2017年03月14日

おやすみなさい、と男たちへ

 以下の文章では、田中りえ「おやすみなさい、と男たちへ」の内容に触れています。ご了承ください。


 作者の田中りえさんって今どうしているのだろうかとウィキペディアを見たら2013年に亡くなっているのだった。田中小実昌の娘だというのは、ぼんやりと知っていた。読んだのは初めて。
 9篇入っていて、そのうちの6篇は一人称語りで、語り手は若い女性である「わたし」。ひらがなの「わたし」だ。そう言えばこの人は「なか(中)」や「ひと(人)」「いう(言う)」「きく(聞く)」もひらがなで表記する。
 長部日出雄が解説を書いていて、「いい小説というのは、生命を持っている。時代とともに成長したり、永遠に若さを保ちつづけたり、あるいは逆に若返ったりするものだ。」と書いていて、要するに田中の小説はそうだと言いたいのだろうが、今読むと会話に違和感がある。というか、当時の女子ってまだこういう女らしい語尾を多用していたのだなあと思う。
「わかったわよ。あたしがきっと聞きちがえたのよ」
「~よしましょうね」「……あなた、好きなことってないの?」
「~しちゃったの」とか「~なくちゃならないの?」という言い方は、今ではほとんど実際に使う女性はいないのではないだろうか。
 話し言葉だけ聞いていて、容易に男女の区別がついた時代は過ぎつつある。
 長部の解説には「田中りえの小説は、わがくにの開闢いらい(おそらく経済水準の向上と避妊の普及によって)初めて社会的に出現しつつある男女対等の人間関係を、べつに意気ごみもせず、肩肘も張らず、ごくあたりまえのことのように描いている点において、画期的なのである。」ともある。
 それを利用させてもらうなら、だから結婚生活は描かれず(結婚となると男女対等はなしくずしになると作者が感じていたから)、どこか甘いのは避妊の具体的方法が全く描かれないからではないだろうか。
 今の目から見ると、田中りえの描いた「わたし」のような女性は、どこか男にとっても便利な女性だったろう。セックスはOKで、結婚は望んでいない。そに甘やかさを感じさせるところが「受けた」のだろうと思うのは、厳しすぎる見方だろうか。  

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2017年03月14日

 以下の文章では、柳美里の「男」の内容に触れています。ご了承ください。

 柳美里「男」(新潮文庫)。
 最初に出たのは平成12年とあるから、17年前か。
 中にこんな文がある。
「当代若い女性の人気を二分しているのは中田英寿と木村拓哉だろう。」
 さらに続けて「木村拓哉主演の連続テレビドラマを1,2度観たことがあり、現代の若者像をあれほどリアルに造形できるのは、彼を置いてほかにいないと高く評価している。木村拓哉は最近ではめったにオ目にかかれない野心と反抗とを併せ持ったジュリアン・ソレル的な青年だと思う。彼にルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』の主人公よりもっと強い悪意と復讐心を抱いた役を与えれば、目を見張るようなヒーロー像を創り出せるに違いない。」とも書いている。
 ファンではないと言う。
 読んでいるこちらも、なんとなく柳美里がとても人気のある人を好きなんて何か違うような気がする。もう少しマイナーで玄人好みの人を好きになるのではないかと勝手に思ってしまうのだ。
 しかしファンでないと言いつつ、上半身はだかの写真(のページ)を切り取っておいたそうだ。「彼の喉もとから両肩に向かって真っ直ぐ伸びた鎖骨に目を奪われたのだ(中略)精悍ともエロティックとも異なる、男の根源的な力、選ばれた人間の刻印に見えた」

 なるほど。さて「男」という本は、目・耳・爪・尻・唇・肩・腕・指・髪・頬・歯・ペニス・乳首・髭・手・声・背中 と分かれていて、全体がある小説を書こうとする試みのような構成になっている。だから全体としてのつながりはあるのだが、ひとつひとつのパートへの思い入れは案外薄い。体のパーツにこだわりのある人から見たら物足りないだろうし、フェティシズムの本ではない。
 彼女にとっては、やはりパーツに分けるのではなく全体としての「男」が大切だからだろうか。
「わたしは男を描くならば、神話的な存在として登場させたいと考えているのだ。男の顔も、性格も、肉体も神話性に彩られたものでなければならない。スーツ姿で都心のビル街を歩く狂暴さと狂気と知性と逞しい肉体を有した男――。」とも書いている。
 また、「わたし」は「健康な暮らし」に無縁だと自覚してもいる。
 すると、彼女にとっては木村拓哉の鎖骨は、健康の象徴でもあり、神話的な男を描けそうだと思わせるものだったのだろうか。  

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2017年03月14日

沈黙 サイレンス

 以下の文章では、映画『沈黙 サイレンス』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 原作が書かれてから50年、だそうだ。マーティン・スコセッシがこれを映画化すると聞いてからも既に20年以上が経っている。私は以前日本で映画化されたものは見ていない。原作はだいぶん前に2回読んだ。
 単純に今の日本人なら、「なぜそんな危険を冒してまで日本に来たのか」と思うところだが、カトリックの神父にとって「世界にあまねく神の教えを広める」のは重大な務めなのだ。また、ここに出てくるロドリゴとカルペにとっては、自分たちの師であったフェレイラが日本で行方がわからなくなっている、いや棄教したのだという噂は、確認すべきものだった。マカオまで来て、そこに居た(船の難破でたどり着いた)キチジローを案内にし、中国船で密航する。九州の小さな村に到着すると、密かにキリスト教を信仰していた村人に歓迎され、山の中に隠れ家も用意される。夜になると村へ降り、告解を聞き、ミサを行なう。
 しかし信者を見つけ出すための「踏み絵」は日常的に行われており、捕えられた信者が殉教していくのを、物陰から見ることになる。安全のため、ふたりは行動を別にする。筑後守・井上と対面するロドリゴ。海に落とされる信者を追って自分も溺死するカルペ。
 筑後守・井上あるいは通辞とロドリゴの対話がけっこう長い。筑後守は特に残酷だというわけではなく、この時代の掟に従っているに過ぎないのだが、独自の理屈もまた持っている。それが日本を害するものなら排除するしかない、という理屈だ。さらに、日本ではキリスト教は根付かぬ、という理屈。ロドリゴは布教を続けさせてくれれば根付く、と反論するのだが、彼も薄々は感じている。ここで信仰されているのは、自分の信じるキリスト教からは少し変質したものではないか。
 再会したフェレイラから説得され、自分が転べば今拷問を受けている信者も許すと言われ、ロドリゴは踏み絵を踏む。原作では、ここは一番感動した場面だった。しかし、映画では意外と淡々と描かれる。特殊効果が使われるわけでもなく、イエスの声も殊更大きく響くわけではない。踏み絵に描かれたその人の顔も、原作では確かロドリゴが「この国へ来てから初めて見るその人の顔」だったはずだが、映画では(ロドリゴは直接向き合って見ていないにしても)村人が踏み絵をする場面で、踏み絵に描かれたキリストを観客は見ている。これを見えないようにしておいて、ロドリゴが踏む場面で初めてはっきりと見えたという演出なら、また印象が変わっていたかもしれない。
 とにかく、ここではロドリゴが「転ぶ」場面は、それだけ取り立てて特別な場面には仕立てられてはいない気がした。
 棄教後の話も、長い。死んだ日本人の名前を受け継ぎ、妻と子もそのまま貰い受けて日本人となったロドリゴ。フェレイラと共に、唯一の交易国となったオランダから入ってくるものにキリスト教のしるしがないかを検閲する係となり、その役目を忠実に果たす。「棄教した」という証文は定期的に書かされる。亡くなると仏教式に葬られるが、その握りしめた手の中には……というのが結末なのだが、ということはロドリゴも日本の多くの隠れキリシタンと同じように、密かな信仰を続けたということなのだろうか。
 ロドリゴと比較するように描かれるのがキチジローだ。家族の中でひとり踏み絵を踏んで死刑を免れた彼は、その後もロドリゴに許しを乞いながら、また踏み絵も踏み、ロドリゴを密告する。ときを経て日本人となったロドリゴに仕えるようになった彼は、定期的な取り調べの歳、首からかけているお守り袋に聖画を入れているのが見つかって連行され、その場でこの物語から消える。結局、キチジローもロドリゴもそんなに変わりはなかったということなのか。
 自らがカトリックであるスコセッシには、これだけ長くいろいろな「理由」を書かねばロドリゴの棄教は納得がいかなかったのだろうか。いや、棄教後をこれだけ詳しく描くことで、彼の人生もまたひとりの信者としてはあり得たものと、肯定したのだろうか。  

