2014年08月22日

『華氏451』

 以下の文章では、映画『華氏451』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 NHKのBSで放映されていたので、見た。だいぶ以前に吹き替えで○○洋画劇場というような枠で放映されていたのを見た覚えはある。本が禁じられた世界、文字のない世界(数字はある)ということで、最初のタイトル文字がなく、声でスタッフ・キャストが紹介される。ただし、最後のTHE ENDの文字は出るのだった。
 もちろん原作発表当時(1953年)は、全体主義への批判の意味合いが大きかったのだろうし、映画(1966年)は近未来のこととして描いているのだろう。けれども今見ると、インテリアや女性の服装はまさに1960年代、という感じがする。
 無用な思想を抱かないように本を読むことを禁じられた社会。本を持っていれば罰される社会なのだが、本を「隠す」場所がまず、テレビの中。今の薄型のテレビでは隠せそうにない。
 本を燃やす仕事の人はファイアマンと呼ばれているが、今ならファイア「マン」という言い方が、女性差別と言われそうだ。もっともこの話に出てくるファイアマンは男性ばかりだし、その妻たちが何の疑問もなさそうに専業主婦ライフを楽しんでいるのにも、現代から見ると違和感がある。
 主人公のファイアマンが通勤に使っている、車体が線路から吊り下がっている形のモノレール。こういう形なら駅舎やプラットホームが無くてもいいというわけか、車体から階段が伸びてきて地面に降りられるようになっているのだが、この形は年配の人にはキツイだろう。もっともこのモノレールには(通勤時間帯ということもあるだろうが)働き盛りの年代の人しか乗っていない。
 さて、そういう文句は置いておくとする。車体から白い階段が野原みたいなところへ降りてくるという風景は、見る分には美しい。そこで、見た目の美しさ、という点に注目すると監督のフランソワ・トリュフォーは本好きだったのだと思う。
 もっとも印象的と言っていいのは、たくさんの本を隠し持っていた年配の女性が本と一緒に焼け死ぬことを選ぶ場面だろう。焼死は苦しいと思うが、かつて手に入れた美術品を自分が死んだら一緒に燃やして欲しいと発言して非難された人がいたように、「自分の好きなものと一緒に滅びる」ことへの憧れをどこかに持っている人は多いと思う。これは本だから一点きりの美術品ではないが、しかしこの話の設定からいくと、それぞれがたった一冊ずつしか残っていない本である可能性は高い。それらと一緒に燃えて死ぬ。
 もうひとつ印象的なのは、ラストシーンだ。本が禁じられたのなら、自分たちが本になってしまえばいい。それぞれが一冊分の本を覚えているブック・ピープル。「本を読む」というのは個人的な、どちらかというと閉じこもることになりがちな作業なのに、この仕組みだと一冊の本を知ろうとすれば、ひとりの人からたっぷり時間をかけて聞くことになる。個人の作業から共同作業への展開。そのあたりを美しく描くことに、たぶん映画の意図はあったのだと思う。  

Posted by mc1479 at 12:47Comments(0)TrackBack(0)
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