2017年09月22日

眩(くらら)

 以下の文章は、ドラマ「眩(くらら)」の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 ドラマ「眩(くらら)」を見た。何しろ「あさが来た」の佐野Pと脚本・大森さんのコンビで、「あさが来た」では主人公の姉・はつを演じた宮崎あおい(さき は立つのさきです)が今回は主役。そりゃ楽しみだ。

 主人公は北斎の娘・お栄。色彩あふれる画面が素晴らしく、シーンによっては光と影のコントラストが強調されている。
 しかし、すうっとひと通り見ただけで言うのもなんだが、カタログみたいな感じがしなくもないのだ。北斎の代表作やお栄の絵が次々と紹介されるからかもしれない。
 それらの美しさに比べると、いわゆるドラマチックな部分には少し物足りない気もする。そもそもお栄が出戻ったところから話が始まっているが、それまでには夫との葛藤がいろいろあっただろうに。
 もちろん、その後お栄がひそかに思いを寄せる男とのやり取りはあり、彼と関係も持つ。しかし、彼には家があり妻がいて、お栄はそれ以上踏み込もうとはしない。
 お栄は絵に取りつかれている。父には及ばない。それは自分でもわかっている。それでも描きたい。父が倒れた時、父を失うより「父の絵」を失うことを恐れているのではないか、自分はなんて娘だろうと思うが、それを深く反省するというよりは、父にもう一度絵筆を持たせるように力を尽くす。
 名高い父は膨大な作品を残し、「(自分が描いたものでも)父の名のほうが高く売れる」と自覚していたお栄の署名入りの絵は、たぶんそんなには残っていないのだろう。年老いて、弟の家に住むようになったお栄はふらふらと絵歩いて「恥にならないように気を付けてくださいよ」と弟の妻に言われる。
 それでも、お栄は平気だ。
 
 一般的に見れば、お栄は(嫌な言い方だが)「負け組」だろう。結婚に失敗し、子もなく、世間的には絵でそれほど認められたわけでもなく、老いては弟夫婦の世話になる。しかし、それでも堂々としている。
 考えてみれば「あさが来た」のヒロインは勝ち組だった。愛し、愛される夫がいて、人の三倍か四倍くらいの濃い人生を送って、後の世に残るような仕事をした。それを描いた脚本家が、そうではない女の人生を、それでも肯定して描きたかったのは、ひと組、というのか表と裏、というのか、とにかくどちらかひとつだけではいけないような気がして描いたのではないかと推測する。
 世間的に見ればたいしたことのない人生でも堂々と生きろ。そう肯定したところに面白みがあると思った。


この記事へのトラックバックURL

 

QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。 解除は→こちら
現在の読者数 0人
プロフィール
mc1479