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2017年01月24日

肉小説集

 以下の文章では、坂木司の本「肉小説集」」の内容に触れています。ご了承ください。

 いろんな小説集があるものだ。これは、各小説の大切なところに、必ず肉料理が出てくる。ロースカツ、豚バラの角煮、ホルモン焼き……、まあ、ハムも出てくるので、これは料理とは言えないかもしれないが。ちなみに肉といって豚肉なのは、作者が関東人だからだそうな。
 気になっていた彼女の家に初めて行ってご馳走になるのがそれ、だったり。塾で一番前に座る子がいつも食べているのがハムサンドだったり。
 恋愛がらみ(これから結婚して生きていく、というのも含めて)が多く、中でも彼女の家に行って食べる、あるいは分けてもらうという話がいくつもあるのは、そういうシュチュエーションだと描きやすいからだろうか。彼女の(あるいは彼女の家庭の)好みの味。なぜ、それをよく作るか。そんな理由から話しも展開しやすいのだろう。
 サスペンスというか、ちょっと自意識過剰な主人公がピンチに陥る話もあるが、上司の退職後、悩んでいた男がそこから一歩踏み出すなど希望の持てる話が大半で、また、そういう話がこの作者に合っているように思う。
 会話が面白かったのは「魚のヒレ」という話。ほら話が得意だった祖父に「このヒレ肉というのは、魚のヒレが退化した部分なのだ」と子どもの頃ウソの説明をされて信じてしまったとか、そういう話を語るうちに男女がちょっとずつ打ち解けていく過程がイヤミなく受け取れた。  

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2017年01月24日

人生オークション

 以下の文章では、原田ひ香の本「人生オークション」の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 「人生オークション」「あめよび」の2作が入っているのだが、どちらかというと「あめよび」のほうが印象に残った。もちろん、タイトルとしては「人生オークション」のほうがインパクトがあるだろう。不倫のあげくに離婚した叔母の、せめて賃貸料の足しになるかと、叔母の持ち物をネットオークションに出すように勧めた「私」がその手伝いをしながら、叔母の人生を垣間見ていく。ブランドもののバッグは結構売れるが、衣類は安くてもなかなか売れない、などのオークションにありそうなことも描きながら、叔母に反発しながらもどこか自分と似ているところもあるとわかっていく「私」。
「あめよび」のほうは、あるラジオ番組のファンであることをきっかけに知り合った男性・輝男と付き合う美子の、そのずるずると続いている関係をどうしようかという話だ。結婚したいと美子が言っても、自分はそれに向かないと答える輝男。両親の不仲を見てきたことを話す輝男は「諱(いみな)」を持つという地方の出身なのだが、ではその大切な諱を教えて、と美子が迫るとそれは教えてくれない。結局輝男と別れた美子は結婚紹介所で知り合った男性と結婚し、飛行場で再会したとき、輝男は美子に諱を教える。
 ラジオ番組のファンの集まりやら、ラジオで自分の投書か読まれることを生きがいにしている「ハガキ職人」と呼ばれる人たちの存在や、諱を持つ人たちのグループ、というように「へえ、そういう世界もあるのか」と思うようなことが次々と出てくるのが、こちらのほうが面白いと思った理由かもしれない。これが男性作家だったら、どうしようもない輝男に、それでも美子はずっと付き添っていく、ということになるのかもしれないが、別れたところが女性作家らしい現実味があると思った。
 それは「人生オークション」のほうにも言えて、叔母は自分の人生を建て直せそうなきっかけを得て、パート勤務とはいえ、就職が決まったところで、話は閉じられる。
 んあとか前向きに生きていけそうなところで終わりにするのが、この作者の後味のいいところかもしれない。  

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2016年12月25日

ヒッチコック/トリュフォー

 以下の文章では、映画『ヒッチコック/トリュフォー』の内容に触れています。ご了承ください。


 1962年にトリュフォーがヒッチコックに手紙を送り、やがでユニバーサルスタジオで実現した、トリュフォーによる、ヒッチコックへの長時間インタビュー。それは『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』という本になり、日本でも出版された。この映画はインタビューの音源を使いつつ、他の監督(もちろんヒッチコックに大いに関心あり)へのインタビューも加えた映画だ。監督たちの話に沿って、ヒッチコックの作品の一部が引用される。
 10人の監督が登場するが(中に黒沢清もいる)、この監督はヒッチコックの作品をこう観ているのか、とわかったり、私には未見のヒッチコック初期作品も挿入されたりするなど、見ていて飽きない。
 デビッド・フィンチャーが『めまい』を「変態の映画。美しい変態」と言ったり、マーティン・スコセッシが『鳥』のある場面を「神の視点から見ている」としたり。多くの映画監督のお気に入りは『サイコ』のようだ。しかし、監督たちはそれがきちんと秩序ある世界だということも、もちろん理解している。ヒッチコックはスタジオでもロケでも、スター達も使いながら、自分で統制した。ある場合はそういう演出では演技しにくいと言うスターもいたが、それでも演技しろ、と言ったという。また、時間を思いのままに操れるのが映画の楽しみだということも自覚していた。
 これほど長く深くヒッチコックと話したトリュフォーの「ヒッチコック的」と言われる『暗くなるまでこの恋を』や『黒衣の花嫁』がトリュフォーの作品の中ではさほど評価が高くないのは、かえってヒッチコック作品は誰にも真似のできなかったものだということを証明しているのかもしれない。
 トリュフォーは、撮影中にうまくいかないとセリフを変えることもあるとこの中で話しているが、ヒッチコックはそれに対して反対しないまでも、驚いたような反応を示している。そのあたりが二人の大きな違いだったのかもしれない。
 しかし、このロングインタビューののち、トリュフォーはほぼ一年に一作ずつ映画を撮っていったが、ヒッチコックはわずか三作しか撮れなかった。時代が、ヒッチコックには合わなくなっていったのか。
 それに関して言うなら、52歳で亡くなったトリュフォーのほうが時代に乗れていたのかもしれない。彼の晩年は、日本でもミニシアターが増えて話題作をさかんに上映していた頃で、メジャーに公開されなくても、公開される場があった。トリュフォーの晩年に作品はそういう場で公開されることも多かった(たとえば『緑色の部屋』は岩波ホール、『隣の女』はシネマスクエアとうきゅう)。
 もともと、トリュフォーにはどこか「個人的」な映画をも撮りたいという希望があったのではないだろうか。そういう映画にはミニシアターはぴったりだった。
 一方、ヒッチコックはあくまでも多くの観客を目当てにしていたのだろう。この中で「映画館の2000人の観客」を想定している、と話すところがある。200人ではなく、2000人をいっぺんに惹きつけドキドキさせるものがヒッチコックの考える映画だったのだ。
 現在、ミニシアターはどんどん消えていき、映画は巨大ヒットを狙うものが多く登場している。それらは確かに、ヒッチコックよりも多くの観客を目指しているのだろう。ただし、ヒッチコックの映画にあったような、多くの観客を惹きつけながらも「変態」な映画はなかなか出てこないように思う。そういうところが彼の凄さだったのかと改めて感じた。  

