旅に出て……と深まっていく愛が自然に描かれる。

 1950年代。キャロルは人妻で娘が一人。きちんと整えられた髪、タイトスカートにハイヒール、赤い唇。ケイト・ブランシェットにはそういうクラシカルなファッションがよく似合う。実は、もうすぐ離婚する予定のキャロル。
 彼女がクリスマスプレゼントを買いにきたデパートで働いていたテレーズ(写真家志望)。テレーズがキャロルの忘れ物を届けたことから、二人の交際が始まる。
 離婚協議中のキャロルは、最初どうしても娘の養育権を欲しがっている。少し夫を避けて旅に出るのだが、テレーズが同行することになる。夫は探偵に尾行させて、キャロルが同性と不適切な関係にあることを証拠に、養育権を奪おうとする。
 女性どうしの愛が女性の自立と重ねて描かれることは、今までにもあったと思う。直接にキャロルとの愛が原因になったわけではないが、テレーズは写真家としての腕も活かせる職場で働き始める。
 キャロルはどうか。娘を自分のもとに置くことにこだわるのなら、心理療法を受けて、自分は「正常」になったと主張しなくてはならない。キャロルが娘をかわいがる様子見ているだけに、そうなるのかなと思う。それだけ「母性」をいろいろなことの理由、切り札にする展開を私たちは今まで(他作品で)見てきている。
 しかし、そうはならない。それがこの映画の重要なポイントだ。キャロルは自分の性的指向を否定せず、娘を引き取ることを諦め、面会権だけを求める。
 自分で自分を否定することはできない。キャロルは、しばらく会わずにいたテレーズと再会し、誘い、テレーズもそれに応える。
 仕事の時間は別として、二人の指向する世界には男性は入って来ない(キャロルの子どもが娘であることにも意味があるのかもしれない)。それが、この映画を女性のためのもの、と感じた理由だ。  

Posted by mc1479 at 13:00Comments(0)TrackBack(0)

2016年02月14日

玉木くんの声を聴きながらフェルメールを見る

 東京で今、「フェルメールとレンブラント 17世紀オランダ黄金時代の巨匠たち展」をやっている。同じ展覧会は既に京都で開催されたのだが、京都展と大きく違うのは、音声ガイドが玉木宏くんであるということ。京都展をやった場所は好きなので、ここでも音声ガイドが玉木くんだったら京都のほうに行っていたと思うんだが……

 さて、この展覧会。タイトルがちょっと違うんじゃないか、と思う人もいるかもしれない。むしろサブタイトルが実質を表している、と。何しろフェルメールとレンブラントの作品は各1点ずつ。ただし、両方とも初来日なので、その点では貴重だ。
 フェルメールには熱狂的なファンがいるようだ。30数点しか現存しないその絵を全部見たい、と旅に出る人もいると聞く。
 2008年に日本ではフェルメールが7点来日した展覧会があったので、それを堪能した人たちには、今回のはどうなのだろう。
 私自身もその2008年のは見たのだが、その時思ったのはフェルメールの絵は小さいものが多いので、できればあまり混雑していない会場でじっくり見たいな、ということだった。
 今回は平日の、あまり天候も良くない日だったせいか、その点では恵まれていた。絵の前でひとりじっくり見る、ということも可能だった。
 イヤホンガイドの機器を借りて、番号表示のある所でその番号を押すと、解説が流れ出す。時にはBGM入り。あの声で「モティーフ」とか言われると心地いいんだな。

 関東地方のみでこの展覧会のガイド番組があった(今度21日にBSで再放映があるらしい)。録画してもらって見た。玉木くんはあくまでナビゲーターで、その番組でフェルメールの魅力を解説していたのは福岡伸一さん。生物学者だが、『フェルメール 光の王国』という著書もある。番組では「フェルメールの絵にはエゴがない」というのが面白かった。これが俺の解釈する世界だ、と押し出していないのだとか。
『フェルメール 光の王国』を読むと、さらにフェルメールの魅力について「絵の中の光が、あるいは影が、絵としては止まっているにもかかわらず、動いているように見えること」「そこに至るまでの時間と、そこから始まる次の時間への流れが表現されていると思える」と書いている。

 それを読むと、ははぁ、だから玉木くんはこのナビゲーターにふさわしかったのだな、と納得する。彼はよく写真を撮る。『秘境ふれあい紀行』では毎回、旅先で彼の撮った写真が紹介されたが、流れる滝、波打ち際、木の間から射す光、などの写真の多かったこと。そして空。雲海。つまり彼の撮る対象は、移りゆくものの一瞬なのだ。
 そういう彼が、一瞬の光を留めようとしたフェルメールの解説をするのはぴったりだと思う。
 もちろん、初めに書いたように、ここにはフェルメールの絵は1点しかない。しかし、その他の作品でも、どちらかというと小さな親密な感じのする絵を見ながら、その声だけを耳から入れることにより濃密な愉しみがあるような気がした。  

Posted by mc1479 at 09:51Comments(0)TrackBack(0)
QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。 解除は→こちら
現在の読者数 0人
プロフィール
mc1479