2018年02月01日

舞台「危険な関係」

 昨年のことになってしまったが、鑑賞した舞台「危険な関係」のことを書いておきたい。なお、舞台の内容・最後のみならず、これまでの映画化についても触れています。ご了承ください。

 何度も映像化されている作品だが、私の見たことのあるのは、ロジェ・ヴァディムの二度の映画化、スティーブン・フリアーズのもの、ミロシュ・フォアマンのもの、そして舞台ではアダム・クーパーのバレエ。バレエは表現方法がかなり違うので置いておく。
 ヴァディムの一度目の映画化はジャンヌ・モローとジェラール・フィリップという魅惑の顔合わせだが、私は実は二度目のが結構好きだ。ナタリー・ドロンとジョン・フィンチとシルビア・クリステル。何しろシルビアがトゥルヴェル夫人だからフルヌードあり。ジョン・フィンチもヌードで。フィンチというと、これ以外には『マクベス』『ナイル殺人事件』くらいしか見たことがないのだけれど、ここでは我儘で繊細な感じ。彼が致命傷を負って倒れた瞬間にバッサリという感じで終わる、その終わり方も気に入っている。

 さて、今回はもちろん、玉木宏がヴァルモンを演じることに興味があった。一般的なイメージからいけば、ぴったりではないだろうか。貴族で、チャーミングで、女に不自由していなくて、恋愛をゲームとして楽しむ。年上のメルトゥイユ夫人とかつて恋人どうしだったというのも、彼のこれまで演じてきた役で年上の女性と恋仲になるのがわりとあったことからも自然に思える。

 舞台は18世紀フランスには見えない、巨大な引き戸(透明なものと、向こうが見えなくなっているものとある)を活かした空間。引き戸の向こうは庭であったり、寝室であったり、場面に応じて適宜変わっていく。そして戸の上方や、柱に当たる部分に、たとえば「八月 メルトゥイユ侯爵夫人邸」というように時と場所を示す字幕が投影される。この字幕と引き戸の活用で、場面転換をスムーズにしている。
 
 私が初めに見たのは二日目(初日はチケットが取れなかった)。正直に言うと、ちょっと焦り気味な感じがした。場面転換がスムーズなのは良いのだが、役者さんたちが息つく暇がない、という感じなのだ。特にヴァルモンはセリフの言い方が速く、もう少しゆっくり時間をとってもいいのではないかという感じがした。
 三日目になると、セリフの速さになじんできた。捉え方によっては、この話し方はヴァルモンの生き急ぐような、どこか自分の破滅とこの社会の終わりを予感しているようなところをも表しているような気がした。
 しかし、誤解を恐れずに言うなら、演出が活かそうとしたのは、玉木のセリフ回しより、まず身体だろう。細見で筋肉質、なめらかでごつごつした感じがないのに、力強い。白いシャツに身を包んでいると、どこにこんな清潔で高貴な人がいるかしらという趣なのに、上半身裸になると危なくセクシー。適切な場面で彼の上半身を見せることによって、実はこんな危険な男、というのを説得力を持って見せる。
 脱ぐとすごく鍛えられた身体なのだが、顔が小さく着やせして見えるのは、ラスト近くの決闘シーンにも効果的。ダンスニーは死にもの狂いなので卑怯な手も使って執拗に攻める。ヴァルモンはどこかそれを受け入れている感さえある(「いいじゃないか、正当な理由があったんだ。それに引き替え、俺のしてきたことといったら」という最期の言葉がそれをほのめかしているようにも思える)。
 そしてその身体が細く長く横たわったまま(つまりヴァルモンの死体は舞台上にあるまま)最後の場面を迎える。最後に「ゲームを続けなくては」と言ったメルトゥイユ夫人は目隠しをされ、身体を何度か回される。もちろん、夫人の言葉を素直に受け取れば、これは「ゲーム」なのだろうけど、目隠しをされたままの彼女が宙を探るように腕を伸ばすところで暗転して終わる、という最後は、ちょっとヴァディムの二度目の映画版のラストを思わせるようなぶった切り方でもあって、余韻というよりショックを味わわせるような終わり方だった。

 ここで、いったん切ります。


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