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2016年12月17日

ロマンチックウィルス

 以下の文章では『ロマンチックウィルス』(島村麻里・集英社新書〉の内容に触れています。ご了承ください。

 著者の名前も初めて聞いたし、こういう本が出ていることも今まで知らなかったのだが、世間的には「いい年をした」女性の熱中ぶりを書いているということで、興味を持った。
 出版されたのは二〇〇七年。ここで取り上げられているのは主に「韓流」、中でもペ・ヨンジュンに熱狂した人を対象に考察している。
 それまでファン活動などしたことがなかった、もしくはうんと若い頃にはあったけれどずいぶん遠ざかっていた・・・・・・という人たちが大量にファンになる。ファンとしては「ビギナー」なので熱中の度合いが高い。お宝が増える、よく出かける、〈たとえば韓国語の)勉強をする、仲間が増える・・・・・・
 そういう人たちは「こんな自分が好き」「まだ、自分にもこんな部分があったんだ」と自己愛に浸っている面もある。
 ある程度まで、元気になる、生きがいができる、など良い面が多いが、人の迷惑も考えずに自分の趣味を押し付けようとしたり、仲間うちでトラブルになる、など行き過ぎると弊害もある。
 また、日本(東南アジア)では、結婚していても「女性ひとりでのお出かけ」が認められているという基盤があってこそ、この熱中も起こるのだというのは面白い指摘だ。欧米のように「出かけるならペアが基本(夫婦なら夫婦揃って出かける)」という文化の強いところでは、なかなか既婚の女性ファンが大量に集まって熱狂する、という場は生まれにくいのだとか。
 もうひとつ、いわゆる「アイドルにきゃきゃあ言う」ようなことからは卒業した、と見られている中高年女性に(当時の)日本は鑑賞に耐えるようなテレビドラマなどをうまく提供できていなかった、そこに上手にはまったのが韓国ドラマではないかという考察も面白い。
 現在は少し状況が変わってきているのかもしれないが、韓国ドラマの人気が高まったことで、作り手側が意識的に高い年齢層に向けた作品を発し始めたのなら、それはいいことだろう。まあ、実際には経済力を持っている人たちを「おばはん」と呼んで排除できなくなったという商業的な理由がるわけだが、どんな理由でも、今までほぼ無視されてきた世代が重視されるようになったのなら、それはいい。
 結論的には、著者はロマンチックウィルスに感染することも上手に生かしていこう、という立場。元気になれるし、仲間も作れる。もちろん、ひとりで楽しんだっていい。長い老後にもいい刺激というわけだ。
 でも、そうまとめられてしまうと、何か物足りない気もする。著者自身、韓流ではないがかなりのファン歴があるそうで、読み物としてはきっとそれを書いてもらったほうが面白い。とは言っても、新書であるからには、こういうまとめにんるのだろう。  

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2016年12月17日

ドラマ『キャリア』

 以下の文章では、連続ドラマ『キャリア』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

『キャリア』良かった。
始まった時も、もちろんいいと思っていたのだけれど、最一回はテンポの良さで、見せ切ったところがあった。もう今は、どんな事件を描こうと「どこかで見たことがある」と言われるだろうから、それらを組み合わせて描く、ということになるのだと思う。第一回は序盤がバスジャック、その後落書き犯と逃走犯の話がからむ。結びつかないと思っていたものが結びつく「なあるほどと言いたくなる快感があるわけだ。あとは主人公の北町署署長・遠山金志郎のキャラクター設定。まっとうな正義感ある警官。と言っても「署長」なのだから、本来は出歩いたりせず、署内の管轄・指導をするべきなのだろう・・・・・・というのは、このドラマのセリフからもわかる。
 ただ、この署長は現場に出たくて仕方がない。
「僕は、市民に警察の力を信じてほしいし、市民の力も信じたいんです」と語る。
 そう、この語り口も独特で、常に丁寧な「ですます調」を崩さない。第四回で誘拐犯に話すときでも、そうなのだ。
 しかし、このほわ~んとした裏に何かもっとありそうだ、というのは金志郎を玉木宏が演じている以上、視聴者は思うのではないか。ただのほんわりさんでは、ないだろう。どうしても『IMAT』の日向先生を思い出してしまうからかもしれない。緊急時にたとえば人質や犯人をも含めて治療する医者、でありながら、闇を抱えていた日向先生。
『キャリア』で言えば、第一回で、逃走犯と遭遇した時、振り向きざまに犯人が突き出したナイフを素手で握ってしまう場面がある。もちろんそうされれば犯人は武器が使えないし、揉み合った末に逃げ出すのだが、素手で刃を握ってしまうところに何かただならぬ気配がある。
 しかし第二回以降、ほぼそういう危うさを想像させるところは秘められてきた。冤罪をかぶりそうな人にはあくまで味方をし、どんな人も暴力にさらされたりすることのないよう気を遣う。
 スイーツを携えて北町署にやってくる警視監・長下部さんの存在や、ヨガ教室での風景も、このドラマのほんわかした部分を受け持っていた。
 ほんわかした部分と、スリリングな部分のバランス。それがドラマの妙味だったと言ってもいい。神回とも言われる第八回ではそのバランスが絶妙で、ファンを熱狂させた。
 さて、第九回に来て、ストーカー、あわや殺人?という事件を描きつつ、過去の金志郎の父の死についても疑問が現れ、急展開を見せる。したがって、ほんわりした部分が少なくなってしまったが、どう決着をつけるのか、金志郎はやはり普通でないものを背負ってしまった、どこか歪んだ人だったのか、そのあたりがどう描かれるのか、ということに焦点が絞られてきた。
 結果から言えば、最終回の前半で少し自分を見失ってしまった金志郎だが、そこはこれまで彼が関わってきた刑事課の部下たちが支えてくれる。父を殺した犯人との対峙。よくある展開でここで犯人は死ぬのかと思ったら、そうはならないところが新鮮だった。
 犯人は挑発する。ここで俺を殺せば、警察の隠蔽工作はばれない。お前も父の敵が討てるだろう。しかし、金志郎は、そういう憎しみの連鎖は選ばない。さらに、犯人に自殺もさせない。
 生きて罪を償わせる、という。そして当時の隠蔽工作をした上司たちを告発するのは、実はその時自分も関わっていた長下部さん。
 警察署長も周りの人に支えられていることがよくわかる展開にしていた。
 特筆すべきはこのドラマ、一度もドラマ中で殺人が起こらなかったことだろう。もちろん、前提として金志郎の父は殺されているので、その回想シーンは出てくる。ただ、それはこのドラマの始まる前の物語だから、ドラマ内の事件では誰も殺されなかった。
 殺人事件の犯人である男にも生きさせる。生きろ、という選択。それがこのドラマの一番強い主張だったと思う。

