2013年04月21日

日本の夜と霧

『日本の夜と霧』(1960年、大島渚監督)も私にとっては「題名を聞いたことあるが、見たことのない映画」の一つだった。しかも内容について、というより公開4日目で上映打ち切りになった、という話題のほうを多く聞いていた。
 
 安保闘争を通じて知り合った野沢と玲子の結婚式に乗り込んできた男たちが、消息を絶った、あるいは自殺したもと仲間たちのことを語り始める…
 結婚式で、新郎・新婦を含めた登場人物の過去を暴き合うのは確かに異様な事態かもしれない。現実には、1960年にだって、そうそう起こることではなかっただろう。
 それなら、これをひとつの仕掛けと見れば? 各人の過去にさかのぼるための装置と考えれば、面白い。
 批判し、決め付け合うようなやり取りは、日常生活を描いたドラマではなかなか見られないもので迫力がある。しかもこの映画は1シーンが長い。セリフを噛んで言い直しても、そのままシーンは続いていく。そのことが奇妙なリアリティを生む。私たちは常にそんなにスムーズに話しているわけではないのだから。
 
 この映画で主張する人々は、ごく限られた世代の人々だ。激しい闘争の経験がある野沢と、話し合いによる平和的実現を目指す玲子は違う世代に属しており、玲子たち(この中では若い世代)の主張は描かれない。
 闘争が良かった、という懐古ではない。自分たちの活動は何だったんだ、という疑念が色濃く、それはうんと抽象拡大化すれば、どんな人にも身に覚えがある、と言って言いすぎなら少なくとも「わかる」感覚だろう。自殺した高尾は「いったい俺という人間は今まで何をしてきたんだ、これから何をしようというんだ」と呟くが、そういう思いなら、思想に関係なく「わかる」と感じる人は多いのではないだろうか。

 今の目から見れば、女性の描き方のほうが気になる。「君にも人格があったのか」と揶揄されるのが、女性の中で一番出演場面の多い美佐子。
 男たちが見張りをやれば美佐子はおにぎりを届け、男たちのひとりは美佐子と肉体関係を持つと、自分の言うことを聞かせようとする。もちろんそれは「男たちはしょせんこの程度だった」という皮肉なのかもしれないが…
 議論の末にとりあえずまとめ上げて前向きにいきましょうよ、とならないところが映画としてはいいと思う。皆で協力して、少しでも良くしていきましょうよ、というのに私たちは慣れてきている。もちろん、それは間違いではない。でもたまにはこういう、殺し合いでも破壊でもないけれど絶対にまとまらない結末をぽんと見せられると、一種の力強さを感じる。


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