2017年03月14日

沈黙 サイレンス

 以下の文章では、映画『沈黙 サイレンス』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 原作が書かれてから50年、だそうだ。マーティン・スコセッシがこれを映画化すると聞いてからも既に20年以上が経っている。私は以前日本で映画化されたものは見ていない。原作はだいぶん前に2回読んだ。
 単純に今の日本人なら、「なぜそんな危険を冒してまで日本に来たのか」と思うところだが、カトリックの神父にとって「世界にあまねく神の教えを広める」のは重大な務めなのだ。また、ここに出てくるロドリゴとカルペにとっては、自分たちの師であったフェレイラが日本で行方がわからなくなっている、いや棄教したのだという噂は、確認すべきものだった。マカオまで来て、そこに居た(船の難破でたどり着いた)キチジローを案内にし、中国船で密航する。九州の小さな村に到着すると、密かにキリスト教を信仰していた村人に歓迎され、山の中に隠れ家も用意される。夜になると村へ降り、告解を聞き、ミサを行なう。
 しかし信者を見つけ出すための「踏み絵」は日常的に行われており、捕えられた信者が殉教していくのを、物陰から見ることになる。安全のため、ふたりは行動を別にする。筑後守・井上と対面するロドリゴ。海に落とされる信者を追って自分も溺死するカルペ。
 筑後守・井上あるいは通辞とロドリゴの対話がけっこう長い。筑後守は特に残酷だというわけではなく、この時代の掟に従っているに過ぎないのだが、独自の理屈もまた持っている。それが日本を害するものなら排除するしかない、という理屈だ。さらに、日本ではキリスト教は根付かぬ、という理屈。ロドリゴは布教を続けさせてくれれば根付く、と反論するのだが、彼も薄々は感じている。ここで信仰されているのは、自分の信じるキリスト教からは少し変質したものではないか。
 再会したフェレイラから説得され、自分が転べば今拷問を受けている信者も許すと言われ、ロドリゴは踏み絵を踏む。原作では、ここは一番感動した場面だった。しかし、映画では意外と淡々と描かれる。特殊効果が使われるわけでもなく、イエスの声も殊更大きく響くわけではない。踏み絵に描かれたその人の顔も、原作では確かロドリゴが「この国へ来てから初めて見るその人の顔」だったはずだが、映画では(ロドリゴは直接向き合って見ていないにしても)村人が踏み絵をする場面で、踏み絵に描かれたキリストを観客は見ている。これを見えないようにしておいて、ロドリゴが踏む場面で初めてはっきりと見えたという演出なら、また印象が変わっていたかもしれない。
 とにかく、ここではロドリゴが「転ぶ」場面は、それだけ取り立てて特別な場面には仕立てられてはいない気がした。
 棄教後の話も、長い。死んだ日本人の名前を受け継ぎ、妻と子もそのまま貰い受けて日本人となったロドリゴ。フェレイラと共に、唯一の交易国となったオランダから入ってくるものにキリスト教のしるしがないかを検閲する係となり、その役目を忠実に果たす。「棄教した」という証文は定期的に書かされる。亡くなると仏教式に葬られるが、その握りしめた手の中には……というのが結末なのだが、ということはロドリゴも日本の多くの隠れキリシタンと同じように、密かな信仰を続けたということなのだろうか。
 ロドリゴと比較するように描かれるのがキチジローだ。家族の中でひとり踏み絵を踏んで死刑を免れた彼は、その後もロドリゴに許しを乞いながら、また踏み絵も踏み、ロドリゴを密告する。ときを経て日本人となったロドリゴに仕えるようになった彼は、定期的な取り調べの歳、首からかけているお守り袋に聖画を入れているのが見つかって連行され、その場でこの物語から消える。結局、キチジローもロドリゴもそんなに変わりはなかったということなのか。
 自らがカトリックであるスコセッシには、これだけ長くいろいろな「理由」を書かねばロドリゴの棄教は納得がいかなかったのだろうか。いや、棄教後をこれだけ詳しく描くことで、彼の人生もまたひとりの信者としてはあり得たものと、肯定したのだろうか。


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