  

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2016年12月12日

太宰治の辞書

 以下の文章では、北村薫『太宰治の辞書』の内容に触れています。ご了承ください。

 円紫さんと私シリーズ。北村薫の書いた人気シリーズだ。
『空飛ぶ馬』(1989)は北村のデビュー作で、その後、1990年代に『夜の蝉』『秋の花』『六の宮の姫君』『朝霧』と続き、そこで途絶えていた。
 それがいきなり再び2015年に現れたのが、本作。
 もともt、円紫さんと私シリーズは、最初の作品では大学生だった「私」と、落語の師匠・円紫さんが、日常の中で起こる不思議なことを解決していく、人の死なないミステリーだった。その後、人の死ぬ話も出てきたが、基本は日常生活を離れることはなかった。また、「私」が日本文学を研究する大学生であることから、文学上のミステリーというべきものを探究していく話もあった。それが『六の宮の姫君』だ。その後、「私」は大学を卒業し、出版社に勤めるが、90年代に描かれたのは、そのあたりまでだった。
 さて、今回の『太宰治の辞書』は(タイトルから見当がつくかもしれないが)文学探究のほうの作品である。
 今も本が大好きな「私」が疑問に思ったことを追究する。その「私」は今は結婚してひとり息子を持つ、働く母である。「つれあい」と呼ばれる夫は「私」が休日に仕事以外で出かけるような時にも快諾して手伝ってくれるような、いわゆる理解ある夫だが、それ以上の詳しいこと、つまり容姿や年齢は描かれない。息子についても中学生で野球部所属、という以外にはほとんど説明されていない。
 
 太宰治の辞書、の探究は『女生徒』に出てくる「ロココ料理」の話から始まる。「ロココという言葉を、こないだ辞書で調べてみたら、華麗のみにて内容空疎の装飾様式、と定義されていたので笑っちゃった」とある。
 こんなに「ロココ」の定義を悪く書いてある辞書なんて本当にあるのか。言われてみれば、辞書というのは、善し悪しの判断を感じさせるような定義というのはしないのではないか。
 ところが、では太宰の使っていた辞書はどんなものだろう、となると難しい。この作品で書かれているように、日常で使われていた小型の辞書などは、なかなか残らないからだ。価値ある古書として大切にされたりはしない。
 さまざまな辞書や百科辞典を引いた後に、残された太宰の書斎の机を撮った写真や『回想の太宰治』を読んだりして、ようやく、当時太宰が使っていたのは「掌中新辞典」だろうと見当をつける。側に置いて、外出の時は持ち出したくらいなのだ。小さいに違いない。実際に見た時の印象は「かまぼこ板」、と書いている。
 そしてその掌中新辞典には「ロココという項目はなかった。
 太宰は、心の辞書を引いていたのだ、という結末。
 なあんだ、と思う人もいるだろう。が、もちろん、本をめぐる話は、その過程を楽しむべきなのだろう。
 とは言っても、もう一度、「日常の中のミステリー」を円紫師匠に解き明かしてほしい気持ちは、やっぱり残るのだけれど。  

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2016年11月08日

本 贋作『坊っちゃん』殺人事件

 以下の文章では、柳 光司 の「贋作『坊っちゃん』殺人事件」の内容に触れています。ご了承ください。


 ミステリーをあまり読むほうではないので、「へえ、『ジョーカー・ゲーム』の作者がこういうものを書いているのか」と思った。もっとも『ジョーカー・ゲーム』も映画になったということを知っているくらいで、読んだことはないのだ。
 はじめのうちは特に、もとの『坊っちゃん』を思わせる言葉遣い・リズムで、よくよく『坊っちゃん』を読み込んで書いたのだろうと思われる。
 赤シャツが死んだと聞いて驚き、山嵐に誘われて、再びあの地へ行こうかという時の
「そうだな、まあ行かないでもない」
「なに、休めないことがあるものか」
というような喋り方も坊っちゃんそのものだ。
 再び四国に着く時の様子は、坊っちゃんが初めて赴任した時とまるで変わらないし、それが三年経っても、ここが変化していないことを示しているようだ。再会しても変わらない山城屋のおかみ。相変わらず、よそ者のしたことはすぐに町中に伝わる速さ。
 地元のばあさんとのやり取りにはさまる、坊っちゃんの感想
「田舎の噂なんて大抵こんなものだろう。死人に口無し。都合の悪いことは全部死人のせいだ。おちおち死んでもいられない」なんていうのも、いかにも坊っちゃんの思うことらしい。

 鍵を握るのは『坊っちゃん』本編では重要だが、そんなにたくさんは出てこないマドンナとうらなりくんである。こういう小説の場合、本編ではそんなに出てこなかった人のほうが「実は……」という話を作りやすいわけだ。
 漱石は、たいてい主人公などから憧れられる女性の内面は描かないからこそ、マドンナをこういうふうにアレンジできる。
 そして、漱石は決してあからさまには同時代の政治のことを描かなかったが、ここでは「赤シャツ=社会主義」「山嵐(堀田)=民権派」という対立があったということを謎解きの背景にしていく。東京から来た坊っちゃんが最初いったい何者かと疑われ、情に厚く熱心だから自分たちの仲間に引き入れたかったという事情も語られていく。
 この謎解きの部分になると、説明が多くなるから、もとの『坊っちゃん』の文章のリズムや表現をうまくなぞったような描写は、どうしても少なくなっていく。それが残念だが、もちろん、推理ものの、同期や背景を説明する部分というのは、どの小説でもそうなるものだ。
「こう読めるかもしれない」という物語として面白かった。
  

