2014年03月28日

本『この人の閾』を読んで

 以下の文章では単行本『この人の閾』に収められた4篇の内容に触れています。ご了承ください。

 表題作はずいぶん前に読んだことがある気もするのだが、あらためて、この本に入っているものと合わせて4作を読んだ。ストーリーを追うような話ではないから、そこに描かれる捉え方、感じ方について「ふむふむ、なるほど」と思えるところのある人には面白いということになるだろう。そういう意味で、私には面白かった。
 たとえば『東京画』の中で、主人公が、周囲の建物が「うらぶれている」ことを説明しようとするのに、「建物が密集している」ことや「家の建材が粗末なトタン板であったりする」ことを挙げていたのに「縁の下がない」ことに気づいた時、漠然と「うらぶれている」と感じたものの正体を知った、と思うところ。なるほど「縁の下がない」というのは「うらぶれた」感じにつながるようだと納得した。
 あるいは「自然教育園」の中を二人で歩く『夏の終わりの林の中』。古代の武蔵野の原始林からずっと続く林だと言うのだが、その中を歩きながら「人間の手がまるで全然入っていないかのように、手を入れている」のではないかと感じる感覚。
『夢のあと』では、今見てきた風景を夢のあとみたいだった、と言うと「なんかさあ、『夢のあとみたい』とか言っちゃうと、それで、何か言ったような気になっちゃうけどさあ。でも、本当はそういうのって、何も言ってないのと同じじゃない」と言われてしまう。
『東京画』には周囲の古い家が変わったり壊されていったりする描写があり、『夏の終わりの林の中』は変化していく林の中が舞台、『夢のあと』は、昔そこで遊んだりした場所を案内してもらう話。『この人の閾』も含め、「思い出」が重なってくるような箇所が必ずあるのだが、その、あるようなないような、かつては確かにあったが今は形が変わってしまったような、でもなくなりはしてもそれは単にそういうことである、というような感じが共通している。
 だから『この人の閾』に出てくる主婦の真紀さんが本を読むことについて「だって、もう読むだけでいいじゃない。何読んだって感想文やレポートを書くわけじゃないんだし。読み終わっても何も考えたりしないでいいっていうのは、すごい楽なのよね」と言う時、それはそういう立場が羨ましいからそう書いているというよりも、あるようなないような、何かがあったとしてもたちまち曖昧になってりまうような感じを体現する立場として主婦を捉えている、ということなのかな、と思った。  

Posted by mc1479 at 14:27Comments(0)TrackBack(0)
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