2017年03月14日

 以下の文章では、柳美里の「男」の内容に触れています。ご了承ください。

 柳美里「男」(新潮文庫)。
 最初に出たのは平成12年とあるから、17年前か。
 中にこんな文がある。
「当代若い女性の人気を二分しているのは中田英寿と木村拓哉だろう。」
 さらに続けて「木村拓哉主演の連続テレビドラマを1,2度観たことがあり、現代の若者像をあれほどリアルに造形できるのは、彼を置いてほかにいないと高く評価している。木村拓哉は最近ではめったにオ目にかかれない野心と反抗とを併せ持ったジュリアン・ソレル的な青年だと思う。彼にルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』の主人公よりもっと強い悪意と復讐心を抱いた役を与えれば、目を見張るようなヒーロー像を創り出せるに違いない。」とも書いている。
 ファンではないと言う。
 読んでいるこちらも、なんとなく柳美里がとても人気のある人を好きなんて何か違うような気がする。もう少しマイナーで玄人好みの人を好きになるのではないかと勝手に思ってしまうのだ。
 しかしファンでないと言いつつ、上半身はだかの写真(のページ)を切り取っておいたそうだ。「彼の喉もとから両肩に向かって真っ直ぐ伸びた鎖骨に目を奪われたのだ(中略)精悍ともエロティックとも異なる、男の根源的な力、選ばれた人間の刻印に見えた」

 なるほど。さて「男」という本は、目・耳・爪・尻・唇・肩・腕・指・髪・頬・歯・ペニス・乳首・髭・手・声・背中 と分かれていて、全体がある小説を書こうとする試みのような構成になっている。だから全体としてのつながりはあるのだが、ひとつひとつのパートへの思い入れは案外薄い。体のパーツにこだわりのある人から見たら物足りないだろうし、フェティシズムの本ではない。
 彼女にとっては、やはりパーツに分けるのではなく全体としての「男」が大切だからだろうか。
「わたしは男を描くならば、神話的な存在として登場させたいと考えているのだ。男の顔も、性格も、肉体も神話性に彩られたものでなければならない。スーツ姿で都心のビル街を歩く狂暴さと狂気と知性と逞しい肉体を有した男――。」とも書いている。
 また、「わたし」は「健康な暮らし」に無縁だと自覚してもいる。
 すると、彼女にとっては木村拓哉の鎖骨は、健康の象徴でもあり、神話的な男を描けそうだと思わせるものだったのだろうか。


この記事へのトラックバックURL

 

QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。 解除は→こちら
現在の読者数 0人
プロフィール
mc1479