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2016年11月01日

家政夫と代理の母

 以下の文章では、テレビドラマ『家政夫のミタゾノ』と、原田ひ香の小説『母親ウエスタン』の内容に触れています。ご了承ください。

 
 10月21日から始まった『家政夫のミタゾノ』を見た。どう聞いても以前あったヒットドラマのパクリのようなタイトルだが、主人公は女装の男性。ほぼ無表情で、雇い主の家の「見られたくないもの」を暴いていく。ものすごく愛情深いというわけではなく、そんなにその家族から好かれるわけでもない。
 ただし、家事全般はきちんとやる。プロフェッショナルというわけだ。そのコツを見せる、というのも売りものらしい。第1回では、途中までミートソースを作ったのを急遽中華に、ということで「食べるラー油」を混ぜ、ナスを入れて麻婆茄子にするというワザ。シャツのシミを急いで抜く方法。浴室のカビを減らすには・・・・・・というのが披露された。
 一話完結なので、一見幸せそうに見える家族の「実は・・・」という部分を暴いていく趣向らしい。ただし、最後は一応のハッピーエンドにするようだ。ミタゾノがどうして女装しているのか、なぜ家政婦という仕事を選んだのか、もいずれ明かされるのかもしれない。
 ちゃんと起承転結があって、家事のコツも見せてくれてお得感を出している。次々と家に行くのだから、いろいろな家庭を描けそうだ。
 
 さて、同じ頃、『母親ウエスタン』(原田ひ香、2012年)という本を読んだ。これは、子どもの母親代わりになるために家庭に入り込んでいく女性の話だ。男、よりも子ども。子どもの母親代わりになることが目的。そのために男には近づくけれど。
 もし、これがドラマなら、きっと一回につきひとつの家族での顛末を描くのだろうけれど、小説だから凝った構成をとる。男に近づいてきて、一緒に住み始める話が語られたかと思うと、一見関係のないような、大学生の男女の話になる。実はその男のほうが、かつてふらりとやって来た「母親」に世話になって、それは一年半だったのだが、その時のことを今も忘れす感謝している。その人らしい人を見つけたので、自分から近づいていく・・・・・・という話。さらに、もうひとつ別の家庭の話、彼女がなぜそういう暮らしをするようになったかということも明かされていく。
 正直言って、この種明かしのような「なぜ」の部分は無くても面白いのに、という気もする。しかし、そうはいかないのだろう。代理の母を続ける彼女には、ひとりだけ自分の実の子を手放してしまった過去があった。姑に追い出されるように離婚して、それからこういう生き方をするようになったこと。実は次々に回った家族のことはよく覚えていなくて、今も実の子ひとりだけは忘れられないこと。
 そう明かされてしまうと、自分のてから失われた子の代わりを求めていただけなのか、とちょっと思う。奇抜な理由が必要だとは思わない。いっそ何の理由もなくそういう生き方をする女性がいた、という話のほうが面白い気がするが、どうだろうか。

追記 そうこうするうちに、『ミタゾノ』第2回が放映された。ふむ・・・いつも、いわゆるふつうの幸せな家庭(家族みんなで仲良く一緒に暮らす)が結末になるのなら、ちょっと面白くないかもしれない。全然別のドラマだが『家売るオンナ』が面白かったのは、家族という形は崩壊しても、あるいは世間一般的に見れば家族でない者どうしが一緒に暮らしてもいいんだよ、という例をいろいろ見せてくれたからではないだろうか。  

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2016年11月01日

映画『ベストセラー』

 以下の文章では、映画『ベストセラー』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 事実に基づく物語だそうだ。フィッツジェラルドをデビューさせ、ヘミングウェイの何作かを世に出した名編集者がいた。パーキンズという男で、家庭では妻と五人の娘の父。トマス・ウルフが持ち込んだ原稿を認め、手直しさせ、デビューさせる。ウルフはデビュー作で「天才」と評される。

 そこからが大変だ。2作目を書き上げるが、これも手直しの連続。二人で編集部に一日中こもったり、パーキンズの家にウルフが泊まったり、ほとんどスポーツ選手の合宿みたいだ。実際にパーキンズがどこまでウルフにヒントを与え、ガイド役を果たしたのかはわからないが、ここで見る限り、その指摘は的を射ている。たとえば、初恋の女性との出会いの場面を延々と比喩を使って描写するウルフに、初恋だろ、そんなことを思う暇があるか、と短く書き直させる、というように。
 しかしウルフにもパーキンズにも不安はある。こんなに「編集される」のは自分だけではないかと思うウルフ。酔って、「ヘミングウェイやフィッツジェラルドにもこんなに直させたのか?」とからむ。一方、パーキンズは、本当に作品をより良くしているのだろうか、もしかしたら「別の作品」を作っているのではないかと悩むこともある。
 ウルフのパトロンだったユダヤ人の夫人はパーキンズに嫉妬し、パーキンズ夫人は、夫は自分に持つことのできなかった息子の代わりにウルフの面倒を見ているのだと思う。
 本を読むのが仕事であり趣味でもあるようなパーキンズをウルフが一夜誘い出し、ジャズを聴かせる場面が楽しい。
 また、フィッツジェラルドやヘミングウェイとパーキンズの交流も挿入される。書けなくなったからハリウッドへ行こうと思うと言うフィッツジェラルド。スペインへ行くと話すヘミングウェイ。彼らのそういう姿を見ていると、今、小説を書くのに必死なウルフにパーキンズが入れ込むのも納得できる。
 二作目も高い評価を得たウルフだが、旅先で倒れ、短い生涯を終える。彼が死ぬ前に書いた手紙がパーキンズに届き、読み終わったパーキンズが涙をこぼすところでエンド。このタイミングが良かった。延々と泣くのを見せるわけでもなく、こぼれた涙を急いでぬぐうパーキンズの顔を少しだけ見せて、暗転。
 実際はどうだったのかは知らないが、ウルフがパーキンズの編集者魂も連れて行ったのでは、と思わせるようなラストだった。  

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2016年10月19日

夏目漱石の妻(ドラマ)

 以下の文章では、テレビドラマ『夏目漱石の妻』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 NHKの土曜ドラマ。連続4回。と言っても、1回が75分、CM無しだから、かなりの量。漱石の妻・鏡子のいとこにあたる房子がナレーターをつとめ、途中から房子自身、夏目家で家事手伝いをするようになる。
 あくまで「妻」中心だ。だから、ロンドンでの漱石は一場面も描かれない。もちろん、ロンドンで調子が悪くなったらしいという噂を聞いた鏡子の反応は描かれる。そういう意味では、妻・鏡子を演じた尾野真千子を堪能するドラマだったと言っていい。
 正直言って、このドラマでは、鏡子がなぜ漱石を愛したのかは、よくわからない。漱石の側は、たぶん自分よりタフなところのある鏡子に惹かれたのだと思う。
 ここで描かれる漱石は、ひと昔前の「モノを書く主人」のイメージそのものだ。家によく人が来る。学生もいるし、自身の体験を小説にしてくれと言う者もいる。そして彼らは平気で食事をしたり、夜遅くまで居座ったりする。妻としてはたまらないだろうが、その頃はまだお手伝いさんもいたから、ましだったのか。しかし、家計はいつも火の車で、朝日新聞へ入社してそれまでより高い給料を取るようになっても、あまり裕福そうには見えない。それなのに、漱石は自分の「良い本棚」は、妻に相談もせずに買う。
 現代の女性には、なぜ鏡子がそんな漱石と生活を共にし続けたのか、わかりにくいだろう。そのために鏡子のほうが先に、知的に見えた漱石に恋をした、という設定にしているような気さえする。漱石を演じるのも、小柄だった実際の漱石とは違って、長身の長谷川博己である。
 結婚したばかりの頃の鏡子は、なかなか朝早く起きられないのだが、それがずっと続いていたほうが面白かったのに、という気もする。そういう図太く見えるところのある鏡子なら、漱石は離れられないだろうし、鏡子自身も、まあまあこんなものだから、と割り切って生活していけたように思う。
 しかしドラマでは、第1回で結婚間もない頃、漱石は自分が養子に出されていた体験を話して、愛情を素直に受け取れないというようなことを鏡子に話す。ならば、その漱石が愛情を素直に出せるようになっていく過程を描いてくれたら、ドラマとしては見ていて納得がいくだろう。ところが、そういう過程は描かれない。専業作家になってからの漱石はますます気難しくなっていくように見える。それなのに、ラストでは鏡子が悩んだ末に一応の平穏にたどり着いたように見えるから、その軌跡が今ひとつ納得しにくい。ドラマとしての昇華、というのか良かったという思いが少ない。
 ただ、いつもNHKのドラマを見ると感じることだが、セットや衣装は素晴らしいし、丁寧なつくりだ。漱石の養父が竹中直人で、大塚楠緒子が壇蜜というキャストも面白かった。  

