2017年03月14日

おやすみなさい、と男たちへ

 以下の文章では、田中りえ「おやすみなさい、と男たちへ」の内容に触れています。ご了承ください。


 作者の田中りえさんって今どうしているのだろうかとウィキペディアを見たら2013年に亡くなっているのだった。田中小実昌の娘だというのは、ぼんやりと知っていた。読んだのは初めて。
 9篇入っていて、そのうちの6篇は一人称語りで、語り手は若い女性である「わたし」。ひらがなの「わたし」だ。そう言えばこの人は「なか(中)」や「ひと(人)」「いう(言う)」「きく(聞く)」もひらがなで表記する。
 長部日出雄が解説を書いていて、「いい小説というのは、生命を持っている。時代とともに成長したり、永遠に若さを保ちつづけたり、あるいは逆に若返ったりするものだ。」と書いていて、要するに田中の小説はそうだと言いたいのだろうが、今読むと会話に違和感がある。というか、当時の女子ってまだこういう女らしい語尾を多用していたのだなあと思う。
「わかったわよ。あたしがきっと聞きちがえたのよ」
「~よしましょうね」「……あなた、好きなことってないの?」
「~しちゃったの」とか「~なくちゃならないの?」という言い方は、今ではほとんど実際に使う女性はいないのではないだろうか。
 話し言葉だけ聞いていて、容易に男女の区別がついた時代は過ぎつつある。
 長部の解説には「田中りえの小説は、わがくにの開闢いらい(おそらく経済水準の向上と避妊の普及によって)初めて社会的に出現しつつある男女対等の人間関係を、べつに意気ごみもせず、肩肘も張らず、ごくあたりまえのことのように描いている点において、画期的なのである。」ともある。
 それを利用させてもらうなら、だから結婚生活は描かれず(結婚となると男女対等はなしくずしになると作者が感じていたから)、どこか甘いのは避妊の具体的方法が全く描かれないからではないだろうか。
 今の目から見ると、田中りえの描いた「わたし」のような女性は、どこか男にとっても便利な女性だったろう。セックスはOKで、結婚は望んでいない。そに甘やかさを感じさせるところが「受けた」のだろうと思うのは、厳しすぎる見方だろうか。


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