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2016年10月12日

巨悪は眠らせない

 以下の文章では、2016年10月5日に放映されたドラマ『巨悪は眠らせない』の内容に触れています。ご了承ください。

 真山仁『売国』のドラマ化。テレビ東京が本社の移転を記念してつくったドラマの3本目。1本目が、宮部みゆき原作の『模倣犯』、2本目が湊かなえの短編のオムニバスだった。この2つはミステリーであり、殺人事件があった。それに対して『売国』にはあからさまな殺人はないし、恋愛もない。派手なアクションもない。これをドラマにするのは、けっこうな冒険だと思った。

 原作の『売国』では、検事の冨永真一と、宇宙研究・ロケット開発に携わる八反田遥の物語は独立して交互に語られ、二人が出会うのは一度だけだ。政治家のヤミ献金を追ってきた冨永が、その政治家が宇宙開発にからんでいることを知り、学者を巻き込んで、アメリカに研究成果を売らせようとしているのではないかと疑う。それが八反田の師事する寺島教授だ。だから、二人が出会った時の八反田は、富永にいい印象を持たない。
 ドラマでは、二人を早くから出会わせた。二人の話が絡み合ってクライマックスへ向かうところを描きたかったのだろう。原作に描かれた要素を少しずつ、順序を変えたりして取り入れているが、大きな違いは富永が独身だということ。その設定を聞いて、八反田との恋愛話になったら嫌だなと思っていたが、そうはならずによかった。
 時間的制約があるからか、富永は原作よりストレートに悪を暴く方向に向かうように見える。特に上司に直接「捜査を続行させてください」と訴える場面があるから「熱く」見える。しかし、その熱さ、若さは「永田町のドン」と呼ばれる橘との対比のためにも有効だったのだろう。橘は長年にわたって自分の本当の立場を隠し、周りを欺いてきた男だ。そんな橘と向かい合って話す中で(富永の親友・左門がそれ以前から橘に、富永のことを話していたとしても)橘に信頼感を抱かせるには、熱さと共に理解力・推理力を持つ人間だということを示す必要がある。自分の考えを橘の前で話した富永に、橘は満足そうな表情を浮かべる。
 独身の富永の部屋は、仕事に熱い彼が自分をクールダウンさせるために作っている休息所のように見えなくもない。クラシックの音楽、ジグゾーパズル、冷蔵庫に入った大量の水。それを見ると、なんだか現実味の薄い人間のようだが、親友・左門や実家の父への思いが見える場面が富永の人間味を出している。
 要所で出てくる階段も印象的。上司に訴える富永が駆け上がる階段。記者会見を開いて自分を逮捕させようという橘がしっかり前を見据えて一歩一歩踏みしめて上る階段。逆に内閣官房長官の中江は階段を下りかけたところで検事たちに同行を求められ、そのまま下っていく。
 そういう象徴的なシーンも入れながら、抑えた演出で、音楽も邪魔にならないがスリリング。原作よりも富永の明るい力強さの見えるラストにしたのも、後味が良かった。  

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2016年09月28日

ドラマ「一の悲劇」

 以下の文章は、9月23日に放映されたドラマ『一の悲劇』の内容に触れています。ご了承ください。


 スペシャルドラマとして放映された『一の悲劇』を見た。興味を持った点は、原作が法月綸太郎ということ(彼も島田推薦を受けてデビューした人のひとり)、脚本が今度の『キャリア』の関えり香だということ。探偵役となる法月綸太郎(そう、原作者と同じ名前)を演じるのが長谷川博己。
 ふた組の夫婦が登場する。山倉志郎(井原剛志)と和美(富田靖子)、富沢耕一(神尾佑)と路子(矢田亜希子)。山倉夫妻のひとり息子・隆史は本当は義弟の三浦靖史(浪岡一喜)の子だが、引き取って育てている。それは、和美が5年もの不妊治療の末やっと身ごもったのに流産して、子が持てない体になったためでもある。富沢夫妻のひとり息子・茂は実は路子と志郎のあいだにできた子。かつて、和美が流産してつらかった時期に、ふたりは不倫関係にあった。志郎はそれをいけないこととして別れたのだが、数年後、山倉夫妻は近所に越してきて、子どもどうしは仲良くなる。
 誘拐しかも誤認誘拐と思われる事件だった。隆史を誘拐したという電話があったのだが、実際に誘拐されたのは、茂。茂がいつも隆史を呼びに来て二人で学校へ行っていたのだが、その日隆史が熱を出して欠席したため、ひとりでいた茂が誘拐されたのでは、と最初思われる。
 実は、夫と路子のあいだの子である茂を見るに耐えられなくなった和美が、三浦に話を持ちかけ、三浦が計画を練った。三浦はミステリを書いたこともあるが、作家にはならず今はテレビディレクターの仕事をしている。それで、その日は法月綸太郎のところへ一日中取材に来ていて、アリバイがあった。実は法月の目の前で脅迫電話をかけていたのだが、あらかじめ録音したものとスマホがあれば、できるのだ。
 朝家まで来た茂を迎え入れてその場で眠らせ、ガレージに置いておき、夜になって殺害したのは和美。山倉志郎は身代金を持って走らされるが、それは茂の遺体を運ぶために時間を稼ぐ必要があったからだ。
 しかし協力者の三浦も、和子は殺してしまう。
 ここでの密室の作り方は『私の嫌いな探偵』にも出てきた、刺された人がまだ息のあるうちに内側から鍵をかける、というのだった。
 警視・法月貞雄(奥田瑛二)が綸太郎の父だし、綸太郎が一緒にいたということが三浦のアリバイになっているので、綸太郎が推理に乗り出したわけだ。
 法月家に長年つとめているらしいお手伝いさんの小笠原花代(渡辺えり)が面白い。コナンや相棒や金田一くんを引き合いに出して、ミステリマニアか?と思わせるが、彼女がいいので、逆に彼女の登場しないシーンが長いと(主に和美目線で描かれる、過去)ちょっとつらい感じもする。
 脚本はダレることはないが、茂が誰の息子かを路子が明かすシーンあたりから延々と流れる歌は必要だろうか? もう少し短くても(2時間以内でまとめても)良さそう。
 それと私は長谷川くんのファンではないので何だが、冒頭出てきたあと30分くらい出てこないのは、ファンだったら物足りないかも。そして、和美が落ちていく場面のやり取りはいまひとつ胸に迫らない。
 タイトルと最初の山倉志郎が駈けずり回されるところの画面分割が、1960~70年代の映画を思い起こさせた。法月家のインテリアはレトロで素敵だが、和美の逃げ込んだ別荘〈?)が安っぽい感じで残念。  

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2016年09月25日

『模倣犯』物語を壊すこと

 以下の文章では、ドラマ9月21・22日に放映された『模倣犯』の内容・結末に触れています。ご了承ください。


 原作を読んでいないので、まったくのドラマの感想。
 これは「物語についての考察」という面を持っている。現実に決して満足してはいない人物が、物語をつくり出す。そしてそれをできるだけ多くの人に見せたいと思う。衝撃的な話であるほうが注目を集めやすい。
 犯人の発想は、そんなところだろう。もちろんそれまでの生育歴が影響したことは考えられる。しかし犯人の一番の希望は「自分のつくった物語に多くの人が注目してくれること」だったらしい。
 そんな犯人には初めから罪悪感はない。後悔もない。罰されるべきだとも思っていない。自分のつくり出した物語は面白いでしょう? と言っているだけだ。
 そんな時、犯人を打ちのめすのは「あなたのつくり出した物語は、たいしたものじゃない。いや、それはあなたのつくり出したものですらない」と断言することだろう。
 まさに、そういう方法で犯人をやり込める話だった。

 もうひとつ、主人公にとって、これは自分の女性らしさを回復させる、あるいは回復したと見せる結末になっていた。話が進行するにつれて、夫は、家庭よりも仕事を優先し、子どもをつくらないできた主人公に愛想をつかす。
 その夫は、主人公がひとりで弱い立場にいて、助けを求めていると知った時に、彼女のもとへ急いで駆けつける。
 女性らしさ、というのも難しい。もし女性らしさの現れが男性に頼ることだとするなら、兄が犯人と報道されて打ちのめされ、真犯人に優しくされて幸せ、と言う由美子のような道をたどることにもなりそうだ。
 主人公は、初めはたぶん野心から、途中からは責任を感じて、事件を追跡した。その途中で離れていった夫。しかし最後に主人公は夫を頼って、夫を取り戻した。
 もしかすると、事件を追うことを通じて、どのように人を頼るべきかを学んでいったのかもしれないが……  

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2016年09月23日

増田みず子『月夜見』感想

 以下の文章では、増田みず子『月夜見』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 作者自身の分身らしい、50歳にはまだならないが、若くはない百々子。百々子の父は昔母と別れ、千代と再婚したが、それから10年とたたないうちに急死してしまった。継母の千代は下宿屋を始めて、なんとか百々子を養育してくれた。それから独立して、百々子はもう千代とは何の関わりもないようなつもりでいたのに、千代が入院し、千代の持つアパートの世話(家賃を集めるなど)を、百々子がするようになる。百々子は小説家であるが、入院中の千代を見舞い、アパートの掃除をしてくると、もうそれでその日は原稿が書けなくなったりする。
「孤独を描くのがうまい、というのが、小説を書き始めてからの二十年間に百々子のえた唯一の評価であった。しかし孤独な女主人公の登場する小説というのは、読者には重苦しいものである。」
というあたり、まさに増田みず子自身の思いを描いているのではないか、という気がする。
 しかし、私小説的に百々子の思いばかりを描いているのかというと、そうではない。百々子の日記の形をとった部分、もっと小説的に百々子、千代が描かれる場面、さらに「裏日記」も登場したりする。
 百々子は千代に対して意地悪なわけではないが、これまでお互いどうぞ勝手に生きましょう、というふうに生きてきたので、べたべたとした親しみはない。自分で千代を引き取る想像もしてみるが、あとでその想像の中の千代は食べ物にまったく文句を言わないような、自分に都合のいい人につくりあげていたことに気づく。実際には濃い味の好きな千代は、百々子の作ったものには文句を言いそうである。
 ふつうの会話をしてみたくて、百々子が「がんばって」と言うと、千代に「何をがんばるの」と返される場面など、百々子本人にはつらいのかもしれないが、思わずふっと笑いたくなるような場面も出てくる。
 後半になって、百々子の父の死んだ夜の回想も挿入される。妙にカンの働く千代、病院内で迷ったこと、その時の千代の言葉遣い。それらは百々子がこの夜のことは覚えておこう、と意識したために詳細である。もちろん、後から百々子の都合のいいように変えられた記憶である可能性もあるけれど。
 千代は、百々子は自分の本当の母親に会いに行ったほうがいいのではないかと言うが、百々子は結局それを実行しない。病室内で転んでさらに悪化した千代は、口もきけなくなる。そんな千代の留守宅にいると妙に親しげなおばさんが訪れたり、アパート管理もたいへんだと百々子は実感したりもする。
 全体を通して、千代と百々子の関係がだんだんわかってくるところが面白い。最後の場面で特に何かが劇的に変化するわけではない(千代もまだ生きている)。中学生で父に死なれた百々子は千代がいないと困ったし、今の千代は百々子がいないと困るだろう。都合で結びついてきたわけだが、人と人との関係はそういうものでもあると思うし、その当たり前な描き方がいいと思う。  

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2016年09月22日

荒馬と女

以下の文章では、映画『荒馬と女』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 クラーク・ゲーブルとマリリン・モンローの遺作。タイトルは知っていたが、初めて見た。モンローだけは衣装とメイクが別の人で、そういうのを見ると昔のスター女優さんだなぁと思う。もちろん、現在でも、そういう自分専用のスタッフの付く俳優さんはいるけれど。

 さて、そう思って見ると、モンローだけ衣装が異色。街から出かけた女だから、と言ってしまえばそうかもしれないが、乗馬シーンや野生馬を捕まえに行く場面ではさすがに白シャツにジーンズだが、それ以外は基本的にワンピースにヒール靴。男たちはカウボーイ風が多いから、余計に目立つ。
 離婚直後の彼女にまず目をつけたのは、中古車を買い取りに来た、何でも屋みたいな男。その知り合いがゲーブルで、こちらは完全にカウボーイスタイル。ロデオに行く時出会うモンゴメリー・クリフトもカウボーイ。
 さて、そのロデオを見に行く場面で、一番モンローの服装が目立つ。場をわきまえていない、と言いたいくらい。白地にさくらんぼ模様のワンピースで(襟元も背中もかなり開いている)、白い毛皮のショールまで持っていく。しかし、この肌見せと毛皮は、彼女を野生の動物に近づけて見せているような気がしなくもない。となると、周りの男たちにとって、彼女は捕まえるのが難しいけれどぜひ捕まえてみたい、と思わせる存在だと強調しているのがこの衣装ということになるのだろう。
 そう考えると、野生馬を捕えについていったのに、殺さないでほしいとわめく彼女は、男たちの気も知らずワガママを言っているというよりも、自分に近いものたちを傷つけられるのが嫌だという本能から叫んでいるのかもしれない。
 老カウボーイは逃がされようとした馬をいったん自力で押さえつけたあと、逃がしてやる。逃がすにしても自分で決めたかったと言う。それが彼の誇りなのだろう。
 その代わり、と言っては何だが、彼女が彼についてくる。しかし、彼女を捕まえることや放すことは、もちろんカウボーイの意思だけでできることではない。彼女自身は、今は彼と一緒にいることを望んでいるように見えるが、はたしてどうだろうか。いったん彼女を「野生動物に近い存在」と見てしまうと、ふたりの行く先は予想できない。  

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2016年09月03日

フランシス・ハ

 以下の文章では、映画『フランシス・ハ』の内容・結末に触れています。ご了承ください。

 公開された時には、それほど何がなんでも見たい映画というわけではなかった。が、ドラマ『きょうは会社休みます。』の第一話で、恋人のいない30歳になる女性主人公がひとりでレディースディに見ていたのがこの映画だったので、興味を持った。だから放映されたら、見ようと思っていたのだ。
 タイトルを見てまず普通の人が思うのは「『フランシス・ハ』の『ハ』って何?」ということだろう。苗字にしては短すぎる。これは最後になってわかるのだが、自分の部屋を借りた彼女が姓名を郵便受けに入れようとして書くのだが、実際の名前入れの部分は思ったより短く、紙を折って入れると「フランシス・ハ」のところまでしか見えない。だから彼女の苗字は「ハ」から始まる何かなのだが、どうもそれが映画中で出てきた記憶があまりない。たいてい「フランシス」と呼ばれているからだ。
 フランシスは28歳で、ダンサーとして正式にカンパニーに雇われることを望んでいるのだが、今のところ実習生という立場。大学時代からの親友、ソフィーと一緒に暮らしている。始まってからすぐにソフィーとお互いに「アイ・ラブ・ユー」と言い合うのだが、同性愛カップルではない。現にフランシスは付き合っている男性から一緒に暮らさないかと誘われるのだが、それだとソフィーがひとりになってしまうから、と断る。彼氏よりも親友優先なのだ。そこには、ひとりで家賃を払うのは無理、という事情もある。ソフィーが具体的にどんな仕事をしているのかはわからないが、ニューヨークは、まだ金をしっかり稼げるような仕事に就いていない人には、ひとりで住めるほど手頃な家賃の賃貸住宅はないのだ。
 ところが、ソフィーのほうは、前々から住みたいと思っていた地区に一緒に住まないかと誘ってくれた人がいるから、とその誘いに乗ってしまう。さらに、仕事の関係で日本へ行く彼氏についていくことになる。

 フランシスは実家に帰ったり、自分の卒業した大学で夏休みにバイトをしてその寮に泊めてもらったりする。
 パリに部屋を持っている、という人の話に乗って、思い立ってわずかな期間、パリを訪れたりもする。

 正直言って、28歳になって、決まった職につけないままに、でも実家に戻る決意はぜす(それはニューヨークでないと、ダンスの仕事はできないから)住処も危うい状態、というのはキツイ。今の日本であまり共感を得にくい立場だとも思う。それでも会話は軽快でくすりと笑わせるところもあり、まずまず見せてしまう。
 会話の多さとニューヨークへのこだわりは、ウディ・アレンの映画を思い起こさせる。最初のほうでフランシスが「ソフィー、大好きよ。たとえあなたが私より携帯が好きでも」と言うと、ソフィーは「携帯は汚れた食器を流しに置きっ放しにしないからね」と答える。そういうやり取りを面白いと思う人は、この映画を好きだろう。
 音楽は、古いフランス映画に使われたジョルジュ・ドルリューのものが使われていて(何の映画かは私にはわからなかった)、白黒画面と相まって、ノスタルジックな雰囲気も醸し出す。そういえば、アレンも白黒で撮ったこともあった。
 ダンサーとして認められそうにないが、振付師としての一歩を踏み出した彼女が初めてひとりで部屋を借りる。その郵便受けに名前を入れるところで映画は終わる。だからひととおりの成長物語とも言えるし、後味は悪くない。けれどもフランシスにとって真剣でもあり人生の大きな出来事でもあったさまざまなことが、傍から見ればちょっとドタバタした喜劇にも見える。そういう醒めた目も持っている映画だと思う。
 ちなみに、『きょうは会社休みます。』の主人公がひとりで見て笑っていたのは、ATMに慌ててお金を引き出しに行ったフランシスが帰り道で走って転んでしまう場面だった。  

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2016年08月20日

本格ミステリー宣言

 以下の文章では、島田荘司『本格ミステリー宣言』の内容に触れています。ご了承ください。

 図書館を利用するようになってから、本を買う冊数は少なくなったが、本屋やBOOKOFFに出かけて行って「うわ~こんなに本があるんだ」と眺めるのは好きだ。新刊本で目立つ所に置いてない限り、ある程度こっちから「会いに行く」必要があるのは何でもそうだと思うけれど、BOOKOFFで「きょうだけ使える50円OFF券」をもらって即座に「島田荘司」のコーナーに行って、一冊買った。

 小説のほうはだいぶん読んだので、買ったのは『本格ミステリー宣言』。講談社文庫。
 文庫は1993年刊だが、単行本は1989年に出たらしい。そうか、この後、90年代に大長編を毎年発表していく前の「宣言」だったのかとも思うし、この頃島田さんが推薦文を書いた新人だった綾辻行人、歌野晶午、法月綸太郎は、皆その後も作品を発表し続けているのだからたいしたものだとも思う。
 とにかく今になって読むと、島田さんは当時も今も、ミステリーのために若い才能を世に出すために尽力していたのだと感じる。この本には、島田さんが書いた文章だけではなく、対談やインタビューなども含まれるのだが、どうやら日本では「そのうち、ミステリー以外のものも書くのでしょう?」と尋ねられたりするらしい。つまり、ミステリーは一段低いものと見られているらしいのだ。が、島田さんはミステリーを書き続けているし、何よりミステリーが大好きらしい。
 中に収められた「本格ミステリー論」では、日本におけるミステリーの歴史、「推理小説」という呼称の使われ始めた時、松本清張以降、「社会派」が高く評価され、「社会派ではない」と判断されたものが一段低く見られる傾向のあったこと、などが書かれていく。
 そもそも島田さん自身は、大雑把に分ければ、小説は私小説を頂上とする「リアリズムの小説」と「神話の系譜」に分かれるのではないかという考えに惹かれ、もちろんミステリーは後者である。そして、「本格ミステリー」の定義も簡単に言えば、冒頭近くに美しい謎があり、それを徹底して論理的に明かしていくこと、だと言う。
 もちろん、「推理小説は文学か」というような、かつての論争についても触れている。
 現在の時点から見ると、この後、歴史的なことを踏まえつつますます海外へも舞台を移していったり、語り手が変わると縦書き・横書きと変わる構成にしたりという冒険をどんどんしていく前の、島田さんの宣言だったのだろう、という気がする。
   

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